第268話 春の天皇賞とサクラヒヨリ 前編

 5月に入り、京都競馬場、芝3200mで争われる春の天皇賞。一昨年はミナミベレディー、昨年はサクラヒヨリとサウテンサンの同着ではあるもののサクラハキレイ産駒が牝馬でありながら2連覇を果たした。


 長距離は牝馬では勝てない! 競馬界で長年言われていたこの定説を2年続けて覆しての勝利。ミナミベレディーのみならずサクラヒヨリの勝利により、桜花賞に続いての全姉妹による2年連続同一GⅠ制覇と世間を驚かせた。


 今年は同着ではなくサクラヒヨリ単独の完全勝利を、姉が未出走ではあるが成しえなかった春の天皇賞連覇を達成できるのか!


 牝馬による3年連続勝利が出来るか!


 牡馬の復権を賭け、連覇を阻むのはどの馬なのか!


 競馬協会の懸命な推しもあり、競馬場の来場人数もまずまずの数字を確保できていた。その事に、多くの人達が安堵の溜息を吐いていた。


 そして、そんな人間達の思いなど一切考慮することなく、熱い視線を注がれながらパドックを回る出走馬達。その馬達の中で、一際注目を浴びるサクラヒヨリは、落ち着いた様子でパドックを回っている。


「良い感じだな。今日は頑張るんだぞ」


 引綱を持ちパドックを回るサクラヒヨリの担当厩務員は、サクラヒヨリの状態に満足気な笑顔で声をかけ首をトントンと叩く。


 サクラヒヨリが初めて武藤厩舎へ来た時には、全姉であるミナミベレディーは既にアルテミスステークスを勝利していた。その後出走した阪神ジュベナイルフィリーズでは6着となるも、重賞で戦うことが出来る実力は示していた。


 武藤厩舎では、担当馬が活躍すれば賞金から3%が担当に渡され、残り2%は厩務員全体で配分される。


 その為、担当厩務員は当初からサクラヒヨリへの思い入れは強く、細心の注意を払って管理してきた。しかし、2歳での成績は今ひとつ振るわず、京都2歳ステークスでは11頭中10着。雨のレースを苦手としていた事は知っていたが、この大敗にはハッキリ言って衝撃を受けた。


 その後、騎手が鈴村騎手へと乗り替わった。


 実際の所、武藤調教師と馬主である桜川の決定ではあったが、自分としては内心ではこの決定を猛批判していたのだ。


 鷹騎手が駄目でも、立川騎手や安井騎手、田中騎手とか、他にも選べる騎手はいるだろう。


 そんな思いを抱きながらも、それでもサクラヒヨリの活躍を願い必死に世話をして来た。


 その後、鈴村騎手へ乗り替わり共同通信杯を勝ち、まさかまさかの桜花賞勝利。雨の中のオークスは流石に勝てなかったが善戦し、サクラヒヨリの成長を感じさせた。その後、秋華賞を勝ち、残念ながらエリザベス女王杯は3着。驚く事に最優秀3歳牝馬に選ばれた。


 4歳では春の天皇賞、そして強敵不在と言われながらもエリザベス女王杯をしっかりと勝ち切ってくれた。


「頑張ろうな。お前が今までどれだけ頑張って来たのか、俺はずっと見ていたからな」


 当初からGⅠを勝つことは難しいと思われながら、馬自体がレースの重要性が分かっているかのように日々努力を続ける。そのストイックさは正にGⅠ馬級であっただろう。それ故に、担当厩務員の口から思わずそんな言葉が零れ落ちる。


「キュフフン」


 サクラヒヨリがまるで返事をするかのように嘶き、思わず笑顔が浮かぶ。


「とま~~~れ~~~~」


 止まれの合図が掛かり、サクラヒヨリを立ち止まらせる。騎手達が一斉にパドックへと入って来て、鈴村騎手もサクラヒヨリの下へとやって来た。


「ヒヨリは、良い感じに集中できていると思います」


「ありがとうございます。ヒヨリ、頑張ろうね」


 サクラヒヨリの鼻先を宥めるように撫で、鈴村騎手はサクラヒヨリへと騎乗する。


「他の馬達も良い感じに仕上がっていますが、うちのヒヨリが一番輝いていますよ」


「はい。そうなると私次第ですね。がんばります」


 それこそ、桜花賞をサクラヒヨリの勝利で飾ったレース。その時の鈴村騎手とは見間違える程に落ち着きを感じさせる。


 ミナミベレディーと、そしてサクラヒヨリと共に鈴村騎手も成長して来たんだろう。厩務員の自分では判らないプレッシャー、一流馬達との鬩ぎ合い、様々な経験が小柄な鈴村騎手を大きく見せる。


