第282話 閑話:細川美佳と北川牧場

「あ~~~、ここも変わったなあ。うん、良い意味でだけど」


 目の前には明らかに修繕されて綺麗になった厩舎が立ち並び、春になり奇麗に生え変わった芝が広がる放牧地も以前と違い明らかに広く整備されているのがわかる。その変わりように春の訪れと時間の流れを感じるとともに、ミナミベレディーが北川牧場に齎した恩恵の凄さを実感する。


「美佳さん、どうですか? 奇麗になったでしょ」


 北川牧場の事務所から放牧地へと案内してくれた桜花の嬉しそうな表情を見て、美佳の顔にも思わず笑みが浮かぶ。


「ですね。うわあ、初めてお邪魔した時と比べると、すっごく奇麗になりましたよね」


「うん、厩舎も奇麗になったし、何といっても周回コースとか、ウォーキングマシンとか増えたし、生まれた仔達がこれで少しでも活躍してくれれば嬉しい」


 笑顔で告げる桜花の表情には、初めて訪問した時に感じた切迫感など欠片も存在しない。その事に何となく安堵の思いが沸きあがる。


 馬見厩舎では幾度もミナミベレディーと会っていた美佳であるが、桜花賞勝利後に初めて北川牧場へと訪問した。その時はGⅠ馬の故郷訪問というお題目で訪問した為、初めてテレビに放送される事で北川家の人達は普通に緊張していた事を思い出す。


 それでも、べレディーのPRとか、血統の説明とか始まった途端に豹変しましたけどねえ。


 美佳はミナミベレディーと桜花に初めて出会った頃のことを思い出していく。


 20歳を超えてから美佳の下には様々な仕事が舞い込んだ。芸能界で自分がどういう方向で生き残っていくのかを模索していた美佳は、事務所の協力もありバラエティー番組なども積極的に出演する様になった。その縁で競馬関係のオファーも来たのだった。


 競馬の事など欠片も解らない美佳であったが、持ち前の真面目さで馬の事を必死に勉強し、最初は競馬素人を売りにして動物大好きを表に出し、次第にお馬さんが好きになってきてと演技を変えていった。


 まあ、お馬さんは可愛い馬もいるという事で、でも最初はビビったよねぇ。


 初めて実際の現役競走馬を目の前にした時、その大きさに思わず尻込みをした事を美佳は思い出す。


 特に競走馬は気性が荒い馬も多く、どうしても気後れすることが多かった。馬の鼻先を撫でるだけでも緊張し、その為に馬も逆に緊張させてしまう。そんな状況に悩んだ美佳であったが、こればかりは慣れるしかないと言われていた。


 その後、競馬番組で幾度かレポーターの様な事をさせて貰った。他のバラエティー番組でも会話の中で馬の話なども入れた。そんな努力が認められ、次第に競走馬好きのアイドルとして競馬ファン達に受け入れられ始めた頃、桜花賞に出走するミナミベレディーの取材を行ったのだった。


 美浦に所属する厩舎で、桜花賞へ出走予定の馬達を順番に取材していく。その中で3頭目に取材を行ったミナミベレディーは、今まで見てきた競走馬と比較して非常に愛想がよかった。


「うわあ、凄い人懐っこいですね」


 馬自体の動きも非常にゆっくりしていて、馬体の大きさの割に怖さを感じられない。肝心の馬も先程からも美佳の手に鼻先を擦り付ける様にして愛想を振りまいている。


「リンゴが貰えたからね。そりゃあ食いしん坊のミナミベレディーは愛想を振りまきますよ」


 馬見厩舎の調教助手が笑いながらミナミベレディーの首の辺りを優しく撫でる。


 この時ミナミベレディーは既にGⅢを1勝していた。しかし、事前に調べた情報では前評判は非常に悪く、良くてGⅢ、GⅠは厳しいと言われていた。


 こんなに大きな馬なのに、それでも勝てないんだなあ。


 昨年に行われた阪神ジュベナイルフィリーズでは6着。その後のフラワーカップでは2着と好走しながらも、依然として競馬関係者の評価は低いまま。


 阪神ジュベナイルフィリーズでは騎乗していた鈴村騎手のミスと言われてはいるが、騎手が変われば勝てたとは欠片も言われていない。血統も今一つ、同じ母馬から生まれた姉妹もGⅢを勝った馬がいるだけ。特に晩成と言われる成長傾向とステイヤーの系統という事も合わさって桜花賞では現在の所12番人気となっていた。


