閑話集?
第272話 蛇足1
「え? ベレディーの仔が生まれたんですか!」
細川美佳からの知らせに、香織は思わず大きな声をあげていた。
4月に入りそろそろミナミベレディーの出産時期となる事は判ってはいた。それ故に香織としても心待ちにしていた知らせではあった。ただ、何故その知らせが細川から来るのかが不思議ではある。
「ところで、何で美佳が知っているの? ていうか、今どこにいるの?」
思わず電話の向こうにいる細川に詰問口調で問い詰めるのだが、細川はそんな香織に電話の向こうで笑いながら状況を伝える。
「う、羨ましい」
ミナミベレディーの出産が近い事は、競馬関係者の誰もが知っていた。そして、そんなミナミベレディーの様子を取材する為に細川が訪問した所、丁度ミナミベレディーが無事に出産を終えて仔馬に授乳していた所だったのだった。
そして、一通りミナミベレディーの様子を記録したところで香織へと電話を入れたのだった。
「うわあ、やっぱり可愛い! 良いなあ、直接見たいなあ」
細川から送られた写真には、ミナミベレディーと授乳する仔馬の姿が映っている。細川の話と仔馬と一緒の写真を見ている内に、香織は無性にミナミベレディーに会いたくなって来る。
「判った。私も北海道に行く!」
なぜ自分が東京にいて、美佳が北海道でミナミベレディーと仔馬の傍らにいるのか。香織はミナミベレディーの仔馬に自分が会えていない事に、言いようの無い苛立ちを感じてしまったのだ。
「え? うん。でも、大丈夫! うん、そうなんだけど、でも、べレディーの仔だよ? 牝馬だよ?」
必死に言い訳する香織を、どうやら電話の向こうの美佳が必死に宥めているようだった。
昨年末、間もなく有馬記念という所で、競馬関係者、特に美浦トレーニングセンターに所属する騎手達に衝撃が走った。何と騎手として今、乗りに乗っている香織が来年一杯での引退を表明した。
その理由というのが、トカチレーシング代表である十勝川勝也と婚約したと言うのだ。特に三浦で少なからず香織を狙っていた騎手達の動揺は大きかった。
引退自体は主戦として騎乗している馬もいる為に、来年一年は現役を続ける。新規の騎乗依頼は極力受けない方向で、現在依頼されている持ち馬の騎乗のみを中心に活動する。そして、一年と言わずとも乗鞍が無くなった段階で自然に引退していく予定であった。
それ故に以前ほどの忙しさは無い。無いはずなのだが、香織は現在私生活で中々に追い詰められている。その為、慌てて自分の予定を確認し始めた。
実際、香織も間もなく35歳となる。色々な意味でギリギリの所にあり、香織自身もミナミベレディーの引退を機に私生活でも色々と考えることも増えた。その中には勿論結婚のことも含まれている。
そして、十勝川勝也自身も40歳という大台が近づいていた。それにも関わらず、未だに結婚する気配がなくふらふらとしている。その事に激怒した勝子によって、ほぼ強制的にお見合いを組まれ、そのお相手が鈴村香織であったのだ。
「あら、香織さんの事は良く存じてますよ? 気立ての良いお嬢さんですし、芯の強い所も好印象です。うちは何と言ってもこういうお仕事ですし、騎手と言う事もプラス材料ですから。香織さんのご実家も何の問題もありませんし、良いご縁が組めたと彼方様とも喜んでいますの」
婚約発表を香織から事前に聞いていた美佳は、発表前に素早く十勝川へと取材を行っていた。
その談話の中で十勝川勝子は香織の事をべた褒めしている。取材前には先入観から色々と思う所のあった美佳ではあるが、この対談後は見方を変え親友である香織に対し素直に婚約決定を祝福することが出来た。更には婚約発表と同日に発売された競馬雑誌で思いっきり応援し、祝福する記事を掲載したのだった。
「うん、でも、まだ時間はあるし。急いで決めなきゃいけないものでもないから」
まだ現役の騎手である香織は、乗鞍が減って来たからと言って中々自由に時間を使えるわけでは無い。更に年中無休と言っても良い騎手であるからこそ、前から今週末に結婚式の打ち合わせを行う事を予定していた。
その事を事前に聞かされていた美佳は、今、電話の向こうで必死に香織へと自制を求めているのだ。
何と言っても香織はその何とか空けた時間を使って、当初の予定をキャンセルして、北川牧場へミナミベレディーの産駒を見る為に訪問すると言い出している。
「で、でも、入籍はしたから、焦らなくていいかなって」
昨年末に婚約を発表した香織達は、何と驚く事に桜花賞が開催される前々日の金曜日に、とっとと入籍の手続きを行っていた。
「ベレディーに出会った日にするか、桜花賞の前にするか悩んだんだよ。本当は桜花賞の日にしたかったんだけど日曜日でしょ? 幸いべレディーに騎乗して勝った日が金曜日だったから、その日に決めたんだ」
良いのかそれで!
