第5話 明日に見る蜂蜜色の夢の中

 アキレアの一族は有翼人ではあるが、背中に羽がある、という特徴以外は身体の造りは人間のそれと変わりはない。

 その為、歌う際には腹を膨らませて息を吸い込む呼吸法を使用するのは勿論、喉だけで歌うという事は半人前である事を意味しているので、子供の頃からきっちりと腹の底から声を出す歌い方を教え込まれている。

 周囲から断絶するように厳しい谷に作られた村の中には、本を読んだり、学問を学ぶような場所はなかったが、年長者の中には教師役である者が数人いて、子供達を集めさせると、歌や生活に必要な知識を教えてくれていた。

 文字の読み書きは出来ないが、彼らのコミュニケーションは歌で行われる。

 悲しみも楽しさも愛を伝える事も、全ては歌に込められる。

 だからこそ、喉を痛める事にもとても気をつけていて、アキレアの育った村では養蜂も盛んに行われていた。

 そこで採れた蜂蜜が今まで食べた中できっと一番のものだった、と知れたのは、あの村の中では自分だけだろう、とアキレアは自負している。

 巣箱が置かれていた花畑は、アキレアが一人では到底行く事の出来ない高地にあった為に、村の外に出てしまったアキレアは、とうとう一度も見る機会がなかったけれど。


 空中庭園はその名前の通り、美しい花々で囲まれていて、専属の庭師達が定期的に手入れや植え替えをし、時には配置を変えたりして、一年を通して花を楽しむ事が出来る。

 鮮やかな赤が映えるバラや、太陽のように眩い黄色のフリージア、空よりも深い青色のアネモネ、ふわりとした柔らかな花弁が優しく包み込むように咲くラナンキュラス、背の高いマグノリアは両手を柔らかに包んだような優しい形の花をつけている。

 長い間この庭園で過ごしてきたストレリチアは、それらを一目見ただけで名前を言い当てる事も出来るようで、花などに興味を持っている余裕すらなかったアキレアは、彼女に教わる内に覚えるようになっていた。

 庭園の端にはハーブを育てている区画もあり、そこで採れたハーブは料理やお茶に利用したり、ポプリを作ったり、様々な用途で使われているらしい。

 空中庭園に初めて訪れた時、ストレリチアは夕焼け色の瞳に目一杯水分を含ませて、睨みつけるようにこちらを見ていたな、とアキレアはぼんやりと考えながら、空中庭園の中心に設置された四阿で、先程まで侍女たちがせっせと用意してくれたティーセットの中から、蜂蜜の瓶をそっと持ち上げた。

 ストレリチアは庭園に咲き誇る花々を鋏で切り取りながら、小さな花束を作っている。

 おそらく、部屋の中に飾る為のものなのだろう。

 赤色を中心とした花々に、緑や白い小花を合わせた花束は、お気に入りの真っ赤なドレスを着用しているストレリチアによく似合っている。

 後で花瓶を用意しなくては、とアキレアは蜂蜜の瓶をテーブルの上に置くと、彼女を呼んだ。

 アキレアの呼び声に、赤いアネモネを切り取っていたストレリチアは、夕陽色の瞳を柔らかく細めて立ち上がり、四阿へと歩いてくる。

 近くの水場で手を洗う彼女に布巾を渡し、用意されていた紅茶の蒸し時間が過ぎているのを確認してから、アキレアは温めてあるカップに紅茶を注ぎ淹れた。

 席につくストレリチアに一つ、そして自分用に一つ淹れると、きちんとアキレアが席に着くまで待っている彼女は、じっと動作の一つ一つを眺めていて、恥ずかしいから止めてくれないかな、と思いつつも、本当に止められるのもそれはそれで淋しくも思うので、きゅと唇を引き締める。

 ストレリチアは、その様子が面白いのか、ふふ、と吐息まじりに笑うと唇をカップに寄せて、一口飲み込んだ。

 美味しい、と夕陽色の瞳が緩んで細められる姿を見つめてから、アキレアはとろりとした黄金色の蜂蜜がたっぷりと収められた瓶から、スプーンでひと匙、蜂蜜を掬うと、それをゆっくりと紅茶が淹れられたカップの中へと落とした。

 紅色の紅茶は少しだけ水面を濁らせるけれど、気にせずにかき混ぜて一口飲み込むと、口の中にまろやかな甘さと花の香りが広がっている。

 あの村で舐めた蜂蜜の味とは全く違う、優しい味。


『アキレアは甘いものが好きね』


 食事はろくに摂ろうとしないくせに、そうやって蜂蜜や果物やお菓子ばかり食べるでしょう、と呆れながらも微笑ましそうにストレリチアは言う。

 その事に、不意に故郷の景色が過ってしまい、思わずアキレアは手にしていた焼き菓子を皿に戻してしまった。

 そうですか、と、微かに震える声で聞けば、その様子に気がついたらしいストレリチアは、困ったように眉を下げて頷いている。


「故郷の村ではよく食べていたので……、習慣、なのかもしれないですね」

『……聞いても?』


 あまり面白い話ではない、と言おうとして、けれど、彼女がそうして外の話を聞きたがるのは、囚人同然に空中庭園へ閉じ込められた身の上からくるものなのだろう、とも理解してしまい、アキレアは口をはくはくと動かしてしまう。

