第284話 閑話:浅井騎手と引退表明をした鈴村騎手
「え? 鈴村騎手、引退しちゃうんですか?」
浅井騎手は、鈴村騎手の発言を驚愕の思いと共に受け止めていた。
ここ数年、鈴村騎手の成績はトップ騎手達と肩を並べても遜色の無い結果を残しており、今乗れている騎手の一人と言われている。特に癖馬、気性の荒い馬に乗せた時の騎乗には定評があり、実力は有れど気性面で結果が出ていない未勝利馬や新馬などの騎乗依頼をされることが多かった。その為、勝利数は多く今年も今の段階でリーディング16位の位置にいた。
「オープン馬の騎乗依頼はそれ程多くは無いから、賞金ランキングは低いんだけどね」
そう言って笑う鈴村騎手であるが、嘗ては引退を覚悟していた騎手の出して良い勝率ではない。ましてや、女性騎手だけに限れば圧倒的な結果を残している。
そんな鈴村騎手の突然の引退表明は、競馬界に少なからず衝撃を与えた。
女性騎手初のGⅠジョッキー。女性騎手初の天皇賞春秋制覇。女性騎手と限れば記録尽くめの存在であり、ミナミベレディーの人気と相まって鈴村騎手個人のファンも多い。その為、鈴村騎手を見る為に競馬場へと足を運ぶファンもいて、引退後は来場者数にまで影響を及ぼしそうであった。
その為、当初は引き留めに掛った競馬協会ではあったが、現在は方針を転換し対外的な活動を依頼出来ないかと色々と裏で動いていたりする。
「サクラヒヨリも今年で引退だし、私もそろそろ結婚を考えないとだから。思い切って引退する事にしたんだ。騎手を続けていると、どうしても自由になる時間が限られるから」
「でも、なんか勿体ないですね。あ、という事は結婚されるんですか?」
「うん、今年婚約して、来年に入籍。結婚式は後になるかな? 参加者の兼ね合いで結婚式の時期がなかなか難しくって」
競馬界は年中無休であり、特に一般の職にある人達が参加しやすい土日はレースが有ったりと忙しい事が多い。特に騎手ともなれば、乗鞍があれば競馬場に缶詰となってしまう。
「ちなみに、お相手は?」
「十勝川勝也さん。今までに幾度かお会いしていたんだけど、昨年改めてお見合いしたの。私としては十勝川グループのご子息なんでちょっと尻込みしたんだけど、勝子さんも優しい方だから良いかなって。他に親しい方もいないから」
「うわあ、玉の輿ですね」
「勝也さんは次男坊だから、まだ気楽なんだけどね。あと、ここ数年で騎手として結果を残せたから、気持ち的には助かってる。これもべレディーのお陰かな?」
何と言っても十勝川グループは馬を扱っている。その為、GⅠを勝利した事のある騎手というのは大きな影響力を持つ。そして、それ以上に期待されているのは新馬、気性難の馬に対しての調教技術である。当歳、1歳馬の段階で勝てる馬、せめてデビュー出来る馬を増やすことが出来れば、今後の牧場経営に多大な利益が見込めると考えていたりする。
「はあ、でも引退ですか。私も考えていかないとかなあ」
「え? でも、浅井騎手も最近は乗れているよね? 今年は初めて40勝を超えそうって言ってなかった?」
年間勝利数で40勝を超えるというのは騎手全体で言っても30位前後となる。勝率、獲得賞金金額などは別としても騎手の中で上位に位置づけされている。
「はい。ただ、勝てているのは未勝利馬や1勝馬などが殆どですから。中々有力馬なんかは回って来ませんし、栗東ですから鈴村騎手と騎乗が被らないので助かっていたんです。でも、鈴村騎手が引退しちゃうんですか。こんな事なら美浦に移るんでした」
「何言ってるの。篠原厩舎所属で良かったって思ってるくせに」
「でも、鈴村騎手に指導して欲しかったです」
