第283話 閑話:トッコさんの引退レース(一般の人?)

 有馬記念は競馬に関わる者達にとって重要な意味を持つ。一年の締めくくりのレースという意識も強く、また競馬ファン達に選ばれた人気馬が出走するドリームレースでもある。それ故に例年、競馬協会としては集客に期待しているレースでもあるが、今年の有馬記念は普段とは一線を画す様相を見せていた。


「うわあ、すごい人だね。この人達がみんな競馬場に向かうのかな」


「そうだと思う。ほら、競馬新聞を持っている人もいるし、あの人達なんてミナミベレディーのぬいぐるみ持ってるよ」


 友人の指し示す方を見れば20代前後と思しきダウンジャケットを着た男性が、似合わないぬいぐるみを手に歩いているのが見える。その男性のみならず、歩いている人達の至る所に何かしらのミナミベレディーグッズを手にした人の姿が見えた。


「おお、凄いね。あのサイズのぬいぐるみを持って此処まで来たんだ。チャレンジャーだなあ」


「それだけミナミベレディーが好きなんだろうけど、確かに凄いね」


 そう言う自分達が手にしているトートバッグにも、コミカルに描かれたミナミベレディーとタンポポチャが並んで描かれている。それのみか同じデザインが描かれたトレーナーを着ている人すらいる。


 二人は決して競馬に詳しいわけではない。競走馬の血統も、その歴史も、それこそ自分達が推しているミナミベレディーやタンポポチャなどの馬以外は名前すら碌に知らない。たまたまテレビで放送されていた番組でミナミベレディーを知り、競馬と言うよりもミナミベレディーという馬に興味を持っただけ。


 そして、その興味を持った馬が走るレースをテレビで見て、その勝ち抜いて行く度に段々と惹かれていった。更にはレース後にミナミベレディーが他の馬をグルーミングする姿にほのぼのとし、ネットにアップされた映像を見てミナミベレディーに対しての愛着が増していったのだった。


「予想以上に子供連れが多いね。でも、この混雑だと迷子になりそう」


「だね。子供も戸惑ってる」


「何も今日来なくてもって、やっぱりミナミベレディーかあ。そりゃあ見たいよね」


「子供にも人気あるよね? でも、これで競馬場嫌いになるかも」


 笑いながら会話する自分達ではあるけど、私達の身長でもこの混雑は中々の圧迫感を感じる。子供であれば自分達が感じている数倍の圧迫感があるだろうし、そもそも人の背中が壁になって視界は非常に狭いと思われる。それ故に子供連れで来るのはどうかと思いはするのだが、ミナミベレディー最後のレースとなると、どうしても来たくなったのだろう。


「うわあ、やっぱり奇麗だね。競馬場ってこんなんだったんだ」


「うん、テレビで見るのとは違うね。芝が奇麗」


 競馬場へと入ると、競馬場のコースが遠目に視線に入った。人混みがすごくて中々に前に進めない中で、漸くスタンドに到着した二人の目の前に、競馬場のコースが飛び込んできた。


「うん、なんか来てよかったって此れだけで思う。人混みが凄いけど、これはこれで雰囲気が感じられて楽しいと言えなくもない」


「指定席取れなかったけどね。指定席ってあそこかあ。ガラスに囲まれてると寒さがしのげるのかな?」


「でも、ほとんどの席が寒そうだね」


 スタンドから後方を見上げて初めての競馬場を眺める。二人ともに初めて訪れる競馬場に気分が高揚しているのが分かる。


「まだ場所取りは焦らなくて良いのかな?」


「12時だから、それまでに絶対トイレとかで移動するし、パドックも見てみたいよね」


「ショップも見てみたいし、どうせなら何か記念で買いたいよね」


 何と言っても初めて訪れた競馬場である。それ故に、事前に調べていた様に見に行きたいところは多数あるが、それでは場所取りはと言うとタイミングが分からない。


「うわあ、もうカメラをセットしている人いるし、あ、あそこがウィナーズサークルだ」


「レース後に引退式でしょ? そう考えたらウィナーズサークルの傍に位置取りしたいけど、もう無理じゃない?」


「見たいところが多すぎて、体が二つ以上欲しい」


「だね」


 まだ12時を少し過ぎた時間であるにも関わらず、ウィナーズサークルの周囲では既に多くの人が場所取りを終えているようにも見える。せっかく競馬場に来たのだから、出来れば近くでミナミベレディーの姿を見たい。可能であるなら引退式だって。ただ、その思いは競馬場に訪れた人達共通の思いだろう。


