第269話 春の天皇賞とサクラヒヨリ 後編
春の天皇賞、その連覇が掛かったレースと言う事で桜川は家族を連れて京都競馬場へと足を運んでいた。もっとも、ゴールデンウィークと言う事も有り、また東京の帰省客ラッシュとも重なり中々に疲れる小旅行となったのだが。
そして、何時もの様に子供達を連れて午前中はフワフワドームなどで遊び、今は馬主席でレースの開始を今か今かと待ちわびていた。
「お父さん、桜花お姉ちゃんは来てないの?」
「お姉ちゃんいないの?」
毎年のように北川牧場へと遊びに行く為、子供達はすっかり北川牧場の娘さんに懐いているな。
桜川は子供達を見て、そんな事を思う。
「今の時期の牧場は色々忙しいからね。仔馬が生まれたりと大変だから残念ながら桜花さんは来ていないな」
「そうなんだ。詰まんないの」
「詰まんないの」
「夏に北川牧場へ行けば生まれた仔馬さんがいるぞ? 夏休みが楽しみだなあ」
「うん!」
「早く夏休みにならないかなあ」
子供達の返事に笑いながら、桜川は間もなく始まるレースへと意識を向けた。
『向こう正面直線、ここから3コーナーまで緩やかな登り坂! 先頭は依然2番スーパートゥナイト! そのすぐ後ろに1番人気サクラヒヨリ、前を走るスーパートゥナイトへプレッシャーを掛ける!
その2馬身程後ろに13番、昨年の菊花賞馬ブラックビジョップ、内側、半馬身後ろに15番オリバーナイト、5番手には1番サイオウデショウ。
そこから1馬身程後ろに2番人気サウテンサンが居ました! 今日は中団前寄りでのレース! この判断がレースにどう影響を与えるか!
先頭スーパートゥナイト、間もなく3コーナー、此処からは一転緩やかな下り坂に! ここで後方集団がジワジワと前との距離を詰め始めた。早くも馬群に動き、最後方から9番ダークレインも上がって来る!
動いた! 5番サクラヒヨリ、此処で前に出た! 3コーナー手前で前を走るスーパートゥナイトに外から並びかける! 一気に並びかけて今度は突き放して行く! 下り坂を利用して、半馬身から1馬身! ここからロングスパートか! 此処からゴールまで持つのか!
後続集団も慌ただしく動き始めた! 最後方から上がっていくダークレインに合わせるようにミチノクノタビも上がっていく! しかし、先頭はサクラヒヨリ! 2番手をあっという間に4馬身から5馬身引き離した!
各馬、3コーナーから4コーナー、先頭サクラヒヨリは間もなく最後の直線へ! 後続は早くも追い上げ態勢! 2番人気サウテンサンは現在8番手から9番手。
春の天皇賞、後は最後の直線を残すのみ! 先頭は5番サクラヒヨリ、その後方、内側から上がって来たのは15番オリバーナイト! その差はまだ5馬身はある! 先頭はサクラヒヨリ、鞍上鈴村騎手、必死にサクラヒヨリを補助! しかし、後続との差はジワジワと縮まっている!
ここでやはり上がって来たのはサウテンサン! 外を回って現在4番手! 京都競馬場の最後の直線! 前を走るサクラヒヨリ、このまま残す事が出来るのか! 2番手はオリバーナイト! その後方3番手は変わってサウテンサン! オリバーナイトと併せ馬をするかのように並んで一気にサクラヒヨリに迫ります!
残り200m! 先頭はサクラヒヨリ! 2馬身程後方にオリバーナイトとサウテンサン! 前を走るサクラヒヨリを捉えられるか! サクラヒヨリ懸命に粘る! オリバーナイト、サウテンサン、共に伸びない!
残り2馬身が縮まらない! サクラヒヨリ懸命に粘る! 後続との差が縮まらない! サクラヒヨリだ! サクラヒヨリだ! 強い! この馬は強いぞ! サクラヒヨリ、後続を2馬身引き離して先頭でゴール!