所属する場所が栗東と美浦という事で、騎乗する馬がそれぞれのトレーニングセンターに偏ることは仕方がない。フリーの鈴村騎手は兎も角、浅井騎手は篠原厩舎所属騎手であり騎乗レースが無い限り美浦トレーニングセンターへ来る事は滅多にないのだ。
その後、鈴村騎手がレースに出走するために騎手控室を後にする。その後姿を見ながら浅井騎手の頭の中はグルグルと色々な思考が渦を巻くように過っては消え、過っては消えと纏まりが無くなっていく。
「うわあ、この後に乗鞍がなくて良かった」
浅井騎手としては、今のような状態で騎乗しても良い結果が出せる自信がない。
「これって、チャンスではあるんですけどプレッシャーも大きいなあ」
女性騎手の中で現在断トツの人気と依頼数を稼いでいるのは鈴村騎手である。しかし、浅井騎手も昨年から次第に結果を出し始めており、世間では鈴村騎手の後継者やライバルなどと言われていたりする。
「鈴村騎手が主戦を務めている馬って誰が騎乗する様になるのかな?」
少なくない数の騎乗依頼を受けている鈴村騎手の引退。特に主戦を務める馬も増えており、その馬達の乗り替わりが発生する。しかし、その多くが美浦所属である為に浅井騎手への乗り変わりは余り期待できない。
「知恵ちゃんとかは恩恵がありそうだなあ」
今年デビューした新人女性騎手。当初より鈴村騎手のファンであると表明しており、美浦においても鈴村騎手と良く併せ馬などを行っていると聞く。その事を羨ましく思いはするが、浅井騎手としても鈴村騎手の一番弟子を自認するとともに自身の騎乗機会を結果へと導かなければならない。
「う~~ん。明日の騎乗を頑張らないと反省会が長くなりそう」
今日は第1レース、第4レースと二鞍に騎乗した。そして、3番人気6着。7番人気8着と共に人気よりも下位の着順となってしまった。元々、人気と馬の実力はイコールではない。それ故に仕方がない所は有るのだが、一つの目安として人気がある事も否定はできないのだ。
明日、日曜日の乗鞍は4鞍。特に7レースでは1番人気の馬に騎乗する事となる。それ故にこの7レースは何としてでも1着を取りたいし、この7レースを勝てば40勝に王手となる。それ以前に、7レース前に騎乗するレースで1着を上げることが出来れば40勝達成すらあり得る。
「40勝かあ」
以前では考えられない勝ち鞍であり、何と言っても未来へと繋がる数字である。しかし、これが来年への保障となるかと言えばまったくならない。それ故に1鞍1鞍大事に騎乗し、貪欲に結果を求めていくしかないのだ。
そして、翌日の日曜日。浅井騎手は若干項垂れた様子で競馬場を後にする事となる。
「う~~~、追い出すのが早かったかなあ」
意気込みが空回りしたのか、肝心の7レースではゴール前で差され2着。面目を保ったと言えなくもないが、結局この週は1勝も挙げることが出来なかった。
「うわあ、来週でもう今年も終わるって言うのに。来週で2勝は厳しい」
既に来週の乗鞍も決まっている。それ故に勝ちを見込める馬かどうかは大体把握できる。勿論、それでも勝ちを狙っては行くのだが、今週勝てなかったが故に気持ち的には相当落ち込んでいた。
「お疲れ様。惜しかったね」
「あ、鈴村騎手。お疲れさまでした」
競馬場の出口で鈴村騎手と顔を合わせる。鈴村騎手は今日の9レースで1着を獲り、結果を残している。
「先行出来たのは良かったんですが、最後は粘り切れませんでした。反省会が憂鬱です」
「あはは、篠原調教師の反省会は有名だよね。でも、だから結果が残せているのも有ると思うよ? フリーになると自分で全部考えないと駄目だから。どうしても視野が狭くなるかな?」
「鈴村騎手でもそうなんですか?」