 その様子を見ていたストレリチアは、無理に話さなくてもいいのよ、と言い、包み込むように両手でカップを持って視線を俯かせていた。


「姫様なら、いいですよ」


 故郷では果物を沢山育てていた事、蜂蜜を得る為に養蜂が盛んに行われていた事を説明すると、ストレリチアは途端に目を輝かせた。


『養蜂って、蜂を使って蜜を集めるのよね? 蜜を収穫する時は怖くない? 蜂蜜はこの国でもあるけれど、花の蜜によって味が違うって本当なの?』


 この庭園から出た事のないストレリチアにとって、興味の惹かれる話題だったのだろう、彼女は案外好奇心が旺盛で、外での話を聞くと、それはそれは嬉しそうに聞きたがるのだ。

 普段はつんとすました顔をしているのに、まるで子供のようなあどけなさを垣間見せるストレリチアが何だか微笑ましくて、アキレアは、ふ、と思わず吐息混じりの笑みを零してしまう。


「そうですね。花によって香りや味が変わってましたよ。花もこの庭園みたいにたくさん育ててました」

『ここに同じ花もある?』

「花がある場所は、特に高地だったので……俺は殆ど行かなかったんです」


 行けなかった、とは言えずに、視線をそっと外して、庭園へと向けていた。

 この空中庭園は、色鮮やかな花々で満たされた、楽園のような牢獄だ、とアキレアは思う。

 常にありとあらゆる花々で満たされた庭園は、歌姫の心を癒し慰める為に整えられ、アキレアの目にも確かに美しく思えたものだけれど、故郷と同じように、どこか息苦しい。

 眩いばかりの笑顔を浮かべ、自由自在に空を駆けていた故郷の人々を思い浮かべ、飛ぶ為の羽さえあれば、そんな事を思わずにいられたのだろうか、と考えていると、蜂蜜の入った瓶を手にして眺めていたストレリチアは、そっと呟いた。


『此処で養蜂でもしようかしら』

「そう簡単なものじゃないと思いますけどね」


 呆れたように言えば、ストレリチアはむっとした顔で頬を膨らませている。

 手にしていた瓶の蓋を開け、スプーンでひと匙、ふた匙、と蜂蜜を入れようとするので、そんなに入れたらお腹壊しますよ、とアキレアは慌ててそれを止める羽目になってしまっていた。

 先程まではあんなにも大人びた様子だったのに、時折、こうして子供っぽい悪戯をしでかすのだ。

 本当に目が離せなくって、仕方のない人だ、と呆れたように笑みが零れてしまうと、ストレリチアの夕陽色の瞳は、柔らかく細められている。


 『それなら、蜂蜜の美味しさを讃える歌でも作りましょうよ。ねえ、アキレア。メロディを考えて頂戴』

「はあ?」


 何だそれ、と思いつつ、胸底から面白さが湧き上がってきて、アキレアは口端を引き上げた。

 ストレリチアが悪戯に笑っているので、釣られてしまったのだ。


 『それで、明日の朝に舞台で歌うのよ。きっと皆びっくりするわ』

「きっと明日は国中の蜂蜜が売り切れるでしょうね」

 『ふふ、わたし、明日には歌姫じゃなくて蜂蜜姫って呼ばれているかも知れないわね』


 そうして二人で最高に馬鹿馬鹿しくて最高に楽しい悪戯計画を話し合っていると、どちらともなく笑い声が零れてしまう。

 頰が痛い、お腹が痛い、とけらけらと笑っていたストレリチアは、笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を拭いながら、は、と息を吐き出していて。

 乱れてしまった新緑色の長い髪を見かねて、アキレアが直してやろうと手を伸ばすと、その手をそっと掴まれる。


 『ねえ、アキレア。わたしは此処に囚われて不自由を感じているけれど、あなたが此処に来てからは、少しだけ、自由に感じているの』


 あなたのその羽のおかげかもしれないわね、と笑うストレリチアの手のひらは、自分のそれとは全く違う、柔らかでほっそりとしていて、何の痛みも知らないかのように見えた。

 けれど、今ではそんなのはただのまやかしだ、とアキレアは知っている。

 子供みたいに笑ったり、突拍子もない悪戯を考えたり、無茶な我儘を言ったり、自分の感情を上手く言葉に出来なくて怒った顔をしてしまったり……、他の誰もが知らない姿の彼女を、知っている。


「姫様の心が、そんなふうに自由だからですよ」


 飛ぶ為の羽がない自分が、どこまでも飛び立てるような気持ちにさえなれるのは、きっと、そんな彼女がいるからだろう。

 アキレアはそう静かに思いながら、外気で少しひんやりとしていた彼女の手を、ゆっくりと握り返していた。

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