第266話 トカチフェアリーとフローラステークス

 篠原厩舎では、今週に行われるフローラステークスへ向けトカチフェアリーの最終調整を行っていた。


 トカチフェアリーは前走のエルフィンステークスを勝利した為、当初は次走にGⅢフラワーカップへの出走を考えていた。しかし、トカチフェアリーの疲労が思いの外に大きく、次走迄の間隔を開けフローラステークスへと照準を定め直していた。


「状態は悪くないですね。良い具合に疲労も抜け、馬の気合も上がって来ています。まあ、掲示板であれば何とかなりそうですね」


 トカチフェアリーの追切りを見た篠原調教師は、中々の状態に表情には出さないながらも満足気である。


「出来れば牝馬限定のGⅢ辺りが良かったんですが、この時期だと厳しいですよね」


 春の時期は3歳馬の重賞はトライアルレースとなり、牝馬限定の重賞は4歳以上のレースが多い。その為、トカチフェアリーが狙うとなると牝馬限定GⅡ、芝2000mフローラステークスが目標となる。


「オークスの前哨戦とも言えますからね。トカチフェアリーも結果如何に問わず、次走をどうするかが悩みどころですね」


「マーメイドステークスを予定していますが、それも結果次第ですから。ただ、テキの予定ではもし此処を勝てたらオークスですか?」


「勿論、此処を勝てたならば検討はしますよ? 十勝川さんは恐らく出走を希望されると思いますからね。まあ、ここで勝てたなら勝てる可能性もそう悪くは無いですよ」


 未だに適距離を読み辛いトカチフェアリーである。マイルも走れなくはないが、1800から2000m辺りが適距離と思われるが、何とか2200mまでは走るだろう。ただ、2400mとなると厳しいと言うのが篠原調教師の見解だった。


 篠原調教師達が会話をしていると、トカチフェアリーに騎乗した浅井騎手が笑顔で戻って来る。その表情から推察するに、トカチフェアリーの手応えが十分に感じられたのであろう。


「テキ、フェアリーは良い感じです。本当に頑張り屋さんです」


 そう言って首筋をトントンと叩くと、頭をブルブルと振って応える。その様子すら浅井騎手にとっては嬉しいようだった。


「そうですね。もっとも、レースは今週ですからそうでなければ困りますが」


 相変わらずの篠原調教師の様子に、浅井騎手の表情に思わず苦笑いが浮かぶ。それでも、トカチフェアリーに騎乗してレースが出来る事に喜びが感じられた。


「まあ、まだまだ馬自体は成長途中です。今週は掲示板内に入る事を目指してください」


 勿論勝てるに越したことはない。しかし、未だに重賞未勝利の浅井騎手であり、過度な言葉は逆に緊張させてしまう。その事も良く理解している篠原調教師であった。



 そして、フローラステークス当日。前日に降った雨で午前中の馬場は稍重。しかし、午後に入って芝の状態は良へと変更となる。


「あら? フェアリーは落ち着いてますわね。良い感じで集中できていますわ」


 昼頃になって東京競馬場へとやって来た十勝川は、篠原調教師と共にパドックを回るトカチフェアリーの様子を確認していた。


「今日は落ち着いていますね。他の馬達にも気をとられていませんから、浅井騎手次第ですがレースにはなってくれると思いますよ」


「ふふふ、それで? 浅井騎手はベレディーの声を聞かせていたのかしら?」


「さあ? 私は関知していない所ですね」


 トカチフェアリーの状態に満足気な十勝川だが、やはり気になる所はミナミベレディーの音源効果だった。篠原調教師は、浅井騎手の行動を、あくまでも厩舎は黙認しているというスタンスを崩すことなく、音源に関しては関知していないという立場を貫いている。


「まあ良いわ。あとはフェアリーがどれだけ頑張ってくれるかよね」


「今日の馬場を見る限り、最内は体力を消耗しそうです。さて、浅井騎手はどの様な騎乗を見せてくれますか。重賞は甘くありませんからね」


 重賞という事も勿論ではあるが、このフローラステークスへ出走する3歳牝馬達の目標はオークスである。調整が桜花賞までに間に合わなかった、距離適性が、勝利数が、賞金額が、様々な理由はあれど目指す所はやはり3歳牝馬限定GⅠオークスであり、実際にフローラステークスで上位の馬が過去のオークスで活躍していたりする。


「まだまだフェアリーは挑戦者ですもの、浅井騎手としても少しは気が楽でしょ? 重賞未勝利の方が思い切って騎乗できるものですわ」


 何時もの様にコロコロと笑い声をあげる十勝川であるが、実際はそんなに甘いものではない。やはり重賞独特の雰囲気は感じられるものであるし、そのプレッシャーは下位人気の馬に騎乗しようとも感じられるものだ。


「9番人気と微妙評価ですので、プレッシャーも何とかするでしょう」


「そうねぇ、そう考えると1番人気なんて凄いプレッシャーよね。これは鈴村騎手の評価を上方修正しないと駄目ね」


 最初の頃は兎も角、5歳になってからのミナミベレディーは正に1番人気でのレースばかりだった。人気のみならず、実際にレースではマークされたであろう。その中で最後まで勝ち切って来たミナミベレディーの実力は勿論、その手綱を握って来た鈴村騎手の度胸も並ではないはずだ。


