「おまじない」
「どう? 今のボール。昨日、ナツが空振りしたカーブよりキレがいいと思わない?」
「……思ったよ。こんなとこで俺とキャッチボールするには勿体ない良い球だ」
「それでも、本気のナツには打たれちゃうけどねー」
「いや、俺は昨日これより緩いカーブを空振りしたんだぞ」
「それはナツが本気じゃなかったからだよ。昨日のさ、ナツの最後の打席。あれ、例のヤツが出たんじゃないの? ドキドキ病がさ」
──ドキドキ病。このふざけた名前は、小学校の時にハルが名付けたものだ。何故かいつもより緊張してドキドキして。いいパフォーマンスができなくなる奇病。
「最終回裏、二死満塁。ナツにドキドキ病が出るかもって思ってた。でもさ、ナツはそれでもスイングしたじゃん。私、感動したよ。中学に入ってからはいつも見逃し三振だったのに、昨日はフルスイングしたんだから」
「あれはハルの声に押されたんだ。ありがとな。でも結局、打てなかったけどさ」
お礼を言いながらボールを投げ返す。あの時、ハルの声は確かに届いていた。振れと言われて身体が動いた。結果は空振りだったが、ハルの言う通り見逃し三振よりはマシなのかもしれない。
「確かに当たりはしてなかったけどさ。でもスイングスピードは凄かったし、当たればきっとホームランだよ」
「当たればな」
「いつか当たるよ、バットを振っていれば必ず。見逃し三振を続けていても絶対に当たらない。でもナツはいつか、あの局面でもきっと打てるようになる。だから転校しても野球を続けてよ。私はこれからもナツの活躍が見たい。私の野球人生を、ナツに託したいの」
そう告げるハルに、俺は言葉を返せない。こんなメンタルでこの先もやっていけるハズがない。それに俺が転校するのはこの町と違って都会だ。人口が多ければ多いほど、野球が上手いヤツの数だって多いに決まってる。
だから転校したら野球を辞めようと思っていた。でもそれをハルに見透かされたのか、胸元に鋭いストレートが飛び込んでくる。俺が咄嗟にキャッチすると、ハルは強い口調で続けた。
「ナツは絶対に野球を続けるべき! 中学二年でその身体の大きさだよ? これからもっと成長だってするよ。ほら見て!」
ハルは桜の老木の元へと走っていくと、その背をぴたりと幹に預ける。あの桜は、俺たちが身長を測り合った木だ。一年ごとに自分たちの成長を、幹に書いて記録しあっている。そう言えば今年はまだやっていなかった。
俺が桜に近づくと、ハルは大きな声で「測って!」と言う。一年前に記録した、つまり中学一年の時のハルの身長は、今のそれとほとんど変わっていない。
145cmと少し。その小ささでは、どうしたってスポーツをやるには不利になる。これもハルが野球を辞めた理由のひとつだった。
「身長はさ、持って生まれた才能なんだよ。私も努力はしたよ? でもさ、こればっかりはどれだけ努力したって限界があるの。私はたぶん、伸びても150cmが限界。でもナツは違う。その才能を持ってる。はい交代、次はナツの番ね」
言われるがまま幹に背を預け、ハルに身長を測ってもらう。ハルは人差し指を適当に当てて、その辺の尖った石で幹に書き込んで。たぶん7cmは伸びてるねと教えてくれた。
「去年が170cmだったから、今は177cmだ。きっとこれからも伸びるよ、ナツは」
「けど俺は……」
「心はいくらでも鍛えられる。ドキドキ病なんてあっという間に克服できるよ」
「でもどうやって? これでもいろいろ頑張ったんだ。でもどうしても、大事な局面での一本が打てない。ここ一番に弱くなったんだ、俺は。これじゃ野球続けるなんて無理だ」
そこで言葉を止めてしまった俺に、ハルは怒るどころか優しく微笑んでくれた。木陰から差す光がハルの頬を撫でる。息が止まりそうなくらい、それは美しい笑顔。
「ねぇナツ、あの約束を憶えてる?」
「……いつの約束だよ」