「宜しくお願いします」


 頭を軽く下げ、引綱を引いて本馬場へと向かうのだった。


◆◆◆


「うんうん、本当に良い感じで集中してるね」


 サクラヒヨリに跨り本馬場で返し馬を行った香織は、サクラヒヨリの反応に思わず笑顔が浮かぶ。


 サクラヒヨリの枠順は5番と悪くない位置取りであり、内にいる馬達で先行馬や逃げ馬は居ない。警戒するべきサウテンサンは11番とやや外寄り。昨年の菊花賞馬ブラックビショップも13番と更に外枠となっている。


 3200mとなると展開が読み辛いんだよね。ヒヨリに競って来る馬がいるかどうか。


 ある意味、スタミナお化けと言っても良いサクラヒヨリに対し、同じように並走して勝てる馬は早々いないだろう。そう考えると、やはり一番注意するべきはサウテンサンになるのだろうか?


 馬溜まりへとやってくると、サクラヒヨリの様子を見ながら周囲の出走馬達へと視線を向ける。


 その視線は、ついついサウテンサンとその鞍上にいる岡井騎手へと向かうが、その心中はまったく見えてこなかった。


 その後、各馬揃ってゲート前へと移動を開始する。その間も香織はサクラヒヨリへと声を掛け、落ち着かせることに重点を置く。サクラヒヨリも間もなくレースとなる事を理解しているのか、先程から頻りに頭を振って気合を感じさせる。


「大丈夫だよ。ヒヨリは良い子だね」


 5番と言う事も有り早々にゲートに収まったサクラヒヨリは、圧迫感のあるゲートにやはり苛立ちを見せ始める。それを宥めながら、香織は他の馬の様子を確認していく。


「ヒヨリ、最後の馬が入るよ」


 声色を変え声を掛けるとサクラヒヨリがスタートの態勢をとる。スタート巧者と言われる馬はいるが、人の言葉でスタートの準備をするのはベレディー達くらいだろうな。


 そんな事を思いながら、香織は手綱を軽く握りゲートが開くのを待つ。


ガシャン!


 音を立ててゲートが開いた。それと同時にサクラヒヨリは矢のように勢いをつけてゲートから飛び出して行く。


「よし! 最高のスタートだよ!」


 サクラヒヨリの首筋を軽く叩き、何時もの様にサクラヒヨリを褒めてあげる。そして、この勢いのままに馬群を抜け、先頭へと躍り出て行く。


「前に出てくる馬はいるかな」


 サクラヒヨリを1頭自由に先行させる怖さは、恐らく誰もが理解しているだろう。それ故に、前を塞ぎに来るか、それとも馬体を併せて消耗を狙って来るか。何らかの対応をしてくると考えていた。


 そして、その予想通りに後方外側から1頭の馬が、サクラヒヨリをかわして先頭に立つために前に飛び出してくる。


「スーパートゥナイトが前に出るって、これ絶対にこっちを潰しに来てるでしょ」


 香織は、手綱を扱きサクラヒヨリにハナを切らせる。


 スーパートゥナイトの適距離は芝2000mと見られている。重賞でも掲示板に入ったり入らなかったりで残念ながら重賞を勝利した事はない。そのスーパートゥナイトが敢えて出鞭を使って前に出たのは、自馬の勝利の為ではなくサクラヒヨリを潰しに来ている為だろうか。


 確か、同じクラブ馬が昨年の菊花賞2着だっけ?