「ミナミベレディーは好奇心旺盛だからね。多分、何時もと違う様子に興味津々なんじゃないかな?」


 調教助手の言葉通りカメラで撮影されていても物怖じせず、カメラに興味を惹かれているのが分かる。


「可愛いですね。なんって言うか、すっごく愛着が湧きます」


「ありがとうございます。実際、本当に可愛いんですけどね。頑張り屋さんだから桜花賞でも頑張ってほしいんですよね」


 調教助手の言葉に耳をピクピクさせている姿は、まるで会話を聞いているかの様でその点も思わず口元が綻ぶ。


「桜花賞頑張ってね。応援しているからね」


「ブフフフン」(うん、がんばる~)


 まるで自分の言葉に返事をするかの様に嘶くミナミベレディーに、周りにいたスタッフを含め皆が思わず笑い声をあげたのだった。


 そして、桜花賞当日。競馬番組でこの時はまだゲストとして参加していた美佳は、タンポポチャを軸にダークホースでミナミベレディーをあげていた。


「本当はミナミベレディーを大本命にしたかったんです! でも、ここは断念してタンポポチャを軸にミナミベレディー、プロミネンスアロー、ヤマギシンフォニーの3頭で。ガチガチになりすぎなのでダークホースでミナミベレディーを入れちゃいました!」


「おお~、唯一ミナミベレディーを予想に入れている細川嬢ですが、馬見厩舎に訪問してミナミベレディーのファンになったって言ってましたよね。思いっきり私情が入っていますねえ」


 MCの言葉に、美佳は満面の笑みで返事を返す。


「推しのお馬さんを応援するというのも競馬の魅力ですよね? 実は、個人でミナミベレディー単勝馬券も1000円買っちゃっています~」


 そう言いながらミナミベレディーの名前の入った単勝馬券をカメラの前に見せる。


「いやあ、これは入れ込んでますねえ。もし来れば中々の配当ですよ」


「ミナミベレディーもアルテミスステークスを勝っているし、悪い馬ではないんですよね。前走のフラワーカップでも僅差の2着に入ってます。確かに穴馬としては狙ってみても面白いのかな?」


「細川さんみたいな買い方もまた楽しいですよね。やっぱり好きな馬は応援したいですし」


「そうですね。チューブキングの血統という事で応援馬券もそこそこ入っていると思いますが」


 基本的に競馬番組の出演者達は、出走馬の否定的な意見は言わないように心掛けている。その為、番組では美佳に合わせてミナミベレディーの話題を提供するが、その話題もすぐにタンポポチャやプロミネンスアローの話題へと移り変わっていく。


 そんな中で始まった桜花賞であるが、番組出演者の予想とは大きく異なりミナミベレディーが粘りに粘り僅差でタンポポチャを抑え勝利した。


「いやあ、ミナミベレディーが勝つとは驚きました。最後の粘りは凄かったですね」


「タンポポチャも僅かに差し切れませんでしたね。ミナミベレディーの驚異的な粘りは凄かった。それでは、レースを振り返っていきましょう」


 番組内で繰り返されるレース映像を見ながら、美佳は内から込み上げて来る興奮を抑えようと深呼吸を繰り返している。競馬番組へと出るようになって幾度もレースは見てきたし、自身が予想した馬が的中したこともあった。

 それでも推しの馬、来ないと言われていた馬が、粘りに粘ってゴールを駆け抜けた瞬間を見た。その時、美佳は間違いなく魅了されてしまった。


 ミナミベレディーに、そして競馬に。


 美佳が映像で繰り返されるレースを見ていると、場内に悲鳴のような歓声が上がる。


 うわあ、うわあ、凄い! ミナミベレディーが勝った! 勝っちゃったよ! って、え? 何?


