第288話 鈴村家のお話 2
今日も今日とて鈴村夫妻は、香織が久しぶりに重賞レースに出走すると言う事で、夫婦揃ってテレビの前で競馬観戦をしていた。
部屋のリビングで寛ぐ夫を余所に、レースが始まるまでの時間が長く感じた幸子は、リビングで掃除機をかけ始める。
「レースが終わるまで落ち着いて見たらどうだ」
「ただ座っているのも暇でしょ? まだスタートまで10分以上あるのですから」
掃除機の音がブーブーと鳴り響き、正敏は中々テレビに集中できない。テレビのボリュームを若干上げて、解説者達の話を聞く。
「しかし、まさかGⅢまで騎乗させて貰えるとは」
「え? ああ、そうね。何か癖の強いお馬さんで鞭を使わないから、そのまま騎乗させて貰えたとか言っていたわ」
夫に返事を返しながら、先日娘と電話で会話した内容を思い出し若干表情を顰める。
「何だ。今年引退しないからと言って、お前が不機嫌になっても仕方がないだろうが」
「そうなんですけど、せっかく引退してくれると思ったのよ?」
コスモス賞を勝利した後、香織への騎乗依頼が増加した。そして、そのお陰で香織は今日までに16勝を挙げる事が出来た。その結果、香織の引退への意識が薄れてしまった。
「まあ、まだ20代なんだ。30歳に成ったら流石に焦り始めるさ」
「どうかしら? あの子は未だに恋愛や結婚に対し、どこか夢見ている様な気がするの。親がしっかりしないと、あれだと自分で相手を見つけるのは厳しいわ」
娘の事を理解しているのは、やはり父親では無く母親であった。
夫婦でそんな会話をしている内に、テレビではアルテミスステークスへ出走する馬達のパドックの様子が映し出される。枠順1番の馬から順にコメントをしていく解説者だが、残念ながら香織が騎乗する馬についてのコメントは非常に短かった。
「相変わらず、香織のお馬さんは評価が低いわね」
「距離適正的に中長距離らしい。芝1600mでは距離的に短いんだろう。そもそも、晩成の血統で2歳での活躍は厳しい評価だったからな」
娘が騎手になって以降、正敏は何かと競馬を見るようになった。そして、多少なりとも知識を身に付けている。更に、今週は競馬雑誌も購入し、一通りの出走する馬達の評価は確認していた。
「あっ! この12番のお馬さんが香織の馬よね? 何か首をブンブン振って元気そうだわ。頑張ってくれそうね」
パドックを回る馬達を見て、幸子がそう感想を述べる。正敏も同じ映像を見ながら、これは入れ込んでいるのか? 馬の様子に妻とは逆で心配になる。
「兎に角、無事にレースを走ってくれれば良い。久しぶりの重賞挑戦だ。香織も緊張しているだろう」
「そうね。落馬とかせずに走ってくれれば、それで良いわね」
馬に対し特に思い入れの無い正敏達は、勝利などに拘る事無く、娘が無事にレースを終えてくれる事を願うのみだった。
テレビでは、止まれの合図と共に騎手達が馬の下へと駆け寄って行く。
「あ、香織が来たわ。でも、こうやって見ると、香織って知らなければ判らないわね」
「香織が騎乗する馬だから判るみたいな感じだな」
妻の言葉に笑いながら、正敏は娘と馬の様子を見る。どの騎手もパッと見では判断がつかない。その為、騎乗する馬のゼッケンが頼りだ。
その後、本場場入場を経て、ゲート入りが始まる。
「幸子、ゲート入りが始まるぞ。そろそろ座りなさい」
「あら、漸くなのね」
掃除へと意識が集中していた妻に声を掛ける。そして、ソファーに二人並んでレースを眺める。
「無事にスタートしてくれるかしら? スタートの時が一番危険なのよね?」
「香織が今騎乗している馬は、気性的には穏やかなんだろ? 大丈夫だ」
そう告げながらも、正敏の脳裏にパドックでの入れ込んだ様子が過る。ただ、敢えて妻に告げても心配する度合いが増えるだけの為、ただ黙ってレースのスタートを待った。
そして、ゲートが開き、無事に馬達がスタートをする。
「まあ、12番が前に行くわ。凄いわね」
「スタートが上手な馬っぽいな」
その後、12番の馬が先頭を走り続け、最後の直線に入った。
「なあ、これって勝つんじゃないか?」
「どうなのかしら?」
テレビの実況が、香織が騎乗するミナミベレディーと言う馬の名前を連呼する。
「頑張っているな。お? 隣の馬が遅れたな」
「ええ、あと少し、あ、勝ったわ!」
香織が騎乗する12番の馬が、トップでゴールを駆け抜ける。その瞬間を見て、二人はホッと息を吐いた。
「ねぇ、勝っちゃったわね」
「ああ、勝ったな。重賞2勝目か。引退が遠のくな」
正敏の言葉に、幸子が思いっきり大きな溜息を吐くのだった。
そして、年度末に開催された阪神ジュベナイルフィリーズ。此処でも、正敏と幸子はソファーに二人並んでレースを観戦していた。テレビでは既に馬達がゲート前に集まり、順番待ちをしている。
「凄いな。GⅠレースに騎乗するまでになったんだな」
今一つ競馬に対し思い入れの無い正敏であるが、それであっても娘が競馬の最高峰GⅠで騎乗すると言う事に何とも言えない高揚感がある。それこそ、子供が大きなコンクールに出場する時の様な気持ちで、テレビを観ていた。
「これで勝っちゃったら、まだまだ引退が延びそうで困るわ。お見合いの釣書にGⅠレースで勝ちましたって書いても、学歴とかじゃあるまいし、女の子にプラス要素何て無いわよ?」
未だに娘の結婚を諦めていない幸子は、正月に帰省して来る娘に対しお見合い写真を用意して待ち構えている。
「ん? 香織はどうやら緊張しているようだな。何か動きが硬いらしい」
「大丈夫なのかしら?」
テレビの解説者が、香織の騎乗する馬をダークホースと位置付けて解説していたが、その際に騎乗する香織の緊張した様子を不安要素として説明していた。
二人が心配しながらテレビを見詰める中、ゲートが開きレースがスタートする。
「あ!」
「あ!」
奇しくも二人の叫び声が同時に上がる。
二人が注目していた6番の馬が、スタート直後に明らかに普通ではない動きをした。そして、騎乗している騎手がバランスを崩す様子が見て取れた。しかし、そのすぐ後に何とか体勢を整え、落馬する事無く無事に走り出す。
「貴方! 今何があったの?」
「判らないが、香織がバランスを崩したのは判った。落馬せずに済んで良かったな」
「だから言ったのよ! 落馬してからでは遅いのよ!」
娘が落馬する寸前となった事に、幸子の動揺は激しい。最早テレビでレース観戦どころでは無く、如何に娘を引退させるか、その重要性をギャンギャンと夫に語り続ける。そして、レース自体は気が付かぬ間に決着を迎え、後になって6着に終わった事を知る。
「やはりGⅠともなると、際どいスタートを切らないと勝てないのだろう。香織はまだまだ経験が乏しい為、恐らくフライングしそうになったのではないか?」
「どうして落馬しそうになったかはどうでも良いの。問題は、常に危険と隣り合わせだと言う事なの! 落馬して、その後亡くなった人だっているのよ? 貴方は香織が死んでも良いの!」
「誰もそんな事は言っていないだろう。まずは落ち着きなさい」
あまりの剣幕にタジタジとなりながらも、正敏は妻を必死に宥めるのだった。
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