美佳はその話を聞かされた時、思わず隣で苦笑を浮かべる勝也へと視線を向けたものだ。
「式場とかは勝也さんに任せても良いと思うんだよね。問題は、招待客なんだけど。どうしても競馬関係者は土日が空いてないから。うん、一応、浅井ちゃんにも声は掛けるよ? でも、来れるかなあ?」
恐らく電話の向こうで美佳は必死に香織を宥めているのだろう。ただ、中々に香織はうんと頷く様子が無い。それでも、美佳は何とか香織を説得し、夫である勝也に相談してから決める事を了承させたのだった。
◆◆◆
北海道にある十勝川ファームにいた十勝川勝子は、息子からの連絡でミナミベレディーが無事に仔馬を出産した事を知る。
「そう、母子共に元気なのね。良かったわ」
何と言ってもミナミベレディーの初産である。十勝川も自牧場の事では無いにもかかわらず、無事に仔馬が生まれた事にホッとする。
「初駒ちゃんがどれだけ頑張ってくれるか。此処からがミナミベレディーの新たな挑戦、本当に楽しみだわ」
電話をして来た息子は、何やら疲れた様子であった。しかし、勝子はそんな事よりも、まずは北川牧場へ祝電でも打たないと駄目ねと秘書に手配を依頼する。そして、これまた北川牧場へ訪問する日程を考え始める。
「あまり早くても駄目よね。そうね、2週間後くらいが良いかしら? 駄目ね。次の種付けを考えると、今のうちに駄目押しをしておかないと」
ミナミベレディーの今年の種付けは、最有力候補としてはやはりリバースコンタクトだった。何と言って森宮ファームにはタンポポチャが居る。昨年、無事にミナミベレディーが種付け出来た最大の功労者はタンポポチャでは無いか。ミナミベレディーを知る関係者は、今もそう語っている。
それ故に今年も同様に森宮ファームにタンポポチャと共に放牧し、2頭が発情するのを待って種付けを行う。北川牧場ではその様に計画していた。
そこに、何とか食い込みたいのが勝子だった。この一年を掛けてしっかりとミナミベレディーは繁殖牝馬らしくなっている。ライトコントロールを含め、前準備は終わっていた。あとは、いつ発情するかを考えるだけなのだ。
それ故に、森宮ファームへ向かう前に一度、十勝川ファームで1週間程放牧し発情しないか試させてほしいと依頼している。そもそも例年と同じようにミナミベレディー以外の牝馬達の集団お見合い会は開催を企画されている。
何とか今年はそこにミナミベレディーも参加して欲しい。更には、昨年同様今年の種付けを疑問視されているサクラヒヨリも追加して。その為に根回しをしている勝子である。
「トカチプリンシバルも2勝を挙げているし、北川さんの所の3歳牝馬もデビュー出来ている子は1勝はあげているわよね。やっぱりサクラハキレイは凄い馬よねぇ。ここに、ミナミベレディーの効果がプラスして欲しいわ」
昨年にデビューしたサクラハキレイ血統の牝馬は、2歳の間に無事に1勝を挙げている。更には、桜川が所有している牡馬ボクダッテも、3歳に入り4戦目で何とか未勝利戦を勝利し無事に1勝を挙げていた。
ミナミベレディーデビュー後に、北川牧場産駒で1勝も出来ずに引退した馬は牡馬2頭のみで、その牡馬も未だに地方競馬で勝てないながらも元気に出走している。
「でも、問題はやっぱり牡馬なのよね。ミナミベレディーも自分の産んだ牡馬なら受け入れてくれないかしら」
昨年1年間、今年デビュー予定の2歳牝馬達は繁殖に回っているミナミベレディーから調教を受けていた。その結果、どの馬も評判はまずまずである。特にサクラハヒカリが産んだ牝馬は、トモの張りも良くデビュー前から競馬関係者たちの評価も高い。
勝子は、手元にあるファイルを手に持ち開く。
