時計は旅をしたがっている。
うなぎの
第1話
気鋭の作家たちに押し出されるように業界を去ろうとしていた私の脚は、栄華を極める人々が築き上げたコンクリートジャングルから、生まれ育った小さな田舎町に住む、とある友人の元へと自然と向けられていた。
口にこそ出すつもりは無いが、今回も君の事を題材にして本を書いてそれでこけたのだ。と、心の片隅でくすぶる自尊心をただ納得させるための大変女々しい腹積もりからである。
その友人という奴は、今時、探偵などと言う変わった稼業を生業としている。
とおい過去の記憶の頃から、ずっと、変化することなく寂れていた宿場町を抜け、峠の麓にひっそりと佇む日本家屋、彼は昔からそこに住んでいる。
車窓いっぱいに広がる故郷の景色を見た時に感じた強烈ななつかしさは、どういう訳か、最寄りの駅に着く頃にはどこか落ち着かない、よそよそしいものになりつつあった。どうやら、私は知らぬ間に都会の風にどっぷりと浸かり、あの狭苦しいマンションの一室や一日中騒がしい駅のホームなどに少なからず好感を抱いていたようだった。言われてみれば、住めば都。と、言う言葉もある。
私は日頃の運動不足で弱った足腰を引きづり、がらんとした駅を後にした。
不要な物が自然と姿を消してしまった飾り気の無い駅前の、大通りを道なりに進み、県を縦断する大きな川に掛けられた橋を渡る、この地を離れた時はまだまだ真新しさを随所に覗かせた立派な橋であったが、今ではそれは、時間相応にみすぼらしくなり、周りの景色にすっかり馴染んでいた。
それから、人気のない昼間の歓楽街を時々、気まぐれでこの地を訪れた旅人を演じてみては足を止め、ありもしない人目を避けるようにこっそりと体を休める。そしてまた、ありもしない人目を気にして、何事も無かったかのように歩き出すのだ。
やがて、段々と、視界の下半分を埋め尽くすように伸び始めたアスファルトが見えて来る。坂道の表面はうっすらと削れて、所々黒くまだらの様相を呈している。雨が降っていたのだろうか?
峠へと繋がる山道から枝分かれする道のいくつかは細く、車などは通れない、よって、ごくごく自然な帰結としてここから先の道は舗装などされてはおらず、むき出しになった土はこの時も、故郷に帰ってきたということを、今更になって私に強く実感させた。
友人宅へと向かうための唯一の手段であるこの細道は、歩くたびに小虫の類が脇の草むらからぴょんぴょんと跳ねる。時として私は、彼等にですら自尊心を癒されたものである。しかし、今回に限っては、それらはきっと、どこかにひっそりと身を潜めてしまっているのだろう。歓迎と呼べる物は無く、辺りは、営業時間を過ぎた定食屋のように静まり返っていた。踏みしめる土の感触も、なんとなく、ひんやりと、冷えているような気がする。
肩の辺りが気だるくなり始め、いよいよ呼吸も乱れて来る。坂道を上るのは中々に大変である。今日はもう引き返してしまおうかと、普段の私が心にひょいと現れる頃に、黒灰色の見事な瓦屋根が、傾き始めた太陽と一緒に、大きな木の、沢山の葉の隙間からちらちらと見えて来る。件の友人宅である。
路辺に畳まりかけていた体に自然と活が入り、私は、まるでらしくもなく、他でもない私の身体を支える足の事を誇らしく感じた。
元来た道を振り返ってみれば、小さな田舎町が灰色のジオラマのように眼下に見えていた。
古く、大きな日本家屋に引き寄せられるように40メートルほど歩いた後、私は家全体を囲う塀の影に沿って、今も友人が住む家の立派な門をくぐった。
庭に植えられた植木は椿、石榴、そして梅。お世辞にも見事とは言えないが、丁寧に剪定され、膨らみ始めている蕾を付けた梅の枝などは、切断面にみずみずしい淡い緑が覗いていた。きっと、働き者で器量良しな彼の細君の仕業であろうという確信が私の中にあった。
「御免下さい」
私は、実に久しく声を張り上げる。私の声は、こんな声だっただろうか?住人からの返事は無く、辺りはしんと静まり返っている。田畑を挟んだ向こうの道を走る原付バイクの牧歌的な排気が南から北へと遠ざかり、私はもう一度声を張り上げた。
「御免下さい」
すると今度は間髪入れず。
