第39話

クオスが初めてケンカをした日から5日が経った。クオスの世界はゆっくりと輪郭を持っていく。

「描けねえ」

「クオストヤ……」

筆に何の色を乗せたらいいか分からない。この世界は鮮やか過ぎる。目の前で狼狽えているホタルの瞳の色でさえ、もうすぐ見える気がする。

「大会のプレッシャーでも感じてるの?あなたらしくないわね」

「……プレッシャーか、そうかもなあ」

(いや、多分……これは)


(俺ちゃんが本気で絵を描きたいかを試されてる)


(すぐに答えなんて出るかよお)


クオスは描くしか無かった。だから描いていただけだ。見えない闇の世界を失ったら、自分はどうなってしまうのだろうか。それでも絵を描きたいと思えるのだろうか。

「分かんねえぜえ……」

こんなに苦しいなら、いっそ。真っ暗闇の世界で絵を描き続けていれば。


―クオスもきっと、大人になったら皆と同じ世界が見えるようになるからね。


―大丈夫、大丈夫だから。ごめんね、ごめんね、クオス……。


―ごめんね……。父ちゃあのせいで、世界がこんな風に見えるなんて……辛いよね。ごめんね……。


「いてっ」

転ぶ。何かにぶつかった。いつものことなのに、何故か今日は痛くて涙が出る。

クオスはまだ、大人にはなれない。



部活を途中で抜けて、校舎の外に出る。こんな早くから帰ったら何か言われそうだ。でも、部室には居たくなかった。

「カラオケでも行くかあ。あっ、そうだ。アイトーグ誘うぜえ」

スマホを取り出して、アイトーグに電話をかける。知り合って5日だが、最近は放課後毎日遊んでいた。ケンカをしたのは初日だけで、ゲーセンとかカラオケとかファミレスで遊んでいたが。

「おっ!繋がったぜえ。……アイト、」

『誰だてめぇは』

「ん?」

アイトーグにかけたはずだが、アイトーグの声では無い。

『アイトーグの舎弟だろ?』

『あー、いたような……ちいせえヤツか』

『っ、クオス……!』

「アイトーグ?どうしたんだよお。誰かといるのかよお」

アイトーグの声が遠い。

『コイツとケンカしてんだよ。いつも通り、な』

『しぬことはねぇから心配しなくていいぜ。てめえは丈夫だもんなぁ?』

『っぐ……!ふっう……!』

「な、何してんだよお。どこにいんだよお、アイトーグ!」

『はあっ……!来るな!クオス!こ、これは、俺の問題だ……!』

「でもよお、あんた、苦しそうだぜえ」

『俺は大丈夫……しぬことはねぇ……』

「……」

殴る音が聞こえる。ケンカなのか?とても不利な状況の?

『まあ舎弟くんも一緒にかわいがってやってもいいけどな!』


『っ……!来るな!俺の問題だ!お前は巻き込まねぇ!』

「……わかったぜえ」


「俺ちゃん、行かねえぜえ」


電話を切る。目を閉じて、深呼吸。ゆっくりと目を開けると、また少し世界の輪郭が繋がった。


「全部の色が見えるまでに、あんたを見つける」




「舎弟くん、来ないって?」

「やっぱりアイツも気づいたんだろ。お前と関わると面倒なことになるって」

「お前、大統領の息子だろ?ま、俺は怖くねぇけどな!」

「父さんは俺のことなんて気にしてねぇ。……うあっ!」

「……まあ、これはただの遊びだからな」

「……」

「そうそう!ただの遊び!お前もそう言って同意したんだろうが。じゃねぇと、怖くて殴れねぇよ。大統領の息子なんてさ!」

「だよなー!でも、大統領の息子を殴るのってすげースカッとする!」

「だろ?別に恨みなんてねぇけど、なんとなくムカつくもん……なっ!」

「うお゛っ……!」

拘束されたまま腹を殴られる。こんなこと今までなかったのに。


(エスカレートしてやがる……)


(クソ……痛ぇ……)


殴られた頭が、腹が、手足が痺れている。


「大統領の息子がケンカでこんなザマ!っふふ、写真でも撮ってやろうか?」

「……」

「妙に大人しいな。いつもは反抗的な目で睨んでくるじゃねぇか」

拘束されて囲まれている以上、自分にできることなどない。

アイトーグはそう思って諦めていた。

(レイ・ストワードの名なんて、俺には勿体ねぇな……)