 感動に打ち震える美佳は、映像が切り替わりレースを終えたミナミベレディーから下馬して、その脚元を気にする鈴村騎手の様子が映し出されている。


「え? これって、故障? 何かありました?」


「あ、係員が駆け付けますね」


 周りの番組出演者が何かを言っている。しかし、美佳の耳にはその会話は入ってこない。ただただ映像を凝視し、ミナミベレディーの無事を願う。


「あ、歩き始めましたね。大丈夫なようです」


「ビックリしましたね。いやあ、本当にドキッとさせられました。細川嬢、大丈夫です?」


 先程から一切言葉を発していなかった美佳の様子を気にして声が掛けられる。そこで我に返った美佳は、慌てて会話に参加するのだがミナミベレディーの状態が心配で受け答えは非常に曖昧になるのだった。



「ん? 美佳さんどうしました?」


 放牧場を眺めながら思い出を振り返っていた美佳に、桜花が怪訝な表情で問いかける。


「うん、桜花賞の時のべレディーを思い出してた。レースも凄かったけど、あの後も大変だったよね。オークスも出走回避になったし、うん、よく頑張ったよね」


 最後の言葉は、無事に現役を終えたミナミベレディーへの労りの言葉である。本当に必死に、限界まで走って掴んだ栄光である事を美佳は知っていた。


「桜花賞の後ですよね。肉離れとコズミで大変でしたよね。放牧で帰って来てからもしばらくは脚を気にしてましたね」


 桜花も当時の事を思い出したのか、表情に苦笑を浮かべていた。しかし、その苦笑いも遠くから聞こえてきた嘶きで笑顔に戻る。


「ブヒヒヒーン」


「あ、トッコが気が付きましたね。こっちに走ってきますよ」


「うわあ、すっかり丸くなったね」


 放牧に入って間もなく3か月が過ぎようかとしている。その僅かな間にすっかりと繁殖牝馬っぽくなって来ているミナミベレディーを見て、美佳は驚きの声をあげた。


「トッコは食べますから。飼料を変えても気にせず食べてくれるし、其処は助かるんですけど。やっぱり運動量ですか? このまま発情してくれると嬉しいのだけど、そこは期待薄ですね。来週、タンポポチャに会わせるので、そこで良い刺激を受けてくれないかと期待してるんです」


「う~ん、森宮ファームに行った時に合わせて訪問したいんですけど、無理ですねえ」


 森宮ファームは大手の牧場であり、美佳が競馬番組に出演しているからと言って簡単に繁殖牝馬に面会できる訳がない。ましてや対象となる馬はミナミベレディーとタンポポチャだ。それ故に、其処は涙を呑んで諦めるしかない。


「そもそも、美佳さんだってお仕事があるから簡単に時間も取れないですよね?」


「う~ん、そうですね。今日もちょっと無理していますし。でも、ミナミベレディーとタンポポチャのハムハム映像ですよ? うわ~~~、見たい! 絶対に見たい! 桜花ちゃん、ぜひ映像を撮って来て! プライベートで楽しむだけなんで、番組で使わないから!」


 何とも個人的な欲望に忠実な美佳であった。


「ブフフフン」(どなたですか?)


「うわ~~~、べレディー覚えててくれた? 嬉しいなあ」


「ブルルルルン」(う~んと、覚えているような? あ、でも、リンゴください!)


 ミナミベレディーに話しかけながら、用意していたリンゴを食べさせる美佳。その様子を横で眺めていた桜花は、じっとミナミベレディーと美佳のやり取りを見詰めている。


 う~ん、トッコは多分リンゴに釣られているだけで、美佳さんの事覚えていないっぽいなあ。


 ただ美佳の心情を思いやり、桜花がその事を指摘することはなかった。ただ、帰り際にミナミベレディーの好物がメロンである事をそれとなく伝えるのではあった。


「毎回、メロンを持ってきてくれたらトッコも忘れないよね?」


「ブヒヒヒン」(メロンが食べれるの?)


 美佳がミナミベレディーに覚えてもらえるかは、メロンに掛かっているのかもしれない。


◇◇◇

此処までのお話で、現状書きあがっているお話は一区切りです。

あとは、気分次第ですw

お付き合いいただきましてありがとうございます。m(_ _)m

一応、完結となりますが、時々、気が向いたら閑話を追加するかもしれません。

その際は、お付き合いいただけると嬉しいです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る