「とにかく、まずはグッズ見ようよ。あとはパドックを見てみて、そっから考えよ?」


「うん、グッズは記念に欲しいし、これだけ人が居たら欲しいのが売り切れちゃいそうだよね」


 二人はそう話をしてショップへと人混みを掻き分けて進むのだった。


 そして、その後にパドックへと足を向ける。


「おお~馬だ」


「うん、思っていたより大きい」


 パドックを回る馬達を目の前に、二人はその馬達の姿をただ眺める。ミナミベレディー人気で競馬の世界に足を踏み入れたとはいえ、はっきり言ってど素人の二人にどの馬が勝てそうかなど解るはずもない。


「う~ん、今パドックにいる馬は7レースを走る馬だよね」


「ダートって砂のレースだよね? でも、どの馬が良いなんて全然わかんないね」


 関係者に連れられてパドックを周回している馬達は、毛色が違ったり体格が違ったりしている。ただ、それがレースにどう影響するかなど素人に分かるわけがない。手にした競馬雑誌のレーシング表を見て、パドックに表示されている馬のオッズと見比べる。


「う~ん、6番が一番人気だね。ほ~ん、なるほど」


「どの馬もみんな強そうだねえ」


「どうする? 試しに馬券買う?」


「せっかくだし、買っちゃおうか」


 二人ともにミナミベレディーの応援馬券は100円で購入する予定でいる。その為、応援馬券の購入ついでに目の前のレースの馬券も購入する事にする。


「で、どの馬がいい?」


「う~ん、人気で見ると6番とか2番なんだけど、それだと面白くないよね?」


 そう言いながらも、目の前を歩く馬達を見て勝てそうな馬が分かるわけではない。それでも自分達の直感を信じようと気に入った馬の単勝馬券を購入してみる。そして初めての馬券を購入し、再度パドックへ戻ると既に馬には騎手が騎乗してパドックを出ていくところだった。


「うわあ、騎手が出てくる所を見れなかった」


「うん、大丈夫。誰が誰か全然解らないから」


 そもそも騎手の名前が分からない。二人が知っているのは、ミナミベレディーの主戦を務める鈴村騎手とタンポポチャに騎乗していた鷹騎手の二人だけだ。


「このレースって鈴村騎手は騎乗しないんだね。残念だなあ」


「うん、鈴村騎手は見てみたかったね」


 その後の会話で流石にパドックでミナミベレディーを見て、その後に移動してレースを見るのは厳しいと判断していた。その為、結局のところ二人は引退式が行われるであろうウィナーズサークルが見える場所に位置取りをする事にしたのだった。


「う~~~、寒いね。人が風除けになっているとはいえ、結構寒い」


「年末だしねえ」


 競馬場に到着した頃は、それ程寒さを気にしなかった二人ではあった。しかし、一か所に留まるとなると次第に体が冷えて来るのは仕方がない。そして、漸く第7レースが始まろうとしている。


「お~~~、あんなとこからスタートするんだ」


「オペラグラスだと見辛いね。ターフビジョンで見ている方が見やすい」


 持参してきたオペラグラスでは、流石に遠くにいる馬達の様子を見るには厳しい物があった。その為、結局は目の前にあるターフビジョンを見つめることになった。


「あ、始まった!」


「おお~、競馬場の中でも実況って聞こえるんだ」


 最初は遠目に見える為に今一つ実感がわかない二人だったが、最後の直線に入り聞こえてくる観客の歓声と、目の前を走り抜けていった馬達の様子に思わず見入ってしまう。知らず知らずに周囲の熱気が乗り移ったかのように気持ちが昂って来るのが分かった。そして、ゴールを馬達が駆け抜けた瞬間に上がった観客達の歓声に自然と笑い声が上がる。


「あはははは、なんか凄いね」


「うん、だけど、思いっきり馬券は外れた」


「あ、私もだけど、なんかすっごい楽しい」


「うんうん、競馬って凄いね」


 周囲を埋め尽く人達が一斉に歓声を上げる。それぞれの思いが歓声になって上がり、自分も周りの熱気に巻き込まれていく。二人にとってそれは初めて経験する感覚だった。


「うわあ、なんか嵌りそう」


「だね、楽しいよね」


 思いっきり周囲の熱狂に影響を受けた二人は、そのままミナミベレディーの引退レース観戦となる。


「うわあ、あれがミナミベレディーだ」


「凄いねえ、すぐ傍に居るんだよね」


 パドックへと移動出来ない二人はターフビジョンに映し出されるミナミベレディーの姿を見詰める。ターフビジョンに映し出されているのだ。ある意味、普段自宅でテレビで見るのと同じである。そうであっても、同じ競馬場の中に居る。大勢の競馬ファン、ミナミベレディーファン達と共に見ている。