『開いているよ。勝手に入ってきたらどうだい?』
と、聞き慣れた様子で声が引き戸の向こうから響いてきた。私は、言われるがまま、家の中へと入り、脱いだ靴を広い玄関の隅に揃え、迷わず彼の書斎を目指した。
「入るよ?」
『どうぞ。そのためにきたんだろう?』
私は、飴色の扉の、真鍮で出来たドアノブに右手を乗せた。開いたドアの隙間からは西日と、古い本が放つ独特の芳香が友人の姿に先んじて現れる。床に転がる丸めた紙や、読みかけの本、爪ヤスリ、奇妙な魔除け、年代物の先込め銃、風になびく白いカーテン、以前のままの位置にそれらは在って、友人もまた、以前のままの位置に座り、机に片肘を突いていた。
「君の本、読ませてもらったよ」
右手に持った、如何にも年代物と言った短剣の、反り曲がった鞘の先を弄びながら友人はそういった。私の体は反射的にじっとりと汗ばんだ。昨今の情報社会のあおりを受けて、私の体は他人の自分に対する評価に対してすっかり敏感になっていたのである。
「それは・・・ありがとう。嬉しいよ。で、どうだった、かな?」
差し込む西日の中で、透き通るような生白い肌が身に纏う着物から覗いて、友人の鋭い両目が私へと向けられる。何年たとうが老いを感じさせない彼の姿は、この時も、また、私に、狐か、それとも蛇か、兎に角、そう言った妖の類を連想させた。
「他人に感想を聞いているようじゃぁ。君もまだまだだね」
気難しそうな口が一転して、まるで、爪で付けたの跡のように細長く伸びる。私はすっかり言葉に詰まってしまう。
「そ、そうかもしれないけど・・・」
「けど?」
私は、背後で部屋の扉をそっと締めた。その間彼は、救済を前提としたサディスティックな瞳を、袋のネズミにでも向けるかのように、『いくつになっても情けない友人』をじっと眺めていた事だろう。
「久しぶりに訪ねて来たって言うのにあんまりじゃないか?」
友人の態度が都会の知人の誰よりも相も変わらず無礼であったので、私は自然と、なにかを誤魔化すような笑顔が、すっかり筋の突っ張ってしまった顔ににじむのを感じた。
「誰も居ないようだけど奥さんはどうしたんだい?」
「少し前に買い物に出かけたよ。ご近所さんに掴まっていなければそろそろ戻る頃だろう・・・ね!」
彼はそう言って、その外見からは似つかわしくないある種の探偵の技と呼べるかもしれないものを私に披露した。殆ど同時に、閉めたばかりの背後の扉がこっそりと開く。
「あなたぁ?見た事無い靴があったんだけどもしかして、また買ったの?」
彼の投げた短剣は、如何にも怪しげに壁に張り付けてあった木の的に突き刺さり乾いた音を立てた。1メートルほども離れた場所ではあったものの、それはちょうど、現れた細君のおおよその目線の高さだったので、彼女はたまらず短い悲鳴を上げた。私は所在なく、身を隠すように居場所を移す。すると、互いに影響し合う要素を含んだ人々は、それこそ精巧な仕掛け時計のように振る舞う、扉は、私がつい今しがた立っていた場所目がけて勢いよく開け放たれた。友人はそれを満足げに眺めている。
「あなた!家の中で物を投げないでっていつも言ってるじゃない!部屋もこんなに散らかして!」
「必要な場所に置いてあるんだよ?横断歩道や信号と同じさ」
「同じな物ですか!まったく・・・」
働き者の目が部屋の中を即座に精査し始める。それはやがて、必然的に私へと向けられた。我ながら、間が悪い。そう思いつつも、私はようやく挨拶のチャンスが訪れたとも感じて彼女に対して軽く頭を下げた。
「どうも、お邪魔しています」
すると彼女は目を丸くし、姿勢を瞬く間に小さく整えると、女性らしい余所行き用の声を出した。
「あら!お友達がいらしてたんですね?私ったらごめんなさい。騒々しくて」
「いいえ、とんでもない。僕の方こそ、連絡も無しに急に訪ねてきてしまって、申し訳ありませんでした」
友人もさることながら、彼女もまた、以前見たままの若々しい姿である。私は、今朝洗面台の鏡で見た自分の顔を思い出し、人知れず物寂しさを味わっていた。それを知る由もなく、彼女は大変出来た妻らしく良識的に振舞う。
