第261話 トカチドーターと忘れな草賞

 4月に入り3歳馬達の祭典が刻々と迫ってくる中、馬見厩舎ではトカチドーターの次走へ向けて調教が行われてた。しかし、此処に来てその出走に黄色信号が点っている。


「うん、悪くはないんだが、メンタル不安が此処に来て影響して来たな」


 今までミナミベレディーの隣の馬房にいたトカチドーターは、突然の長期不在に今でも頻りにミナミベレディーを探す様子がある。特に、レース後に体調が落ちている時には、その傾向が顕著だった。


 厩舎などは休養や放牧などで馬房の遣り繰りをしている為に、隣の馬房の馬が入れ替わる事はよくある。しかし、トカチドーターは隣の馬房に他の馬が入る度にミナミベレディーであるか確認をする。そして、ミナミベレディーでないを知ると悲しそうに嘶くのだ。


「サクラヒヨリと一緒に引き運動をする様になって、改善はされてきているんですが。前から懐いてるナツノコモレビも横の馬房にいます。ただ、ベレディーはドーターを可愛がっていましたから」


「レース後は食事量も落ちていたからなあ。前走以降の回復に時間が掛かってしまったな」


 デイジー賞を無事に勝利し次走は回復次第としながらも、一応はフローラSへ目標を定めていた。そこで、ここに来ての計算違いは馬見厩舎としては中々に痛かった。


「もともと食が細かったですからね」


「ベレディーは調子を崩す事も多かったが、回復は早かったからな」


 そんな馬見厩舎としては、このままフローラSで行くよりも堅実に勝利を積み重ねる方向へと判断を変更する。その為、十勝川にトカチドーターの忘れな草賞出走を打診した。


「あら、それはそれで急ね。間に合うのかしら?」


「今年の出走予定頭数が10頭、有力馬は皆が桜花賞へ出走という事も有り、勝ち負けまでは持っていけるのではと考えています」


 問題はトカチドーターの主戦である鈴村騎手の動向なのだ。特に関東を主戦場としている鈴村騎手にとって、他の馬主や調教師からの依頼は関東で開催されるレースの方が多い。又、近年乗れている騎手という事で、騎乗依頼も多くなっている。


「馬見さんにお任せするわ。鈴村騎手の状況を確認してのお話でしょうし」


「ええ、鈴村騎手も急遽桜花賞での騎乗依頼が入ったそうです。御蔭で忘れな草賞であれば問題無く騎乗出来ると回答を貰っています」


「あら、鈴村騎手はどのお馬さんに乗るの?」


 ミナミベレディーとサクラヒヨリで桜花賞を制覇している鈴村騎手。桜花賞を獲るための血統としてサクラハキレイ産駒達が注目を浴びてはいるが、穴馬で桜花賞を勝てるかもしれない騎手として鈴村騎手もある意味注目を受けていた。


「花崎さんが所有しているフカムシチャですね。驚いた事に磯貝厩舎から声が掛かりました。元々の主戦は鷹騎手ですが、先日の斜行で騎乗停止になったので急遽打診が来たみたいで。まあ、鈴村騎手も驚いていましたし、どうしようか悩んでいましたが」


「相変わらず、お茶拘りなのね。名前を考えるのが面倒なのよ、花崎さんは。それにしても、うちのトカチフェアリーは桜花賞は回避しましたから、羨ましいですわね」


 十勝川が所有し浅井騎手が騎乗するトカチフェアリーは、先日行われたチューリップ賞に出走し、17頭中7着の結果に終わっていた。その為、距離適性も考え桜花賞を見送りフローラステークスへと目標を変えたのだった。


 そんな十勝川の想定と違う返事に、思わず苦笑を浮かべる馬見調教師である。しかし、フカムシチャは阪神ジュベナイルフィリーズで4着に入っている事もあるが、何と言っても今年のクイーンカップでも2着に入っていた。十分に桜花賞を勝つ可能性のある一頭である。


「桜花賞を鈴村騎手が勝てば、もしかすると主戦も変わる可能性もあるのかしら? 何と言っても鷹騎手は磯貝厩舎の馬だと2着が多すぎますもの。あら、それはそれで困るわね。秋以降のレースでうちのドーターとレースが被っちゃうわ」


 出走しても除外される可能性が高い為に桜花賞は見送ったが、トカチドーターで秋華賞を走るつもり満々の強気発言に、馬見調教師としては同意して良いのか、駄目なのか返答に困るのだった。


 そして、4月に入り栗東トレーニングセンターに馬見調教師と十勝川の姿があった。


 平日においても鈴村騎手が騎乗し調教を行った事で、トカチドーターも次第に調子を上げてきている。流石に鈴村騎手は桜花賞で騎乗するフカムシチャの事も有り、ここ最近は美浦ではなく栗東にて調教を行っている。その為に、トカチドーターも予定を早めて栗東で調教をつける事となった。


「トカチドーターの調子は良さそうね。忘れな草賞、期待してもいいかしら?」


「そうですね。勝ち負けまでは行けると思います。メンバー的にも飛びぬけて強い馬はいませんから、あとは展開しだいでしょうか」


 トカチドーターは、鞍上の鈴村騎手の指示に従い器用に走りを変えて坂路を駆け上がっている。まだ馬なりでの軽い調教ではあるが、何と言ってもサクラハキレイ血統牝馬特有と言われ始めている走法切替までは問題無く熟していた。