「シャローズでさ、五年生の時に大きな大会があったじゃん。珍しく勝ち進んで、準決勝まで行ってさ。その準決勝で私が打たれて負けた時に、ナツが言ってくれたこと。憶えてない?」
「もしかして、サイキョーの4番になるってアレか?」
「ちゃんと憶えてくれてるじゃん。よかった」
最強の4番。ガキの頃は何にでもなれると思い込んで、打たれて泣いていたハルを慰めようとした言葉だった。
──俺が最強の4番になる。いつかメジャーリーガーになれるくらいの4番に。だからハルが打たれても俺が打ってやるから、俺に全部任せとけ。
そんな言葉だっただろうか。それを聞いたハルは泣き笑いの表情をして、約束だよって言ってくれたんだっけ。随分と前のことなのに鮮明に思い出せる。俺にとっても、あれは忘れ難い思い出だ。
「あの時の約束。ナツがサイキョーの4番になってくれるって、私は今でも信じてる。だから続けてよ、野球を。私に夢の続きを見せてよ」
「あれはガキの頃の話だ。今の俺は、肝心な時に打てないヘボバッターなんだぞ」
「──わかった。じゃあナツにおまじないを掛けてあげる」
「おまじない? なんだよそれ」
その時。突然ハルが、俺の胸に顔を埋めてきた。さらには腕を俺の背中に回して強く抱きしめてくる。
いきなりのことに言葉も出ない俺。ドキドキ病さながら、自分の鼓動が耳の後ろでやけにうるさく聞こえて仕方ない。いや、いつものそれ以上だ。
「ナツ、私を強く抱きしめて」
「は、はぁ? おいハル、なに言って、」
「いいから早く! ほら、もっとぎゅっと!」
目を白黒させながら、言われた通りにハルを抱きしめる。身長差があるから、ハルの頭を抱え込む不恰好なカタチだ。
ハルの身体の線は細くて。頭もずっと小さくて。さらりとしたショートボブが鼻にくすぐったくて。それに何故か、もう咲いてないのに桜みたいないい香りがして。
やっぱり女の子なんだと改めて認識してしまい、余計にドキドキしてしまう俺。ハルにもこの鼓動が聞こえているに違いない。
「凄いね、ナツの心臓の音。すごくドキドキしてる」
「そりゃ、するよ。当たり前だろ?」
「ふふふ。妹の言った通りだ。男の子はね、胸を押し付けるとドキドキする生き物なんだよって教えてくれたから。私の小さい胸でも効果あるんだね」
「アキのヤツ、なんてこと教えてんだ」
「ねぇナツ。昨日の打席と、今のこれ。どっちがドキドキする?」
「今に決まってる、よ」
「でも不思議と落ち着かない? このドキドキ感」
「ま、まぁ。そんな気もする……かな」
ハルは俺の腕の中からこちらを見上げて、クスリと小さく笑ってみせた。よかった、と言いながら。
「次からさ、ドキドキしたらこの時を思い出すといいよ。どんな打席でも、今のドキドキよりはドキドキしないハズだし、私を思い出したら落ち着くハズ。だったら打てるでしょ? ナツなら大丈夫だよ」
「いやなんか違う気が……」
「大丈夫、きっと大丈夫。それにさ、これからは私が手紙を書いてあげるよ。ナツ頑張れーって、事あるごとにね。楽しみにしてて」
「手紙? このネット全盛の時代に?」
「だからこそだよ。私たち、まだスマホも持ってないしちょうどいいじゃん。温かい手書きの文字、その方が素敵でしょ?」
俺の腕の中で、ハルはもう一度笑った。
距離が近い、というかゼロ距離。互いの息遣いが聞こえるクロスレンジ。
「これが私からの餞別。大事にしてよね」
そう言ったハルは。もう一度俺を強く抱きしめてくれて。さらにドキドキした俺は、ただ無言でいることしかできなかった。
それは穏やかな春の終わりのこと。
俺たち二人が、さよならをした春の日のこと。
目の前には夏。
ハルが隣にいない夏の、その始まりだった。
【続】
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