「桜の木の下」


 翌日。よく晴れた、春の終わりの日曜日。木々は青々と茂り、雲はその背を高く伸ばし始めている、そんな初夏と言っても差し支えない季節。

 気持ちのいい風が吹く陽だまりの中で、俺とハルは二人でキャッチボールをしていた。


 ここは人家から遠く離れた公園で、遊具もなければ壁当てできるような建造物もない寂れた場所だ。一本だけ立っている枝垂れ桜の老木を除いて目立った花もなく、そもそも桜はもう散ってしまってひとつもない。

 さらには近くに墓地もあってか、普段から人を寄せ付けがたい。だからこそここは、キャッチボールをするのにうってつけな公園だった。


 緩やかな弧を描いて、俺の投げたボールが飛んでいく。パスンと気の抜けた音がして、ハルのグラブに収まるボール。それを今度はハルが投げる。直線を思わせるそのボールは、ストライクゾーンに刺さる見事なストレート。


「どう? 今の一球。長いこと試合で投げてないとは思えないでしょ?」


 帽子のツバを指で摘むいつものポーズで、ハルはニヤリと笑った。ここ一番のボールが出た時のハルの仕草だ。

 俺は無言でゆっくりとボールを投げ返す。それを難なくキャッチすると、ハルは眉根を寄せて俺に問う。


「どしたの、ナツ。元気ないじゃん」

「まぁ、ちょっとな」

「まだ気にしてるの? 昨日の最後の打席」

「……この中学校で最後の打席だったんだ。転校だからな。それなのに俺はまた打てなかった。いや、打てる気が全くしなかったんだ」


 いつからだろう。こんなにメンタルが弱くなってしまったのは。ハルと同じ少年野球チーム、みず野辺のべシャローズで野球をしていた小学校時代はそうでもなかった。

 ハルがエースで俺が4番。小学校からの幼なじみ。ハルは身体が小さいのにいつも自信があって気高くて、チームを鼓舞するムードメーカーだった。

 口が裂けても言えないけれど、俺が初めて好きになった女の子。それが、目の前で優しく笑うハルだった。


「ナツがチャンスで打てなくなったのって、中学の野球部に入ってからだよね。シャローズで一緒に野球してたころはさ、むしろチャンスにめちゃくちゃ強かったのに。なんでだろね?」


 はっきりした原因はわからない。俺はチームメイトにそう説明していたが、実は思い当たる要因があった。でもそれを口にすることはできないし、ハルにだけは絶対に言えない。だから俺は口を噤んだままでいた。なのに。


「──あ、わかった。私が隣にいないからだ? 中学の野球部にさ、女の子も入れたらよかったのになぁ」


 思い当たるその原因を、ハルはさらりと言ってのける。名前どおり春が似合う、優しい穏やかな笑顔で。

 だから俺は余計に面食らった。何を言えばいいのか途端にわからなくなったからだ。


「ちょっとナツ、冗談なんだからつっこんでよ。これじゃ私、ただの自意識過剰女じゃん。ねぇ聞いてる?」


 そうだよと、言えばどうなることだろう。ハルと一緒じゃないから打てないんだと素直に言えば、何か変わるだろうか。

 でも、言ったところでもう遅い。明日転校することが決まっている俺は、ここでハルとさよならだ。

 だから俺は、言わないままでいるとそう決めて。代わりの言葉をハルに投げる。


「……呆れてものが言えないってヤツだ。ハルのバーカ、って言っとくよ」

「あ! バカって言ったなー! バカって言うほうがバカなのに!」


 クスクスと笑うハルに釣られて、俺も笑った。これでいい。今更ハルに好きだと伝えて何になる。まだ中学二年の俺たちが、転校で離れ離れになって。そして大人になって再会できる確率なんて高が知れている。

 だからハルは知らないままでいい。俺も言わないままでいいと、そう心に決める。


「ねぇナツ、荷造りは済んだの? 出発は明日だよね?」

「あぁ、みんなに挨拶して午後には出る。中途半端な時期の転校で困ってんだけどな。親父の仕事の都合はどうにもならないよ」

「寂しくなるね。妹も寂しいって言ってたよ」

「アキにもよろしくな。なんだかんだで楽しかったよ、この町での生活は」

「懐かしいね。私たち小学校からずっと一緒だったけどさ。このキャッチボールが最後だと思うと、やっぱり寂しいよね」


 少し寂しそうな目をして、帽子を脱いだハル。それを俺に掲げて見せて、ハルは続けた。


「ナツにずっと借りてるこの帽子さ。このまま借りててもいい?」

「……そのまま自分のものにする気まんまんだな、そのセリフ。借りパクって言うんだぞ」

「大丈夫大丈夫、いつか返すからさ。気に入ったの、この帽子」

「まぁいいよ、餞別代わりってヤツだ。やるよそれ。って待て普通逆だよな? 俺には何かないのかよ?」

「いつもあげてるじゃん。ありったけの愛を!」


 ハルは笑って帽子をかぶり直し、ボールをてのひらでくるくると回す。軟球の縫い目に指をそわせて、握りを決めて。そして高らかに宣言した。


「ようし決めた。次は愛のカーブ。座ってよナツ。本気で投げるから」

「何が愛だよ。まぁいいか、よし来い」


 俺はキャッチャーみたいに腰を落とし、ハルを見据える。セットポジションから放たれた宣言通りのカーブは、鋭いキレでコースもいい。文句なしのナイスボールだ。


「感じたでしょ? ありったけの私の愛」

「いやそれはない」

「なぁんだ、残念。でもまだまだ現役でやれそうじゃない? またやりたいな、野球」

「学校、女子はソフト部しかないもんな。ハル、どうしてソフトをやらなかった? その腕なら充分活躍できるだろ」

「ソフトボールを舐めすぎだよ、ナツは。それに私が好きなのはやっぱり野球だからさ。ソフトをやるのは違う気がしたんだ。ようし、次もカーブね。もっと鋭いヤツいくよ」


 次はしっかりと振りかぶって、またもカーブを投げてくるハル。この軌道、俺が昨日空振りしたカーブよりも数段キレがいい。ハルのボールにはカミソリのようなキレがある。

 ハルは小学校時代、女の子なのに球のキレだけで三振の山を築いてきた名ピッチャーなのだ。だけど、俺たちの中学校の野球部に女の子は入れない。だからハルは野球を辞めたのだ。

 現役を退いたハルのボールはそれでもキレが鋭くて。俺のグラブに収まった瞬間、乾いた音があたりに響く。


 それは春の終わりを告げるに相応しい音で。間違いなくカーブなのに、俺の心に真っ直ぐ届くような球筋で。

 帽子のツバを摘む、いつものハルの仕草が眩しくて。


 これでさよならだなんて、思いたくなくなる。それはそんなボールだった。







【続】

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