「ハルにさよなら」


 その寂れた公園は、十年前からほとんど変わっていなかった。時間が止まってしまったか、あるいは俺の記憶を写したようにそのままだ。

 だだっ広くて何もなくて。枝垂れ桜の老木が一本だけ立っていて。ほとんど原っぱと呼んでもいいくらい、何もない公園。まさにキャッチボールをするにはうってつけだ。


 十年前のあの日の風景と変わっているのはひとつだけ。枝垂れ桜の老木が、控えめに花を咲かせていることだけだった。


 その老木の元に近づいてみると。幼い日、ハルと背丈を測り合ったあの傷が、薄っすらと残っていた。

 俺の最後の記録は確か177cmだった。でも今の身長はもう190cmを超えてしまって、過去の自分が言葉のとおり小さく見える。

 隣に記録されているのはハルの身長。あれからもハルは一年に一度、ここに身長を測りに来ていたらしい。

 最後の記録は「ハル 20さい」。もう成長は止まっただろうに、ここまで続けたのか。あいつらしいと思いながら苦笑した、その時だ。



「──待った?」


 後ろから声が聞こえた。春の風のような優しい声。振り返ると、少し遠くに。あの時の帽子をかぶったハルがいた。

 帽子のツバを指で摘むいつものポーズ。少し俯いているけれど、口許が笑っている。


 なんて声をかけるのが正解だろう。なにせ十年振りの再会だ。いろんな考えが頭をよぎるけど、結局言葉は纏まらない。

 するとハルはその帽子をゆっくりと脱いで。春がよく似合うあの笑顔で、俺に優しく微笑んでくれる。


 でもその顔は。

 ハルのようで、ハルではなかったのだ。


「……アキ?」

「ごめんね、アキだよ。ハル姉に見えた?」

「その帽子をかぶってるとハルに見えたよ。やっぱり姉妹だな。よく似てる」

「そっか、やっぱり似てるよね。姉妹だもん、当たり前かぁ」

「ハルは? もしかして……、来ないのか?」

「ううん、いるよ。そこに」


 そう言って、アキは近くの墓地の一角を指差した。その表情は少し虚ろに見えて。だから冗談を言ってるようには見えなくて。俺は意味がわからなくなって言葉を返す。


「アキ、そういう冗談はやめてくれ。それは笑えない」

「冗談じゃないよ。わたしは本当のことを言ってる」

「……アキ!」

「冗談だったらよかったのにな。うん、わかってる。ちゃんと説明する。って言っても短いんだけどね。あのね、ハル姉はね」



 ──病気で、亡くなったの。四年前に。


 ぽつりと漏らしたそのセリフ。その突然の言葉は、頭には入ってきてるが理解が追いつかない。

 どうして。どうしてと、疑問が頭で渦巻くだけだ。


「……ハルが、亡くなった? いいやウソだ。だって俺は手紙をずっとやりとりしてたんだぞ。この前だって俺が三冠王を獲った時も、」

「ごめん。それを書いてたのは、わたし。ハル姉に頼まれてたんだ。ハル姉の身体が弱って、文字が満足に書けなくなって。最初は代筆だったんだけど、ハル姉は自分が亡くなってもナツ兄に手紙を出し続けてって言ってたんだ」


 そんな。そんなことってあるか?

 もうハルには会えない? 俺はハルの死を知りもしなかった。あまりに残酷な現実に、足元が覚束なくなる。自分が立っているのが不思議なくらいに。


「ハル姉は難しい病気にかかってさ。ちょうどナツ兄がプロに入った年かな。発覚してから一年と少しで、あっという間だった。でもハル姉はずっと楽しそうにしてたよ。野球中継をいつも見ててさ。病室でナツ兄を本気で応援してて、先生や看護師さんに怒られて。それでもずっと楽しそうに、ナツ兄を応援してたよ」


 ……ウソとしか思えない。信じたくない。どうしてハルは教えてくれなかったんだ。どうして。


「わたしは言ったんだよ。早くナツ兄を呼びなよって。会いたいんでしょ、会ったほうが絶対いいよって。でもハル姉は頑なだった。ナツは大事な時期だから。いつかメジャーリーガーになる男だから。だから私はこのまま応援するんだって。今の私の姿を見て、調子を落とされたら嫌だからって。だから言わないままでいるって、そう決めて。最期までナツ兄を応援してた。とても安らかな顔だったよ」

「……教えて、ほしかったよ。知ってたら、俺は全てを投げ出してこの町に戻っていたのに」

「ハル姉はバカだからね。わたしも一度本気で怒ったよ。ナツ兄の気持ちを考えろ、今すぐここへ呼べって。でもね、ハル姉は言ったの。私を心配してここに来てくれるナツよりも、野球を頑張ってるナツに生きる勇気をもらえるからって」

