第2話

時間を戻してみようか。


三十年前の一九九三年の四月。私はこの頃、北海道の渡島おしま半島内に分布する山岳地帯に囲まれた道南地区の公立高校にて保健体育専門の教員として在籍し、着任から五年目の春を迎えていた。

日差しが低く照らし、山間の雪が解け河川の水面も解氷した頃、緊張した面持ちの中、桜色に彩られた正門をくぐり抜けて新しい学舎まなびやに入る皆の笑顔を見守りながら、私も新入生たちを出迎えた。


体育館で入学式が始まろうとした時、一人の生徒が廊下を駆け足で走り、その扉が開いた瞬間皆が一斉に彼女の方を向いた光景を今でも覚えている。肩にかかる長い黒髪を整えて、他の教員に席を案内されて着席した。

閉式の辞が終わり、生徒たちや保護者たちは各教室へ向かい、その新鮮な香りに包まれて名前の貼っている机を探して席に着いた。


一年三組。私がこれから担当する教室へ足を運んでドアを開けると、あどけなさが残る生徒らの表情を見渡して挨拶と自己紹介をした。

出席簿に記載してある名前を読み上げていく。その中に先程遅れて入ってきた彼女の名前を呼ぶと、恥ずかしそうに返事をした。


望月紗奈。その眼差しは初々しさを感じ、頬をとき色に染めて大きな瞳を輝かせながらこちらを見ていた。他の生徒より容姿は目立ち、凛とした姿勢が第一印象として脳裏に焼きついた。

学内の案内や教科書などの持ち物の確認をして保護者への挨拶が終わると、休み時間のチャイムが鳴ると皆がため息を漏らした。


「来週から授業が始まるので、忘れ物のないよう各自確認してください。今日はこれで終わりです。帰りの際気をつけて皆で一緒に下校するようにしてください。教員一同、楽しみに待っています」


一度職員室へ向かい、再び生徒玄関口や正門で見送りをした。教室へ行くと、誰か開けたのか窓から柔らかな風が吹いて辺りの空気と悪戯に交わっていた。机を整頓した後職員室へ行き、次週から始まる授業に使う教材の準備の確認をし、その日は十四時で退勤した。


二ヶ月が経ち道内の雨続きの日が明けた六月の最後の週の夕刻。五時限目の授業が終わり、職員室に入り、座席に座ろうとした時向かいに座っている教員から、私のクラスの生徒から伝言を預かっていると告げられ、メモ紙を受け取り開いてみると相手は望月紗奈からだった。

十九時になったら電話をかけてほしいとひと言書いてあり、その紙を手帳に挟んで終い、学校を退勤して自宅に着いた頃時計を見ると、針が十九時近くを差そうとしていた。


少しだけ早いが電話をかけてみると、はじめに彼女の母親が出てきて受話器の向こうから返事をする声と階段を降りる足音が聞こえて、やがて彼女が電話に出た。


「先生こんばんは。遅い時間にすみません」

「話したい事って何?」

「……明日の放課後に二人で話がしたいんです」

「勉強の事か?」

「今、親が近くにいるからあまり話せない。お願い、時間を作ってください」

「分かった。とりあえず明日教室で待っていて。それでいいかい?」

「はい。お願いします」


彼女は何だか嬉しそうな声をしていた。話したい事は恐らく同級生の子たちについての事だろうと軽い気持ちで考えていた。

翌日の夕刻、職員会議を終えて教室へ行くと、望月が自分の座席に座って待っていた。


「遅かったですね」

「先生同士で会議があった。」

「先生の自宅、私と同じ方向だよね。途中まで、一緒に帰りませんか?」

「ここじゃ話せないのか?」


彼女は無言でうなずく。じっと私の顔を見て何かを訴えてきそうな顔色している。とにかく早く学校から出たいと言ってきたので、その日は一緒に下校することにした。

それぞれ自転車置き場から自転車を出し、正門で待ち合わせをしてから、数キロ先の河原まで前後に並んで走った。途中私は自転車から降りて話そうと声をかけると、彼女も一旦停まり自転車から降りた。


山下さんかに広がる田畑や家が散村地帯のように立ち並ぶ景色の中、河原沿いを二人並んで歩く。


「あのね、まだ学校入ってそんなに経ってないんだけど、……好きな人ができたんです」

「その話を僕に?」

「はい。」

「好きな人って同じクラスの人?」

「違う」

「他のクラス?」

「違うよ」

「じゃあ、他の学校?中学校の同級生の人か?」


すると、望月は立ち止まり私を見つめてきた。何度質問してもなかなか答えようとしてこないので、何かあったのかと聞いてみた。


「先生だよ」

「え?」

「私、平潟先生が好き」


何が起きたのか一瞬だけ分かりにくかったが、相手を間違えていないかと話すと、そうではないとはっきり答えた。


「お互いがどういう存在かわかっているか?」

「分かるよ。」

「どうして先生なんだ?」

「私のお願いを聞いてくれるかと思って……」

「もう少し、考え直した方が良い。僕も離れて暮らす妻がいるの、知っているよね?」

「その替わりになりたいんです」

「替わりにはなれない。そんな考えはやめて新しい人を好きになった方が良い。もし仮に誰かに知られたら、学校に居られなくなることにもなる。」

「決めつけないでください」

「望月、今日はもう帰りなさい。……また改めて話そう」


「待って!」


彼女は声を絞るように私を呼び止めた。その声に反応して振り返ると、眉をひそめて目を潤ませながら物憂げな表情で私を見ていた。


「もう一つ、聞いてほしい事があるの……」

「何だ?」

「耳、貸して」


彼女は自転車のスタンドを下ろして止め、私に近寄って耳元である言葉をかけてきた。


「先生のあれがほしい」

「あれって何?」

「精子」

「え?」

「私に先生の、精子をください……」


私は彼女の唐突な発言に返す言葉を失った。

その日から彼女への「奉仕」が始まり歯車が狂い出そうとしていた。


望月紗奈、君は一体何を考えているのだろうか。

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