「そんなそんな!主人のような人を訪ねてくれるお友達がいらっしゃるなんて、とてもありがたい事ですわ!どうもありがとうございます」
そんな事をする必要は全く無いというのに、彼女はまた深々と頭を下げた。私もそれにつられて何度も頭を下げた。それが、何度か繰り返される。見かねた友人が椅子に座りなおして助け舟を出す。
「
「またあなたは!」
「いいんです。彼の言う通りですから」
「本当にすみません。あ。そうですわ!お茶にしますから。宜しければ上がっていって下さいな?主人も久しぶりに誰かとお話しできてとても喜んでいるみたいですし」
喜んでいる。果たしてそうなのだろうか?私は、部屋の景色と殆ど同化している友人をじっくりと観察してみたが、思った通りと言うか、私は、その是非を確かめる術を持ち合わせてはいなかった。
「あのぉ?お忙しかったでしょうか?」
「あ。いいえ。せっかくなのでお言葉に甘えさせていただきます」
私がそう答えると、彼女は。まぁ。と、両手を鳴らす。
「是非そうなさってくださいな。ではあなた、これ以上散らかさないで下さいね?」
「勿論だよ」
強い『正』のエネルギーが部屋を後にして。空間は再び沈滞を始めた。
「奥さんが元気そうで、何よりだよ」
友人が一向にしゃべりだす気配が無いので、私はそう切り出した。彼は、じっと、窓の外を眺めていたかと思うと、いたずらに何か口ずさむ。
「あわ雪の ながれふる夜の さ夜ふけて つま無き君を 我は嬉しむ 」
斎藤茂吉だ。否、正確にはその引用である。
反射的に出そうになった言葉を私は一度飲み込んだ。危ない危ない。同じ罠に何度もかかる野良猫じゃあるまい。私は漏れ出そうになる微笑を抑えて、一呼吸おいて、落ち着き払った態度で答える。
「それは、本来、結婚を祝う歌のはずだね」
「君の事さ」
私は、歌の中に在るあわ雪というフレーズが妙に引っかり、これ以上、この話題が続かないように話をすり替える事にした。
私は、友人が投げた短剣を的から引き抜くと、柔らかな部屋の照明にあてながら、友人が掛けているテーブルまで歩いた。
「見たところ、年代物のようだね?」
「17世紀のジャンビーヤさ。柄は象牙で出来ている。汚さないでくれ給えよ」
鞘を持ったまま両手を広げて、彼はそう要求する。
「僕はそんなことはしないよ」
私は、色糸を編み込んだタリスマンや、構造色を放つ奇妙な置物や、主に製図に用いる道具などが、まるで絵のように広がる机の空いているところに短剣を置いた。彼は、それを鞘にしまうと犬の遊び道具でもそうするかのように、床に放る。
「いいのかい?」
「僕がまた怒鳴られるとしたら今週の日曜日だろうね」
「奥さんかい?それもあるけれど、価値のある物なのだろう?」
「どこに置いてあろうと物の価値に変わりはないよ。ところで君は余程僕の持ち物に興味があるようだね?隠しているつもりでもお見通しだよ?君はすぐに顔に出るからね」
彼は、手前で組んだ両手を、わざわざ私から遠ざけるように引き込むと、軽く頭を突き出して言った。「確かに、雨も降っていたね」私はドキリとする。
「でも、今は他に、よほど気になる事があると見える」
「あ。ああ。実はそうなんだ」私は、半ばやけくそになって、正直に白状した。と、言うのも、この日、友人の元を訪れて彼の姿を目にした時、真っ先に感じた違和感から私はどうしても目を逸らしていたかったのだ。しかし、彼は今回も、私の考えを私の認識が及ばない無意識の領域まで鋭く洞察している風だった。私は、友人の白く、女性のように華奢な手首に巻かれていた青い文字盤の古い銀の時計にまじまじと目をやって、また、何かを誤魔化すような微笑みを浮かべた。
「君が時計をしているなんて。一度も見た事が無かったものだから・・・奥さんのプレゼントかい?」
「これは買ったんだよ」彼は、寸分の狂いなく時を刻む秒針に目をやって、それから私の事を見た。
「面白そうな話と一緒に、質屋がわざわざ僕を訪ねて来たものだから。ついね」
彼は余裕に満ちた表情でそういった。
立派な屋敷に、若く綺麗な妻、探偵などと言う酔狂な職業、見るからに高そうな腕時計、いざという時に質屋があてにしてくる人望、挙句の果てには¨面白そうな話¨。