勝ったのはサクラヒヨリ! 昨年に続き、春の天皇賞連覇! 伝統の春の天皇賞を見事に連覇しました! スタミナの怪物! 女帝の後継者! GⅠ5勝目を、見事この春の天皇賞連覇で飾りました!』
「うわあ、勝った! お父さん! お父さんのお馬さんが勝った! 勝ったよ!」
「勝った! 勝ったよ! 5番さん勝った!」
子供達は、5番のゼッケンをずっと追いかけてレースを見ていた。幸いな事に、サクラヒヨリは常に先頭付近を走り続け、子供でも迷うことなく映像で追いかける事が出来た。その為、見事にサクラヒヨリが天皇賞を制する所をしっかりと目に焼き付ける事が出来た。
もっとも、妹の方はサクラヒヨリという名前ではなく、ゼッケンの5番という番号で認識していそうではあるが。
「ほら、二人とも静かにしなさい。周りの人に御迷惑になるからね」
子供の、そして妻の声が横から聞こえて来る。しかし、桜川はサクラヒヨリの想定以上の圧勝劇に思わず呆然とターフビジョンを眺めていた。
「いやあ、強い」
元々距離の長い春の天皇賞は、昨年のような接戦自体が稀で、1着と2着で差がつくレースも多い。その為、そこまで衝撃を受ける話では無いのかもしれないが、牝馬で、しかも自分が所有する馬だ。
サクラヒヨリが後続と5馬身の差をつけて最後の直線へと入ってきたところで、桜川は何とも言えない震えを感じた。立っていたならば座り込んでいたのではないか? そう思わされるほどの衝撃を受けていた。
「あなた、表彰式へ行きましょう」
横にいた妻から促され立ち上がろうとした桜川は、上手く足腰に力が入らないのを感じる。テーブルに、そして座席の背もたれに手を置き、そこでゆっくりと伸びをして体に力を入れた。
「いやあ、昨年も衝撃と言えば衝撃だったんだが。サクラヒヨリは凄い馬だな」
「そうですね。凄いお馬さんですね」
息子と娘は早く表彰式に向かいたい様子で、妻の手を引っ張っている。そんな妻は、目元を綻ばせ乍ら、桜川へと微笑みかけて来る。
「良かったですわね」
その言葉に、改めて桜川は満面の笑顔を見せるのだった。
桜川一家が祝福を受けながら表彰式が行われるウィナーズサークルへと顔を出すと、そこには既に武藤調教師の姿があった。
「武藤調教師、ありがとうございました」
「いえ、此方こそ。桜川さん、改めて、おめでとうございます」
お互いに顔を見合わせて笑顔を浮かべる。何と言ってもGⅠ、しかも春の天皇賞を牝馬でありながら連覇したのだ。この後には宝塚記念を始めGⅠレースが残っているとはいえ、まずは此処を勝てた事で武藤調教師としても大きな荷物を一つ無事に下ろせたような気持ちであった。
「今日は鈴村騎手が上手く騎乗してくれました。展開的には中々難しい判断が多々あったと思いますが、ぜひ褒めてやってください」
サクラヒヨリが前を抑えられる展開から始まり、中盤は明らかにスローペース。その後、3コーナーから早めに追い出して其処から一度息を入れさせる。最後の直線もしっかりとスタミナを残して粘り切ってくれた。サクラヒヨリと鈴村騎手のコンビならではの騎乗であろう。
「勿論ですよ。今日、改めてサクラヒヨリの凄さを、素晴らしさを実感しました。本当に、サクラヒヨリを所有出来て、私は幸せ者ですね」
そう言って笑顔を浮かべる桜川に、武藤調教師は何かに気が付いたような表情を浮かべる。
「サクラヒヨリもですが、良く考えたらサクラハキレイこそ偉大な馬ですよ。サクラハキレイも桜川さんの所有馬でしたから、そう考えれば桜川さんは運が強いですな」
思いもしない言葉を受け、桜川はキョトンとした表情の後にまたもや満面の笑顔を浮かべる。
「確かに、うん、確かにそうですね。いやあ、そうか。始まりはサクラハキレイでした。サクラハキレイ産駒とその血統の重賞勝利数、いったい幾つになったのやら」
「フィナーレも無事に重賞2勝目を飾りましたし、太田調教師の所のプリンセスミカミも愛知杯を勝ちました。特にサクラハヒカリの産駒が勝ったのが凄い。桜川さん、勿体ない事をしましたね」
「確かに、ただ、これ以上の頭数は中々に」
お互いに勝利を収めたが故に笑顔を浮かべての会話である。良く考えれば、サクラハキレイも、サクラハヒカリも、元々は桜川の父が所有していた馬である。
そんな夫の笑顔を見ながら、ミナミベレディーが桜花賞を勝利した後の落ち込みを知っているだけに、妻の幸恵は内心では苦笑を浮かべている。それであっても、今、夫が、そして子供達が笑顔を浮かべている事に幸せを感じていた。
桜川と武藤調教師が次走についての話をしていると、インタビューを終えた鈴村騎手が足早にウィナーズサークルへとやって来た。そして、桜川達へと挨拶を行う。
「鈴村騎手、お見事でした。牝馬で春の天皇賞連覇、まさに歴史的な快挙ですよ」
「良い騎乗だった。次走は宝塚記念だ。頼むぞ」
「ありがとうございます。宝塚記念は、どうでしょう? 天候次第な所もありますから」
無事に勝利する事が出来た為に、鈴村騎手もホッとしたのか表情が明るい。それ故に、思わずそんな冗談も飛び出すが、実際に宝塚記念では天候が大きな要因となるだろう。そして、そこに優勝レイを着けたサクラヒヨリが厩務員に引綱を引かれて入場して来る。
「ヒヨリも勝った事が判っていますね。思いっきりご機嫌です」
頭をブンブンと振りながら、サクラヒヨリは誇らしげに入場して来る。ただ、やはり厩務員の手元では、ミナミベレディーの嘶きがずっと再生されていたのだった。
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