サクラハキレイ産駒実績。
サクラハキレイ血統図。
血統外でミナミベレディーに育てられた牝馬リスト(20※※年度)
サクラハキレイ血統における父馬の能力の影響。
ミナミベレディーが現役時代のデーターに加え、引退以降に生まれた当歳馬、共に放牧されていた1歳馬に対しての影響。休養にて北川牧場へ放牧された牝馬のその後のレース結果。また、血統による影響の度合いなどがファイリングされている。
「本当に不思議な馬よね。仔馬達に走り方を教える馬なんて初めて見たわ」
十勝川が視線を向ける先には、ミナミベレディーへ十勝川が初めて預けたトカチドーターの写真が飾られている。
オークス7着。その後、マーメイドステークスを考えるも、レース後の回復が遅れ回避。北川牧場へと放牧された。その後、帰厩して満を持して挑んだ紫苑ステークスでは3着。何とか秋華賞へ繋げるも、本番の秋華賞でも3着。ここで、又もや回復の遅れからエリザベス女王杯は回避。
善戦すれど勝ちきれずで逆に一部で人気が出ているが、牧場としてはまずは重賞勝利が欲しい。
そして、トカチドーターが満を持して出走した1月の愛知杯、ここで待望の初重賞制覇をする。
そして、そんなトカチドーターの横に飾られているのがトカチフェアリーの写真だ。
こちらも、フローラステークスを出走後に明らかに馬体がガレてしまいオークスは回避。
その後、6月に行われたマーメイドステークスで6着と古馬牝馬との戦いで苦戦を強いられている。そして、トカチフェアリーの生産牧場では無い為に普通は有り得ないのだが、トカチドーターと共に北川牧場へと放牧に出された。
そして帰郷しての復帰戦。9月に行われたローズステークスでは4着、秋華賞は除外となり、11月に行われた牝馬限定3歳以上3勝クラス、ユートピアステークスへ出走し久々の勝利を飾る。その後、1月にトカチドーターと同じく愛知杯に出走し4着。そこから、3月のリステッドクラス、大阪城ステークスで勝利して現在に至る。
「フェアリーも厳しいわねえ。どこか重賞を1個欲しいのだけど」
トカチドーターのピークは4歳秋以降と思われている。それに対し、トカチフェアリーは正に今がピークである。この為、この春から夏にかけて何とか重賞制覇をして欲しい。
「香織さんも今年一杯で引退の意向ですし、十勝川ファームは香織さんに任せようかしら。北川牧場との行き来も増えるし、香織さんも喜んでくれそうね」
長男が十勝川グループの副会長をしており、いずれ勝子の跡を継ぐ。そして、オーナーブリーダーとして競走馬のレースを管理しているのが勝也であり、牧場の責任者は未だに勝子である。誰に任せるかを悩んでいた勝子であるが、此処に来て良い後継者が出来た事を内心では喜んでいた。
もっとも、グループトップとは言え、主要な収入源である十勝川ファームとトカチレーシングを、共に弟夫妻に押さえられることに長男が何か言ってきそうではあるのだが。
「それにしても、息子がもう一人欲しかったわねぇ」
来年採用予定の新卒者経歴書。その経歴書を見ながら、十勝川は思わず溜息を吐く。
その就職試験申込書に書かれている名前には、北川桜花と書かれていた。
◆◆◆
大学4年生となった桜花は、今まさに就職活動の真っ最中だった。
学生数が減少してきている近年、学生達は思いっきり売り手有利ではある。しかし、将来的に北川牧場を継ぐ事になる桜花としては、その事が思いっきりハードルを上げていた。
「ううう、一人娘だし。何故か私の事を知ってる人が多い」
桜花が希望する企業などからは、ネットエントリーにしても、履歴書送付にしても、早々にお祈りメールや返信が来るのだ。