 そして、何と言ってもこの後に目の前で有馬記念が開催される。ミナミベレディーの引退レースを、更には引退式を自分の目で見ることが出来る。その思いは数倍にも、数十倍にも、感性を、感情を、喜びを高めてくれる。そんな人達が今ここに集っていた。


 本馬場入場が始まり、本馬場へとミナミベレディーが現れた時、自然と歓声が上がった。周囲から上がった歓声に二人は思わず周りを見回してしまう。それ程の歓声であっても、ミナミベレディーは気にした様子は欠片もなく、馬だまりへと駆けて行った。


「うわあ、ミナミベレディー初めて見た」


「うん、やっぱり他の馬とは違うよね」


 ミナミベレディーファン故の色眼鏡が思いっきりかかった感想を言い合いながら、それでもターフビジョンへと視線を注ぎ続ける。


 そして、突然周りの人たちがザワつきはじめ、ターフビジョンでは旗を持った係員が壇上に上がった。そして響き渡るGⅠのファンファーレと、群衆一体となった手拍子。慣れない二人はオロオロとしながらも、慌てて聞きなれたリズムに手拍子を合わせ、歓声をあげた。


「凄い凄い! やっぱり競馬場に来ると違うね」


「うん、凄い熱気だよね!」


 自分達も周りと一体になったかのような何とも言えない気持ちでいると、ターフビジョンの中では次々と馬達がゲートへと収まっていく。


「あ、最後はミナミベレディーだ」


「うん、もうスタートするんだね」


「思い切って競馬場に見に来て良かったね」


「うん、思っていたのと全然違った。来て良かったね」


 初めての競馬場、その興奮と周囲の熱気に、気が付けば間もなく有馬記念が始まろうとしている。そんな二人の見詰める先でミナミベレディーがゲートへと収まり、一斉に馬達がスタートするのだった。


◇◇◇


 僅か2分30秒という時間が経過し、有馬記念は決着した。それは一瞬であり、非常に濃密な時間であった。レースを観戦していた二人には、レースの内容など良く解らない。ただ、中盤から最後までをミナミベレディーが頑張って先頭に立ち、そして最後まで頑張って勝利を掴んだ。

 そして、この有馬記念でGⅠ10勝という記録を達成し、引退レースに花を供えた。その事は、レースが終わっても行われている実況で語られているし、事前に二人が調べて来た内容からも理解していた。ただ、そんな事以上に、目の前で行われた最後まで結果の解らない激戦に意識が取られてしまっていた。


「凄かったね。最後頑張ってたね」


「うん、頑張ってハナ差で勝ったね。流石ミナミベレディーだね」


「サクラヒヨリが居るから、グルーミングあるかなあ?」


「見てみたいよね」


 ミナミベレディーの勝利に興奮しながらも、次に見たいのは噂のグルーミングだ。そんな思いでターフビジョンを見ていると、他の騎手と何か会話をしていたっぽい鈴村騎手がミナミベレディーに騎乗してスタンド前へとやって来るのが解った。


 ウワァ~~~~~!!!


 競馬場が揺れているかの様な歓声が上がった。至る所でミナミベレディーに、鈴村騎手に祝福の声が叫ばれる。叫び声ですら聞こえないのではないか、それ程の歓声に中てられて、いつの間にか二人も叫んでいた。


「ミナミベレディー、おめでとう~~~~!」


「ミナミベレディー、おめでと~~~~~!」


 恐らくは聞こえていないであろう声、それであっても、周りでは次々と声が掛けられる。その声援に鈴村騎手はミナミベレディーの鞍上でお辞儀をして、腕を上げる。ミナミベレディーもゆったりと競馬ファン達を見渡して、鈴村騎手に促されるままに馬首を返しゆっくりと駆け足で走り去っていく。


「うわあ、やっぱりミナミベレディーって凄いね」


「馬って本当は臆病なんでしょ? これだけの声援を受けても気にした様子が無かったよね?」


「流石は女帝だよね!」


「うん、凄いね!」


 二人の記憶には、その悠然と周囲を睥睨する姿が強く焼き付いたのだった。


 もっとも、この後に行われた引退式で、桜花ちゃんと戯れる姿と、サクラヒヨリとのグルーミング、そしてミナミベレディー自身による引退会見で更にその印象は上書きされるのであったが。

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