私はどうしようもなく彼の事が羨ましくてたまらなくなった。加えて、彼の態度は、私の中で死にかけていた子供のような好奇心までも呼び覚ましてしまう。
「それはいったいどんな話なんだい?」
私はやにわにそうたずねた。すると彼はまた怪しげな微笑みを浮かべて時計を腕から外し、その1から12までの数字が環状に並んだ青く綺麗な文字盤を、ぼくからすぐ見える場所に持ち上げた。
「この時計は旅をしたがっているんだよ」
時計は旅をしたがっている。
「それは、一体・・・どういう事なんだい?」
友人はふふふと笑って、細めた目で時計の文字盤を見つめた。
「これは質屋から聞いた話なんだが」「ああ」
「彼の知る限りでは、この時計を始めに手にしたのは、とある食堂のご主人だそうな。君も知っている食堂だよ。ほら、県道沿いの」
「○○さんかい?」
「そう、あそこのご主人だ。この時計は、元々、あそこを訪れた客の忘れ物だったんだよ」
○○と言えば、この辺りでは有名な食堂であった。堅気な料理人であるご主人と、善人を絵に描いたような女将さんが二人で切り盛りする大変趣味の良い店である。一見すると格式高く、入るのに勇気が要る店構えではあるが、いざ入店した客の多くは、気さくな女将さんと、飾らないご主人に肩透かしを食らう事だろう。かくいう、私もそうであった。
「しかし、あのご主人がお客さんの忘れ物を質に入れるなんて。ちょっと意外だなぁ」私はまじまじと時計を覗き込んでそう言った。
「もちろん、正直者で有名なあのご主人の事だから、持ち主が現れるまで2年近く待ったらしい。けど」
「持ち主は現れなかった・・・?」
「そう。それからこの時計は、ご主人のご子息のもとへと渡った」
「持ち主がいつまでたっても現れないから自分のものにしてしまったのかい?」
「それは半分正解で半分不正解だね。ご主人ではなく、そのご子息がそうしてしまったんだ。それもご主人に内緒で、こっそりと自分のものにしてしまったんだ」
「じゃぁ。そのご子息がお金に困って質に?」
「いいや、そうじゃない。高校を卒業した彼は、東京に渡った。もちろん、この時計を持って」
私は、黙って相槌を打つ。
「東京で、彼は沢山の物を得る。友人に職場の同僚、初めての交際相手。住む部屋。それから、きっと彼はモテたのだろうね。浮気相手までもが出来てしまうんだ」
彼は再びサディスティックな表情を浮かべる。
「交際相手は勿論、浮気相手と出かける時も、彼はこの時計を身に着けていた。そんなある日、ふとしたきっかけで浮気が交際相手にバレてしまう。二人に全く同じ香水をプレゼントしていた事が火に油を注いだ」「同じ香水?それが何の問題なんだい?」友人は呆れたように目を細める。「君は何も分かっていないね?いいかい、女性という奴は自分にとって特別な存在を求めるものなんだ。自分しか知らない。自分にしか見せない。自分にしか理解できないものを彼女たちは密かに尊む性質があるのさ」
「なるほど・・・そうなのか」
私の今までの人生の中で、その言い分が当てはまる出来事を思い起こそうとしていると、再び彼は淡々と語りだす。
「同時に、職場での無理がたたったのか椎間板ヘルニアを発端に脊椎間狭窄症を発症してしまうんだ。あれは相当ひどいと聞くからね、当然、仕事は休みがちになり。職場での風当たりは段々と厳しいものになり。結局彼は逃げ出すように親元へと戻る事となった。この時計を、職場のロッカーに置いたままにして」
「それで?何故その時計がここにあるんだい?」
私は、草稿の走り書きを、何者かによって無理やり止められてしまった心地で尋ねた。
「時計はね、次に、彼が残していってしまった荷物を片付けていた彼の後輩の手へと渡るんだ」
食堂の忘れ物からご主人のご子息へ、それから、その後輩へ。
「その後輩という奴はどうやら重度の風俗狂いだったようでね。彼もまた例に漏れず、地方の穴場を探っていたある時に、この時計をどこかで忘れてきてしまうんだ。そして、その風俗嬢がこの時計を質に入れたという訳さ。一連の話は、その後輩から枕元ででも聞いたのだろうね」
私の口は、どうにも納得がいかない。といった具合で少しの間捻じれていた。
