第3話

七月の終業式が終わり夏休みが始まった。数日ほど出勤した後、一週間の休暇を使い札幌市内にいる妻の実家に帰ってきた。私が受け持つクラスの生徒たちの事に関心があるのか、勉強に関する事や生徒の興味のある事は何かと嬉しそうに話しかけてきた。


私は二十代で出会った最初の妻と結婚をし、後に私のある行動をとった事を境に、離婚する事になる。まだこの頃はそのような運命になるなど、想像すらつかなかった。その晩彼女の両親とともに外出して、夕飯を共にした。

再び自宅に帰ってきて、就寝時に寝室のベッドに入ろうとした時、彼女が私に寄ってきて肩にもたれた。


「どうした?」

「もう一度、私達の子どもの事考えてくれない?」

「前にも話だが、俺が精子の数が少ないからできるかどうか確率はほとんどないんだ。」

「試すだけ、試してみようよ。できるかもしれないよ?」

「そんなに子ども、ほしいか?」

「ほしい。貴方がいる間にわずかな望みが叶えられるなら試したいって考えていた。」

「分かった。今日してみよう」


私は深夜の静まる偏狭した面持ちの中で彼女と声を潜めるように営みを始める。濡れない膜に少しだけ痛がってはいたが、彼女の為にと最後まで抱き励んでいた。


「無理しないでくれ」

「大丈夫。疲れているのにありがとう」


私は彼女の額にキスをしたあと深い眠りについていった。


翌週に再び福江市に戻り自宅の部屋を開けると湿気がまとわりつくように少しだけ息苦しさを感じ、窓を開けて空気の入れ替えを行なった。

煙草を吹かしながら扇風機のスイッチをつけて、ソファに腰をかけ、僅かばかりの間だけ部屋に入り混じる風を感じては目をつむる。

ファックス付きの電話が着信を鳴らし留守電へと繋がると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


望月だ。


すぐさま受話器を取ると休み中の各教科の課題を友人と一緒に見てほしいと言ってきて、これから時間が空いているかと尋ねてきたので来てもいいと返答した。二時間ほど経ちインターホンが鳴ったので、玄関のドアを開けると望月と二組にいる入江という男子生徒が一緒に来ていた。

二人を部屋に通しリビングのテーブル席の所に座らせ、食器棚からグラスを出してインスタントの麦茶を出してあげた。早速彼らは現代文や古典国語、数学の問題集を広げて私に質問してきた。


「日本語って何でこんなに難しくしてあるんだろう?」

「それが日本人特有の言い伝え的なものだしな。社会人になってからどこかで役に立つ事もあるし。だから今できるうちにしっかり勉強しておくんだよ」

「私は教えてもらえるうちはたくさん先生から聞きたい。三年間なんてあっという間だしさ」

「望月、卒業したら福江に残る?それとも函館か札幌行くのか?」

「いっそ東京にでも行きたいな」

「大学に進学するんじゃないのか?」

「もう少し考えてからにする。……ねぇここの例文からなんだけどさ……」


望月はいつもの明朗な表情とは違いどこか冴えない気分になっていた。具合でも良くないのかと尋ねたが大したことはないと答えた。

彼女は入江にジュースが飲みたいので買い出しに行ってきてほしいと言い出し、彼はきを使わせるなと言い放つも近くのスーパーで併せて菓子も買ってくると言い、私が金銭を出してあげると自転車で出かけに行った。


「気をつけろよ」

「望月、先生に手を出すんじゃねーぞ」

「何よバーカ!」


彼女と二人きりになると、先程入江が発した言葉に動揺したのか、咳払いが数回出て、彼女は分かりやすい性格だと言い、揶揄からかうなと返事をすると含み笑いをした。

しばらく無言の時間が流れて入江が帰ってくるまでの間、望月も黙々とペンを握り問題文を解いていく。その様子に気づいて彼女に話しかけた。


「理数系が得意だよな。僕が見なくても大丈夫じゃないか?」

「……ああ、この二次関数だ。先生、このグラフの数式が引っかかるの。」

「y=四xの二乗のグラフはここの点から……」


私は彼女のすぐ隣に座り、お互いの腕が触れ合っているのを横目で気になりながら問題集の本を手に取り読み上げていく。外気の熱風より体内の温度が上昇して熱くなるのを感じていた。

彼女は私の顔を覗き込み、どうしたのかと問うとまた黙り込んでいた。


「入江、遅いな。あいつどこかでジュースでも飲んでいるんじゃないか?」

「誤魔化さないでください」

「何だ?」

「あいつが帰ってくる前に……触ってみる?」

「何を?」

「私の身体。」

「何を考えているんだ?」

「先生の方が何を考えている?腕に触れているのにどうして離れないの?」


私は咄嗟に離れて立ちあがろうとしたが、彼女は私の腕を引いてきたので、思わず身体が寄りかかり彼女の肩に手を掴んだ。

すまないと答えたがじっと私の顔を見て右腕を伸ばし頬に触れてきた。


「先生の事、本気なの。」

「そういう冗談は……」


彼女は両膝で立ち私の唇にキスをしてきた。

扇風機の風が時折当たり、窓のカーテンが静かに戯れる。私は瞬きをしては彼女から漂う石鹸のような柔らかい香りに僅かに酔いしれる。


「逃げなかったね。」

「何に?」

「キスしても私から逃げない。先生、気持ちが顔に出ているよ」


確かに逃げる事は考えていなかった。それよりも自分を好きだと言ってくれた事が、この時はたまらなく嬉しさが溢れ出そうになっていたのは事実だった。

だが既にこの時から、周囲への裏切りが始まり築き上げてきた絆たる鉄塔の破片が剥がれ落ちようとしていた。

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