第287話 鈴村家のお話 1

 競馬専用チャンネルという物が有料放送で存在する。日曜日などで普通に放送されるのは、重賞レースや、メインレースが主であり、午前中などに行われるレースは放送されない。その為、放送されないレースを見ようと思うと、自ずと競馬チャンネルと契約する必要がある。


 そして、鈴村家では娘が騎手をしている為に、更には、娘が騎乗するレースの殆どがテレビ放送されないが故に、競馬チャンネルに加入していた。そして、今日も娘が出走する札幌競馬場のレースを見ようと、夫婦そろってテレビの前に並んで座っていた。


「勝ったわ! 香織が勝ったわよ!」


 思わず歓喜の声を上げる妻の幸子に、隣で同じく観戦していた夫は思わず苦笑を浮かべる。


「何だ。此の侭勝てずに引退して欲しかったんじゃ無いのか?」


「そうですけど、娘が勝てたんですから素直に喜んでも良いじゃない」


 夫の一言に、思いっきり頬を膨らませる幸子だが、夫の言葉も間違いではない。


 鈴村家の長女である香織は、まだ小学生低学年の頃に訪れた乗馬クラブでポニーに乗馬した。それは、香織が言うには運命の出会いだったそうだ。


 引綱を引かれながら、ポニーに乗馬した状態でコースを1周する。ポニーの可愛さと、騎乗してコースを回る楽しさを知ってしまった香織は、その後乗馬クラブへと通い、ポニーライセンスを取得し、更にそのまま乗馬クラブへとと、ステップアップしていく事になる。


 両親としては、あくまでもお稽古事。趣味の一環としての乗馬であったが、娘である香織はどんどんとのめり込んで行った。そして、中学生の頃に遂に騎手になると言い出す事となった。


「あの子は、昔から思い込みが激しかったですから」


「お前に似たんだよ。幸一は俺に似ているが、香織は思いっきりお前に似たな。女の子は父親に似ると言うが、あれは嘘だな」


 社員100名ほどの会社を経営する正敏は、何事も慎重に進める事を好む。何をするにも事前に多くの情報を集め、その中から可能な限り失敗しにくい選択肢を選ぶ。その性格は、長男にもしっかりと引き継がれている。


 それに対し、娘は直感で物事を決める所が多々ある。勉強も、運動も、真面目にコツコツ熟す癖に、突然思いもしない行動をする所がある。


 まだ小学生低学年の頃、本来帰宅しても可笑しくない時間になっても娘が帰って来ない。学校に連絡をすると、いつも通り帰宅したとの事で、やれ誘拐か、はたまた事故かと大騒ぎになった。


 急いで警察に連絡を入れ、皆総出で捜索をとなった時、隣町の警察から無事保護されたと連絡が入った。そして、幸子が慌てて駆けつけると、のんびりとジュースを飲んでいる香織がいた。


「あのね、虹が綺麗だったの。だからね、虹を追いかけてたの」


 その日、にわか雨が降り、その後の空に綺麗な虹が出ていた。香織は、その綺麗な虹をもっと近くで観たくなって、只管に虹を追いかけたのだそうだ。


 その後も、本を読んでいて、本に影響を受け旅に出ようとしたり、何を思ったか突然プリンを作ると言い出したり。鈴村家で発生する騒動の半分くらいは香織が起点となっていると言っても過言ではないだろう。


「でも、これで1勝も出来ないで引退とならなくて済みますね。あの子も頑張っているんですが、やっぱり勝負の世界は厳しいですね」


「そうだな。騎乗は体力勝負な所もある。最後は腕の力もいる。女だとやはり厳しいだろうが、それでも自分で選んだんだ。まあ、デビューして10年、重賞も1勝した。よく頑張った方だろう」


「ええ、無事是名馬とも言いますし、騎手だって同じよね。怪我無く引退出来ればそれで良いわ。あとは良いお相手を見つけないと。お見合いのお相手も探さないと」


 娘の香織は、6月の段階で漸く1勝を挙げた。年内で二桁勝利は厳しいだろう。フリーの騎手であるが故に、勝たなければ収入に直結する。年始に帰郷した折に、口にはしなかったが娘が引退を視野に入れている事に何となく幸子は気が付いていた。


「おいおい、まだ結婚は早いんじゃないか? それに、引退が正式に決まってからじゃ無いとだな」


「あら、貴方、何を言っているの? 香織の友達の貴子ちゃんも、明日美ちゃんも既に結婚しましたし、和花ちゃんも結婚間近みたいでしょ? あの子も焦っているのよ。何せアラサーですもの。引退して、テレビにとかあの子は無理でしょうし、そうしたら結婚しかないわ!」


 妻のあまりの勢いに、正敏は何も言えなくなるのだった。


 そして、その夜に妻が娘と電話で何を話していたのか、残念ながら正敏にはその内容は伝わってこない。ただ、妻の様子からは、まだ娘が引退を決断した様子が無い事だけは察するのだった。


 その後、娘は未勝利戦と新馬戦で更に勝利を挙げ、何と8月までに5勝を達成した。そして、久しぶりのオープン戦出走となる。


「香織が騎乗する馬は8番人気か。もう少し良い馬に騎乗させて貰いたいだろうが、中々に厳しいのだろうな」


「そうね。うちは競馬とかには縁がない家ですし、流石にあの子の為に馬は買えないわね」


 競馬解説者の評価も、1番人気や2番人気の馬に偏っており、香織の騎乗する馬は何方かと言えば香織が騎乗するという点において注目を集めているような感じであった。


「そんな事をしたら、幸一が怒鳴り込んでくるぞ。引退後に会社の総務に入れると言ったら、グチグチ文句を言ったからな」


「あの子はケチだから。でも、不思議と兄妹仲は悪く無いのよね?」


 そう言って笑う二人だが、出来れば娘を応援してあげたいという気持ちは常にあった。それ故に、息子には内緒で何かと仕送りなどをしていたりする。


 そして、なんと娘が騎乗する馬が、コスモス賞を勝利した。


「まあ! 凄いわ! 勝ったわよ!」


「ああ、最後は抜かれるかと思ったが、何とか粘りきったな。うん、最後の年にオープン戦で勝利出来ていれば、香織にとっても良い思い出になるだろう」


「そうね、これで今年は6勝目。せっかくだし10勝くらいはさせてあげたいわね」


「10勝もしたら引退しないとか言いかねないぞ?」


「それは困るわ」


 その後、香織のインタビューや、コスモス賞の表彰式の様子が放映される。


「やはり未勝利戦や1勝馬戦とは違うな。インタビューや表彰式が見れるのは何時以来だ?」


「ほんと、あの子、思いっきり顔が引き攣ってますね。でも、このお馬さん可愛いわね。ほら、女の子に懐いているわ」


「ほう、関係者かな? 凄い懐いているね」


 普段は見る事の無い香織の様子が見れた事を喜びながら、引退後の来年に向け会話を広げて行くのだった。

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