「緊張でスタートをミスした騎手が、その2年後には年度代表馬の騎手ですから。私の常識では考えられない結果ですね。本当に競馬は面白いです」


 決して嫌味ではなく、本当にそう思っているのであろう。付き合いの長い篠原厩舎の面々であれば、篠原調教師が笑顔を浮かべている事に気が付いたであろう。


 しかし、そこまで付き合いが深くない十勝川は、篠原調教師の表情を見て首をかしげる。


「それでも、サクラハキレイ産駒は羨ましいわ。晩年にGⅠ馬3頭でしょ? 先日はプリンセスミカミも重賞を勝利して、しばらくは売れ残りも、引退後も心配しなくて良いもの」


 突然の十勝川の言葉に、篠原調教師は少し考える素振りを見せた後に言葉を綴る。


「確か、十勝川ファームでもサクラハキレイ産駒の牝馬を購入されたとお聞きしましたが?」


「ええ、今年無事に1頭生まれましたわ。牝馬ですから期待していますの。もっとも、お馬さんが走ってくれるかなんて今の段階では判りませんけどね」


「そうですねえ」


 十勝川が購入したサクラハキレイ産駒の牝馬モコモコは、先日無事に仔馬を出産していた。そして、モコモコの生んだ仔馬は待望の牝馬であり、十勝川もついつい期待して見てしまう。


「ふふふ、一応、母子ともに安定してきたら北川牧場へ預ける予定なの。幼駒の間に少しでもミナミベレディーに良い影響を受けて欲しくて」


 ミナミベレディーの影響がどう出るかは解らない為、十勝川としても早めに北川牧場へと移したいところではあるが、何といっても自身の牧場では無い為に簡単ではない。


「噂のサクラハキレイ血統特化でしょうか? 本当にそのような血統があれば興味深いですね」


「そうでしょ? 本音で言えば牡馬にこそ活躍して欲しいのだけど。幼駒の間はミナミベレディーも受け入れてくれるみたいなの。せっかく引退したのですもの、何とかしたいわね」


 未だにミナミベレディーが種付け出来たという話は入ってこない。どちらかと言えば、今年の種付けは厳しいのではと言う噂が聞こえてくるのだ。それであっても、今までと違い1年を通して北川牧場に放牧される事となったミナミベレディーである。それであれば、短期間とは言え牡馬にも影響を与える事は可能なのだろうか?


「さて、まずは今日のレースですね」


 自分には関係ない事で悩んでいても仕方がない。まずは目の前のレースに集中する事にした篠原調教師だった。


『4コーナーを回って最後の直線! 先頭は3番ホワルーラ、そのすぐ後ろに8番ケミカルアート、後方から6番アングルボサも上がって来る! 先頭は依然ホワルーラ! 外を回って上がって来たのは11番トカチフェアリー! 最後方から16番ノーストリーニも凄い勢いで上がって来た! 


 先頭はここで変わってケミカルアート! ホワルーラ後退! トカチフェアリー必死に前に追いすがる! 残り100m 先頭はケミカルアートだ! ケミカルアート必死に粘る! 後続は届かない! 先頭はケミカルアート! チューリップ賞の雪辱を晴らし、今ゴールイン! 2着にはノーストリーニ、3着にトカチフェアリー!


 第※※回フローラステークス、勝ったのはケミカルアート! 阪神2歳牝馬優駿では7着、チューリップ賞では5着と善戦しながらも桜花賞は回避、ここフローラステークスへと照準を定め、満を持しての重賞初勝利! 勝ったのは3番人気ケミカルアート!』


「う~~ん、惜しかったわねぇ。あと少しだったかしら?」


「展開次第かもしれませんが、今のトカチフェアリーであれば3着に入れて御の字という所でしょう。もう少し内を突ければ違ったかもしれませんが、馬場の状態を考えれば何とも」


 終始外々と回って来たトカチフェアリーではあるが、それでも最後の末脚はしっかりと溜めていた。その為、最後の直線ではしっかりと伸びを見せての3着だ。篠原調教師としても、十分に及第点を与えられる出来である。


「あら、ごめんなさい。浅井騎手の騎乗は満点よ? よく頑張って3着に入ってくれたわ。それにしても、何時も思いますけど重賞を勝つのは簡単では無いわねえ」


 十勝川が、思いもかけぬシミジミとした感じで告げる言葉に、篠原調教師も思わず頷いてしまう。その様子が面白かったのか一転してコロコロと笑い声をあげた十勝川は、篠原調教師へと次走についての構想を尋ねる。


「でも、此処で3着に入ったのですから、次走はどうしようかしら?」


「さて、トカチフェアリーの状態を見て考えても良いと思いますが?」


 まだレースを走った直後であり、トカチフェアリーの疲労状態なども考えなければならない。それ故に、今すぐに出さなければいけない結論ではないが、十勝川の脳裏には勿論の事、篠原調教師の思考の片隅にもオークスと言う文字が点灯する。


 果たしてトカチフェアリーに芝2400mを走り切る事が出来るのか?


 安全にGⅢ路線で攻めるのか、それとも思い切ってオークスへ出走させるのか。未だ重賞未勝利であるが故に、トカチフェアリーの今後に頭を悩ませる二人だった。

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