「……勝手なヤツだよ、ハルは」

「ほんとそうだよ。ほんとそう。でもわたし、ちょっと思っちゃったんだ。あぁ、ハル姉ってカッコいいなって。バカで不器用で自分勝手だけど、一度決めたら梃子でも動かない。そういうところが、我が姉ながらカッコいいなって。だからわたしも、ナツ兄を呼べなかった。ごめんね」


 アキは帽子の中に何かを入れて、ゆっくりと俺に手渡した。その空色の封筒は、いつもハルが俺に手紙をくれていたのと同じもの。

 きっとこれは、ハルからの最後の手紙なのだろう。


「それ。いつかナツ兄が訪ねて来たら、渡すようにってハル姉に言われてた。あの時の帽子と、最後のハル姉からの手紙。それさ、ミミズが這ったようなヘタクソな文字だけどさ。正真正銘、ハル姉が書いた最後の手紙だから」


 あの時、ハルに貸していた帽子。それを本当に返してくるとは律儀なヤツだ。

 その帽子は、俺がガキの頃に憧れていたメジャーの球団のもの。奇しくもそのチームは俺の次の移籍先。

 このシーズン、俺はついにメジャーリーガーになった。来週から海外に行く。それを報告しようと思っていたのにな。

 ついに夢を叶えたんだぜ、って直接伝えたかったよ。ハル。


「じゃあね、ナツ兄。邪魔者のわたしは帰る。ゆっくり読んでハル姉と語ってね。きっと今日は、その桜の近くにいると思うからさ」

「……あぁ。ありがとな、アキ」

「それじゃあ、元気で。わたしも応援してるよ、ナツ兄」


 そう言って踵を返して、去っていくアキの後姿は。やっぱりハルに、よく似ていた。




 ──────────⚾︎




 私のヒーロー 若竹ナツ様



 ナツ、久しぶり。まずはあやまらせて。

 ぜんぶ、私のワガママで。もう一度、ナツに会えなくてごめんね。ちょっとむずかしいビョーキになっちゃってさ。治らないの、これ。

 本当は、ナツに会いたかったんだけどさ。すごくすごく会いたかったんだけどさ。でも会っちゃうとまんぞくしちゃって心が折れそうで、怖くて。ナツに会えたからもうこれでいいやって、思っちゃいそうで。

 だから私は、さいごまでナツを遠くから応援しようって決めたんだ。ごめん。本当にごめん。


 ……あやまってばかりだね。ごめんね。


 それはそうと、新人王おめでとう! ぜったいとるって思ってた! プロの世界でもナツはかがやいてるよ。

 この手紙を書いてるのは、ナツのプロ二年目のシーズンなかばだよ。もっとナツのかつやくを見たかったな。一度でいいから球場で見たかったなぁ。


 きっとさ、ナツはそのうち三冠王をとってさ、海外から声がかかってさ、すぐにメジャーリーガーになれると思うんだ。

 その姿が見たかったな。あ、でも見れるかも!

 遠い空から見守ってるよ、ってセリフあるじゃん。

 あれを体現する時がついに来たようだよ!



 ……まぁ、そんな冗談はおいといて。

 私がいなくなっても、ナツはどうか、かわらないでいてね。

 私のせいで調子を落としたとか、おねがいだからやめてよね。

 チャンスに弱いナツはもういない。もし調子を落としそうになったら、私の「おまじない」を思い出して。


 私は今でもあの「おまじない」をおぼえてる。

 あのドキドキを、ずっとおぼえてる。

 あの時のドキドキが、今もナツの力になってればいいな!



 短いけれど、これでさよならするね。

 私と出会ってくれて、私の幼なじみでいてくれてありがとう。


 好きだよ、ナツ。これからもずっと。

 ありがとう。そして、さようなら。



 ナツのことが大好きなハルより、愛を込めて。




 ────────────⚾︎




 読み終えた手紙を綺麗に畳んで、封筒に入れ直して。立ち上がった俺は、桜の幹に背を預ける。

 手近にあった尖った石を掴んで、今の自分の身長を刻む。そして線の隣に「ナツ 24さい」と書き込んだ。


 隣に刻まれているのはハルの身長。まるでそれは、隣にハルが立っているみたいで。柔らかな笑顔で、そこに今もいるみたいで。

 そしてあの時のドキドキを思い出して。


 思わずクスリと、俺は笑ってしまった。



 ──さよなら、ハル。

 俺もハルのこと、大好きだったよ。





【続】





 

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