砂の盾

桑鶴七緒

第1話

まだ残暑が入り浸るくらいに敷き詰められた空気穴のないような夕闇の街の空に、季節外れの花火が打ち上がる。


程よく流れていた通行人は立ち止まり目を輝かせては密やかに声を発して楽しんでいる。それを横目に雑踏を通り抜け路地を歩いていくと、ある家の庭で花火を楽しむ親子の姿が目に入った。夏の風物詩がなぜこの十月の時期に賑わっているのかが不思議なくらいだと連想する言葉が膨らんでくる。


平潟ひらかた 真弘まさひろ。この背に乗せた比重とともに靴を鳴らしながら家路に向かう。それから十数分して帰宅し一息つくと妻の由梨枝が夕飯を出してくれた。食事を済ませ書斎に入り机に向かう。

バッグから本を取り出しスピンをかけてある続きのところから読み出した。二時間は経っただろう、就寝の時間が近づいて再びスピンをかけようとした時にある熟語に目が入り思わず身体が固まりそうな感覚になった。


もう過去の出来事だ、私には関わる事ではない。


何度か自分に言い聞かせるように本を閉じようとしてもその言葉が再びあの頃の私を蘇らせようとしている。次第に片手が痙攣けいれんし始めもう片方の手で押さえても、震えは止まらない。あの頃の私はもう戻る事はないのだから、こんなに怯えなくてもいい。


呼吸が乱れてきたので、席を立ちリビングにいる由梨枝を呼び、彼女から冷水の入ったグラスをもらうと、ゆっくり飲みながら深呼吸をした。背中をさすりながらなだめる彼女を横に、私は無防備で冷酷だったある一人の少女の事を思い出した。


あれは仄暗い檻の中で人目につかない閉ざされた一室でのむごい仕打ちを浴びた上、晒し者扱いにされて再び凍てつく鉄格子に放り込まれた残忍な容姿。

そう、紛れもなくその身は私そのものだった。その姿を見ては嘲笑い、挙げ句には死の冒涜へと導こうとした卑猥な天使。この世にあれ程の悪をまとった者はいないであろうと、どこかで甘く見てしまったのだった。


「どう、落ち着いた?」

「ああ。すまない、またあの事が頭によぎって……」

「明日会社行けそう?」

「それは大丈夫。あともう少し、頑張らないとな」


私は今勤めている会社をこの春で定年退職する。この時期になると思い出したくもない過去の記憶が毎年のように訪れる。六十五歳になり、若い頃よりも行動力が減り年々身体の衰えを感じるようになった。

余生すらいつまで元気でいられるだろうか。旅立ちの日が迎えに来るのも近いだろうと、知らず知らずのうちに考えてしまう。人間はこんなにも弱くなる生き物なのかとしみじみ思うばかりだ。


二十年近く支えてくれている由梨枝の存在がこの上なくありがたい。そうだ、あともう少しだ。この辛抱を乗り切れれば私にだって神様は味方をしてくれるはず。あの頃の自分も一日でも早く悔い改めて出所する思いで、どんな憎しみさえも怯えながらも与ええらた運命を駆け抜けるように白線を切った。


時折自分自身が怖いと思う事がある。

私と関係を持った少女が今でもどこかで生きているのではないかという思い。判決が下され刑務所に向かう当日のあの朝、拘置所の護送車に乗り込む際に人集りの向こうで見かけたあの少女。


そうだ、望月紗奈。彼女だった。


一時いっときの過ごした愛おしかった日々はその顔には何も残されてはおらず、私を見ては片方の口角を上げて冷酷な表情をしながら見送っていたのだった。あれは愛ではなく奉仕だった。

彼女のある願いを叶えるために私も協力したものだった。結果としてはお互いに無惨な足跡を残したまでだ。


紗奈、なぜ私だったのだ。なぜ私を選んだのだ。男などいくらでもいたはずなのに、何の取り柄もないこの私を選んだのだろうか。


「精子」


読みかけの本の一節文に目が入った。この熟語がどれだけあの頃の自分を痛ぶらせたか、他の人間に与えるなどどうかしていた。全ては愚かな自分の選んだ奉仕だった。

一途になりながらその印影を掴まえては抱き抱え、そしてまた暗がりへと逃げていく。弄ばれていたかのように聞こえるかもしれないが、それは相手の完全なる策略だった。


紗奈。今でも忘れもしないその名前。


もし君が生きているなら今すぐに出てきてほしい。君は会いたくもないだろうが、私は君にこの姿を見せてやりたい。今の私が理解できたなら、この手の中ではなく自分自身の手で扼殺してくれないか。君もまた自分の身体にメスを入れたのだから、そのくらいは天罰として受けとめて、そして目の前から瞬く間に消えてほしい。


紗奈、君はその子を抱きながらどこかで泣いているのか。もしその子が生きているのなら、私に会わせてくれないか。いつか来る死を迎える前に聞きたいことがあるのだ──。

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