「うん、それこそ引退寸前まで追い込まれてたから余計にね」
良い馬、勝てる馬に騎乗して結果を残す。そんな馬が新人や結果を残せていない騎手に早々回ってくることは無い。少ない機会、少ないチャンスを物にして、何とか馬主や調教師に自分が騎乗すれば勝てるとアピールする必要があるのだ。
「女性騎手は斤量で優遇されているし、だからこそ斤量の優遇が無くなってからが勝負だね。あとは、私なんかが典型的だけど、気性難の馬に強いとか、先行馬、逃げ馬に騎乗させればとか、何かアピールできる武器を作る事かな。もっとも、それもべレディーのお陰なんだけどね。やっぱりGⅠを勝てたのが大きいし、勝ち続けた事で以前の印象を上書き出来たのが大きいかな」
「良いなあ、思いっきり羨ましいです」
「べレディーも当初は良くてGⅢって言われてたんだけどね。そもそも、新馬戦が牝馬限定とはいえ芝1200mだったし、あれ、良く勝てたなあ」
恐らくはその時の事を思い出しているのだろう。その表情ですら引退したミナミベレディーへの思いが溢れている様に感じる。そんな鈴村騎手を憧れを持って見詰めながら、ふと周囲へと視線を配る。
「あ、あの、今日は此の侭帰られるんですか? 鈴村騎手にお時間があれば食事でも如何ですか?」
「ん? あ、そうだね。今日はお呼び出しもないし、一緒にご飯食べようか」
「うわあ、嬉しいです! 最近は競馬場でご一緒しても鈴村騎手はお迎えが来てましたから」
思わず早口で鈴村騎手を食事へと誘うと、運が良いことに今日は何も用事がなく大阪に一泊するという事だった。
「普段なら無理して東京まで帰るのだけど、明日栗東でお世話になった厩舎へご挨拶と打ち合わせに行くから」
「あ、そうなんですね」
「うん、もう既に引退のお話はしてあるし、その後の事は私が関わる事ではないからご挨拶だけなんだけどね」
もっとも、更に言えば鈴村騎手が嫁ぐ先はトカチレーシングであり、競走馬の預託だ何だと厩舎との関係は切っても切れない。この為、挨拶回りを疎かにする事は出来ない。
「良かった。こんな事ならもっと早く鈴村騎手をお誘いしておくんでした。今日はいっぱいお話したいです!」
「明日お休みだからって遅くまで寝てたらあっという間に時間が過ぎるよ?」
「ううう、そうなんですけど、やっぱり昼過ぎまで寝ちゃいません?」
「判らなくはないけどね。ただ、フリーになると時間を持て余したりするんだよ? 特にお手馬が少ないと余計にね」
「フリーは当面無理だなあ」
月曜日が基本お休みとなる騎手である。それでも厩舎所属騎手である浅井騎手は、それ以外の曜日においては朝が早く、厩舎内の仕事も手伝わなければならない。その為、貴重な休みである月曜日は逆に何もする気が起きなくなる。もっとも、だからと言ってフリーでやって行く自信は今もまだ無い。
鈴村騎手が引退したら、若しかして私が注目される? それはそれでプレッシャーだなあ。
現役女性騎手の中で鈴村騎手に次いで結果を残しているのは自分だという自負はある。それ故に、鈴村騎手が引退すると次に注目される女性騎手は自分になるだろう。そして、もし自分が結果を出すことが出来なければ、女性騎手では勝てないなどと言った以前の様な評価をされる可能性がある。
よし、この機会に鈴村騎手に色々と質問しよう。
少しでも自分の糧となるものを吸収し、今後の自分の騎乗へと繋げていきたい。どんなに頑張ろうと結果が伴わなければ将来がない世界であるが故に、どんな時にも貪欲に経験を知識を求める浅井騎手であった。
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