「……うお!?」

「何だ!?痛え!」

「こ、コイツ!離れろ!」


周りの男子生徒が次々に驚きの声を上げる。

真っ黒な髪とミント色の瞳が見えた。

「クオス!?!?」

「俺ちゃん参上だぜえ」

「なんで……!来るなって言っただろ!」

「……楽しそうなところには、行きたくなっちまうの」

「クオス……」

「一緒にケンカしようぜえ」

「……!」


「てめえ!舐めやがって!」

背中を蹴られた。堪らず前のめりに倒れる。

「ぼ、ボス!」

「せっかく大統領の息子を殴って気持ちよかったのに!チビに邪魔されるなんて腹立たしいにもほどがあるぜ!」

「う゛うっ……!」

「てめえなんてな!何も出来ねぇんだよ!コイツの代わりに殴られる価値もねぇ!」

ボスと呼ばれた男は高校生ではないようだ。制服を着ていない。

「俺はレイ・ストワードを殴りに来たんだ!お前に用はねぇよ!」

「っ、クオス!クオス……!」

「……はあっ、はあっ、うう……いてて……」

拘束具が外れない。アイトーグは必死に手足を動かす。

「クソ!……クオス!はやく逃げろ!」

「心配すんなよお、俺ちゃん無事だぜえ……。……うっ、ああ゛……」

「何言ってんだよ!お前を巻き込みたくねぇんだって!」

「大丈夫だぜ……。あんたが見えてる限り、俺ちゃん、幸せだから」

そう言って笑う。

「訳分かんねぇよ…………」




結局、二人とも散々殴られ、路地裏に放置されてしまった。

「クオス……意識、あるよな……?」

「あー……あるぜえ……」

「さすがに、今日は病院行かねぇと……やべぇ気がする……」

「俺ちゃんも……なんかやべえぜえ……」

様々なところから血が出ている。二人は倒れたまま動けない。

(刺激強すぎたぜえ。また色の判別つくようになっちまった……)

隣で転がっているアイトーグを見る。朧気な青。地面は……何色だろうか。黒では無い色に見える。

「……びょーいん、い、こ…………アイ……ト……」

「クオス……しっかり……しろ……」

二人は完全に意識を飛ばしてしまった。



「……それでどうしたんだい?面倒なことになったんじゃないだろうね」

「問題ない。その後すぐに女性の付き合っていた恋人が来てな。回収されていた」

「はー、良かったぜー。知らないうちに他人の女の子と寝ちまったら保安官としてやばいもんな」

「そうか?」

「そうだろう!あんた、少しは危機感を持ってくれ!」

「あっちから誘ってきたが」

「そういう場合もあるが……。ジスラが裁くときはそういう言い訳は聞くのかい?」

「聞かん」

「じゃあ有罪だろー。普段そういう仕事してるんだからさ、人一倍こう、ちゃんと考え…………。ん?なんか変なにおいするな。ってジスラ!?」

ジスラが急に走り出す。慌てて追いかけるドミーとトナ。

「こっちか」

「はあっ、はあっ……なんだよー!無言でどっか行くなよ。俺が話してただろー……え!?は!?く、くく、クオス……!?」

「うおっ……!えっ、クオス……!?」

路地裏に血だらけで倒れていたのは制服を着た男子高校生二人。

「クオストヤと、誰だ?」

ジスラはこういう現場を見慣れているのか冷静に二人の顔を見ている。

「あ……!リクオジサンの長男だぜ!」

アイトーグはトナとは血が繋がっている。

「とにかく救急車呼ばないとヤバそうだ!俺電話する!」

ドミーがスマホで緊急電話をかける。

「トナ兄、クオスをここから運んでくれ。救急車から見えるところに移動する」

「あぁ、わかった」

ジスラがアイトーグを担ぎ、トナがクオスを担いだ。

「……はい、場所は…………あぁそうです。中央西地区で合ってます。……二人です。付き添いは……一人で大丈夫です。ありがとうございます。すみません……」

ドミーが電話を切る。

「救急車、2分で来るらしい」

「了解」

「あー、俺、もう一つ電話」

ドミーがもう一度電話をかける。

「……父さん?すぐ来れるか?クオスがな……ああ、息はしてるが……。付き添いを頼む。お友達も一緒だがなー。クオスも俺よりあんたといた方がいいだろー?…………父さんが付き添ってくれるってさー」

電話を切り、口角を上げる。しかし、目は笑っていなかった。


「トナ兄、ジスラ。付き添いは一人で十分だよなー?」


「「もちろんだ」」

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