 同じ馬主が所有する馬が同レースを走る場合、有力と見なされる馬を勝たせる為に策を弄する事がある。もっとも、競馬の場合は何と言っても主役が馬である為に、思っていた通りになるとは限らないのだが。


 恐らくは前半で体力を使い切っても良い。それくらいのイメージで飛ばしてきているのだろうか。香織も共倒れを避ける為にスーパートゥナイトに前を譲り、2番手に控える事とした。


 先頭をスーパートゥナイトに譲り、2番手につけたまま向こう正面の緩やかな坂を上り、3コーナーへと入っていく。スーパートゥナイトはここで速度を落とし、サクラヒヨリの前を塞ぐ形でレースのペースを握ろうとしてくる。


「やっぱりこう来たね」


 サクラヒヨリの鞍上で小さく呟いた香織は、そのままの流れで1回目の3コーナーへと進入していく。3コーナーから4コーナーにかかるカーブの間に、チラリと後方を走る馬達の動きを窺う。


 まだレース序盤と言う事で、どの馬達も大きな動きを見せず淡々とレースが進んでいる。


 ここで前に出そうか、それとも、向こう正面迄待つべきなのか。


 香織は必死に頭の中で、この後のレース展開を想像する。


「ヒヨリ、少し外に膨らんで直線で先頭に出るからね」


 芝3200mと距離の長いこのコースは、先行馬、逃げ馬の勝率は高くない。そんな過去の実績を思いっきり崩したのがミナミベレディーであり、サクラヒヨリである。


 しかし、昨年のレースに関しては、もしサウテンサンが逃げずに中団につけていたならばサウテンサンが最後に差し切って勝ったのでは? そう言われていた。


 ミナミベレディーの全妹と言う事で必要以上に警戒しすぎた結果、最後の脚を残していなかった。


 その事を証明するかのように、阪神大賞典ではサウテンサンは終始7番手から8番手に位置取り、最後の直線を駆け抜け勝利を飾っている。


 サクラヒヨリが正面直線に入る時に、香織は速度を上げて若干外寄りに位置取る。そして、そこから手綱を扱いて前を走るスーパートゥナイトを抜きにかかった。


 そんなスタンド前の動きに、観客達から大きなドヨメキと歓声が沸き上がる。


「大丈夫だからね。怖くないからね」


 サクラヒヨリの耳が、観客席から沸き上がる声に動く。その為、香織はサクラヒヨリへ声を掛けた。


 前を走るスーパートゥナイトに並びかけると、慌ててあちらも速度を上げる。そして、2頭が併せ馬のように競る形で1コーナーへと入っていく。ここで、香織は手綱を引き再度スーパートゥナイトの後ろへと付け、後ろからスーパートゥナイトにプレッシャーを掛けて行く。


 この駆け引きによって後続とは4馬身から5馬身程離れる事が出来た。


「問題は此処からなんだよね」


 向こう正面の直線、恐らく此処から3コーナーへ入る前に後続が詰めて来る。向こう正面から3コーナーにかけての緩い登り坂、前を走るスーパートゥナイトが次第に速度を落とし始めている。その様子を確認すると、早くも頭が上がり始めているのが判った。


 そして、後ろから聞こえて来る蹄の音が次第に大きくなってくる。


「ヒヨリ、前を抜くよ!」


 香織は此処で再度手綱を扱き、前を走るスーパートゥナイトに並びかけ、一気に抜き去っていく。そして、3コーナーからの下りを利用して、そのままどんどんと加速させ、後続を突き放しにかかった。


 最後の直線、坂が無い平坦なコースが吉と出るか、凶と出るか。


 最後の坂をピッチ走法で駆け上がり、後続を突き放すのが得意なサクラヒヨリだ。ミナミベレディーのように、平坦な直線であっても指示通りにピッチ走法で加速してくれるか。急坂であればサクラヒヨリも、サクラフィナーレ達も自然に走りを切り替えてくれるのだが。


 しかし、この京都競馬場の平坦な直線で走法が変わるかで勝ち負けが変わる。


「昨年のようにサウテンサンと競い続けた方が楽だったのかも」


 勝負根性が非常に強いサクラヒヨリである。それ故に、並走しての勝負の方が展開的には楽だったかもしれない。


 予想通りスーパートゥナイトは再度加速するだけの余力はなく、3コーナー手前でサクラヒヨリは単騎先頭に立つのだった。

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