「末脚も3歳牝馬としては悪くないんですが、持久力的に見て適距離は2000mくらいまででしょうか。もっとも、此処からの成長次第ですが、やはりもう少し持久力が欲しいですね」


「そうねぇ、欲を言えば2200mまでは走って欲しい所ね」


 馬見調教師としても、十勝川としても、出来れば秋華賞、その後にあるエリザベス女王杯を目標にしたい所である。もっとも、秋華賞を走った後に体調を崩さなければという注釈がつくのだが。


「鈴村騎手も手応えは悪くないと言っています。もっとも、ベレディーやサクラヒヨリとは騎乗スタイルが大きく違うので試行錯誤しているようですが。先行からの差しがベストスタイルになりそうですが、末脚を見ると意外と追い込みも行けそうだそうです」


「問題はやっぱりスタミナという所かしら?」


「そうですね。ただ、現時点ではまだまだ馬体が仕上がっていません。今の所、4歳以降に期待したい所です。怖いのはやはり怪我でしょうか」


 暗に無理なレース計画は組まないですという意思表示を受けて、十勝川も思わず苦笑を浮かべる。


「ええ、私も無理をして欲しく無いですわよ? 勿論、まだまだ成長分の未知数が多いですから、良い意味で期待はしていますけどね」


「それは私も同様ですよ。ベレディーが抜けた後のうちの主力になって欲しいですね。ベレディーの御蔭で多少はうちの厩舎の名前も売れました。御蔭で預託馬も上限いっぱいまで預かれました。あとは、どうやって実績を作り続けるかですから」


 ここ数年、馬見厩舎ではミナミベレディーがしっかりと賞金を稼いでくれた。馬見調教師は勿論だが、蠣崎調教助手も、更には厩務員達もその恩恵を多大に受けている。それ故に、ミナミベレディーの次の主力馬を欲しているのは馬見厩舎一同の願いであり、今も一丸となって預託馬の調教を行っている。


「ミナミベレディーの存在は大きかったわね。引退しなければもっと記録を伸ばしたかもしれないわ。意味の無い事ですけど、本当に牝馬でなく牡馬であったらってついつい考えちゃうのよね」


 誰もが一度は考えてしまう夢のような物、非主流であるが故に種付け相手には事欠かないだろう。ましてやチューブキングの孫というだけで、日本の競馬関係者、競馬ファン達に与える影響は大きかっただろう。


「私からするとベレディーはベレディーなんですが、人懐っこくて、大喰らいで、愛嬌があって、とにかく頑張り屋で負けず嫌い。とてもとてもGⅠを勝てるとは思えない。そんな馬でした」


 もしミナミベレディーの産駒が生まれたなら、是非見に行きたいが。ただ、ここ数年は確かに馬見厩舎はミナミベレディーを中心に回って来た。実際の所、馬見調教師自身も、厩務員達も、引退して4か月になろうかという今でも何処か喪失感が残っている。


「十勝川さんにドーターを預けていただいて助かりました。今も私だけでなく、馬見厩舎の全員がドーターの先にベレディーを感じています。それ故に、全力でドーターの未来を築いていきますよ」


「そうね、ドーターはそれこそミナミベレディーの娘みたいなものですし。母馬と過ごした期間と同じくらいベレディーと共に過ごしたのですから。当歳の頃は牧場でもミナミベレディーを追いかけていたそうね」


 そして、そんな全員の思いを胸に、トカチドーターは忘れな草賞に出走した。


『 此処で先頭は代わってトカチドーター! 最後の直線、一気に上がって来た! 先頭は3番トカチドーター! 最後の直線、急坂を物ともせず先頭で駆け上がりそのままゴール! 2着に入った8番オモイデノハナに1馬身の差をつけて、トカチドーター1着でゴール! 鞍上鈴村騎手、この後の桜花賞へ弾みをつける好騎乗を披露しました!』


 中々の好スタートを切ったトカチドーターは、終始3番手から4番手に位置取り、最後の直線でスパート、坂の手前から走法をピッチ走法へと切り替えて1番人気オモイデノハナを捉え勝利を飾った。


 レースを観戦していた十勝川も思わず笑みが零れる会心のレースであった。


「メンバーに恵まれたとはいえ、鈴村騎手も成長したわねぇ」


 競馬関係者の中では、先行や逃げで定評のある鈴村騎手である。しかし、ここ最近では低人気の馬に騎乗しての差しや追い込みでも掲示板内に入るなど結果を出し始めている。ある意味、今が鈴村騎手の絶頂期なのかもしれない。


「ミナミベレディーの恩恵を一番受けたのは、やっぱり鈴村騎手なんでしょうね。でも、流石にミナミベレディー自身に音源は効果は無いでしょうから、そうすると何が良かったのかしら? すべてミナミベレディーから始まっているのよね」


 誰もが当初はGⅢならと言っていたミナミベレディーが大成したのは、鈴村騎手であるからこそという思いも無くはない。色々な意味で最初の馬であるミナミベレディーが、何を切っ掛けとして覚醒したのかを知りたいと思う十勝川であった。


「そうね、この後で聞いてみようかしら」


 何せ、ミナミベレディーに一番関わったであろう馬見調教師と鈴村騎手の両名とこの後すぐに表彰式で顔を合わせるのだ。


「駄目ね、時間が無いわ」


 そもそも、鈴村騎手はこの後すぐに桜花賞へ騎乗する為、会話をしているほどの時間は無いかと思い直す十勝川だった。

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