「一度、他の大手に就職して勉強してきた方が良いと思いますよ。そういった経験が将来思わぬところで助けになったりするものです」
研究室の担当教授からのアドバイスも有り、大学に来ている求人票を基に畜産業などの大手へとエントリーしたのだが、すでに一月が過ぎても就職試験まですら辿り着かない。
「桜花ちゃんは有名人だからね。そもそも、女性で、現場希望だし。何かと厳しいと思うよ」
「そうなんだけど、未来は早々に数社から良い返事が来てるんでしょ?」
恐らくは4~5年で退職すると思われている桜花である。その判断も致し方が無く、間違いでもない。実際、何年間働くか今は未定ではあるが、いずれ北川牧場へ戻る事は間違いがない。
そんな桜花とは違い岐阜のブランド牛を生産している牧場の娘である未来であるが、こちらは早々に3社から色よい返事を貰っている。まだ6月に行われる就職試験を受けてからの成績次第ではあるが、試験を待たずして1社などはほぼ内定に近い連絡が来ていた。
「まあ、実家もそこそこ大手だからね。逆に色々と情報が欲しいとかあるんだと思うよ。お母さんなんかは、就職なんかせずにとっとと帰って来いって言ってるし」
桜花とは違い未来の実家は家族親戚総出で牧場を経営している。それ故に敢えて他の会社に勤める事のメリットを感じていない。未来の母親は、とっとと実家を手伝えと何かと煩い様だった。
「トッコの仔馬も生まれたし、私も実家で働けば良いかなって思っていたんだけど」
桜花は両親にも相談したのだが、焦らずにまずは他の牧場や会社などを経験した方が良いと言われた。その後、更に真意を追求した所、まずは外で旦那を探して来いと言われて桜花は思わず唖然とした。
「桜花? あなたが結婚して子供を産んでくれないと、貴方の代で終わるわよ? それなのに、大学で彼氏一人捕まえられない何て情けない」
そう言って本気で嘆く母親に、思いっきり抗議する桜花だった。しかし、結局は母親の説得と、大学の教授の勧めもあって就職活動を開始したのだった。
「でも、桜花だって十勝川グループの内定は出そうなんでしょ?」
「あれは実力じゃないよ! 思いっきりコネだし、何処も決まらなければお願いする事になるかもだけど」
「それだってすっごい贅沢な話じゃん。真面目に何処も内定取れない子だっているんだよ」
売り手市場と言えども、やはり中々内定を貰えない人は多い。特に桜花の所属する農学部で言えば、女子生徒にその傾向が強い。
「牧場や農場経営も中々に厳しいからね。これからもっと厳しくなりそう」
「嫁に来てくれとかは多そうだけどね。うちの兄さんもお嫁さん貰うのに苦労してたから」
そう言って笑う未来だが、それこそ本人は同学部で思いっきり男子にモテまくっていた。ただ、残念ながら未来は特定の誰かと付き合う事は無かったのだが。
「桜花と一緒に遊んでいるのが楽しかったし、結婚は多分、お見合いかな? まあ、兄さんがいるし、跡継ぎではないから気が楽だけどね。それに、従兄弟がお医者さんになったから、上手くお医者さんと結婚できないかなあ」
牧場経営も将来を見ると何かと大変らしく、畜産関係を学んだ未来は一族の期待を背負っていたりする。その状況が何かと重いと未来は常々愚痴を零すが、そんな物なのかな? と思いながらも桜花は、ふと未来の顔をマジマジと見て尋ねる。
「未来の所で働けない? そこそこ大手なんでしょ?」
「友達を自分の所で働かせたくないから駄目。人間関係に歪みが出そうでしょ?」
そう言って未来は笑うのだった。
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