「けど、見た所とても価値がありそうな時計なのに、簡単に手放してしまうなんて」
「そう。それこそが、この時計は旅をしたがっているという所以だよ。この時計は、○○に忘れられるずっと前からも、そうやって大勢の人の手を渡り歩いて、それが一体どんな人物達なのか僕には見当もつかないけれど、何時何分何秒に、どこの、誰の物であったのかをこの時計だけが知っているんだよ。それにね」
彼は時計の裏側を向けた状態で私に差し出した。
「この時計は、君の言う通りとても価値のある物なんだ。実はね。僕もこの時計について調べてみたんだ。誰もが知る有名なメーカーのものだった。値段をつけるとしたら相当の金額になるだろうね。当然、今までの持ち主たちもきっと同じように調べただろう。普通に考えたら、中には、金庫の中にずっと保管したり、コレクションに加えてしまう人間だって一人くらいいたはずだ。世の中にはいろいろな性質の人間がいるからね。でも、そうはならなかった。つまりは、逆説的にね。この時計はそういうものなんだよ。しかもだ。ほら、ここを見て見給え。それを決定づける証拠がここに在るんだ」
私は、時計を受け取り、裏側に施された刻印を検めた。ずっしりと重い時計には美しい書体で文字が彫られている。英語だ。
『Gemini plan. God bless this plan. J F K』
「・・・ジェミニ計画。この計画に神の祝福を。・・・・JFK?」
私は、口の中で何度か同じ単語を繰り返した。
「JFK・・・?ジョン・・・フィッツジェラルド・ケネディ・・・?!まさか!」
私の呼吸が乱れると彼は頬杖を付いたままふふふと短く笑った。
「じゃ・・・じゃあこの時計は・・・」
私が興奮を抑えきれず、彼に詰め寄ると、背後で扉がそっと開く。
「あなた?お茶が入りましたよ?」
扉の隙間から、焼き菓子のほのかに甘い香りと共に、簡単なティーセットを手に千束夫人が現れた。私ははっと我に返って。所在なく姿勢を正す。
「おいおい、書斎でお茶を飲むわけが無いだろう?もし、こぼしでもしたらどうしようというんだい?」
「あっ!それもそうですね?私ったら、ごめんなさい。お茶の間でご用意しておきますから。冷めないうちにいらしてくださいね?」
香ばしい香りを残して、彼女は部屋から姿を消した。友人は椅子からすっと立ち上がると、着物の裾を軽く直す。
「そそっかしくてすまないね。こんな男に嫁ぐような人だ、見る目はあるんだろうが、いささか教養に欠けていてね」
『あなた!聞こえてますよ!』
「おっと」
扉の向こうから、彼女の声が聞こえた。私は、心ここにあらずと言った様子で、両手で持った時計をじっと見つめていた。
時計は旅をしたがっている。
「さ。君は暇なのだろう?どうか我が君の良心を無碍にしないでくれたまえ」
「・・・いくらかな?」
彼との会話を強引に断ち切って、私の喉から勝手にそんな声が出た。きっとそれは、私の意志などではなく、この時計がそうさせたのだ。その時友人は、いつものような意地の悪い微笑みを浮かべていたに違いない。
「生憎、売る気はないよ?」
「頼むよ、この時計はそういうものなんだろう?」
友人の目が床に転がるジャンビーヤにちらりと向けられた。
私は首を横に振る。
友人はくすりと笑う。
「わかったよ。友人の君に免じて売ってあげよう。そうだな、7万だ」
学生時代から変わらない私の性質を見抜いて友人はそう請求した。私は財布を取り出し、少しも迷うことなく金を支払った。
時計は旅をしたがっている。
時計は旅をしたがっている。
この時計は旅をしたがっている。
私の気分は晴れやかだった。千束夫人の出してくれたお茶も焼き菓子も絶品だった。二人に簡単な別れの挨拶を済ませた私の心は、年金生活を決め込む父のもとへと向いていた。何故かと言えば、東京に帰るための金を、親孝行の対価と称し、せびる為である。
時計は旅をしたがっている。
時計は旅をしたがっている。
この時計は、旅をしたがっている。
おしまい
時計は旅をしたがっている。 うなぎの @unaginoryuusei
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