第260話 武藤厩舎とサクラヒヨリと大阪杯
4月に入ると競馬界は春のGⅠレースへ熱気が上がり始める。明日の大阪杯へ出走を決めているサクラヒヨリ陣営も同様で武藤厩舎では入念な仕上げが行われていた。
「5歳になって落ち着きが出て来たな。ミナミベレディーが引退してどうなるかと心配していたんだが、良い意味で予想を覆してくれてホッとしたぞ」
2月に入りミナミベレディーが北川牧場へと行ってしまい、日々の調教にミナミベレディーが居ない状況が日常となる。昨年ドバイへミナミベレディーが行ってしまった際、サクラヒヨリはメンタル面で大きな影響を受けてしまった。その印象が強かった武藤厩舎では、今回の大阪杯に対しても大きな不安を抱えていたのだった。
「ミナミベレディーは居ませんが、鈴村騎手がちょくちょく調教をつけてくれるのも大きいですね。あと、馬見厩舎のトカチドーターですか。フィナーレとは違いトカチドーターを構う事でヒヨリに良い影響が出ているみたいですね」
春先の放牧地ではサクラヒヨリがせっせとトカチドーターの世話をしていた。その様子はかつてミナミベレディーがサクラヒヨリの世話をしていた頃に似ていた。鈴村騎手がそう告げた為、武藤厩舎ではサクラヒヨリの帰厩以降の引き運動などでサクラヒヨリとトカチドーターを一緒に行う事が増えている。
そして、その効果は意外な事にサクラヒヨリとトカチドーターのメンタル安定という効果を齎していた。
「同じ群れの馬と言う認識があるから落ち着くのだろうが、まさかこんな効果があるとはな。血縁だと馬が判るはずもないから、やはり放牧を同じにする事が多いからだろうな」
「そう考えるとフィナーレはどうなんですかね? 別に威嚇されるとかは無いですけど、其処までサクラヒヨリと仲良く無いですよね? あっちは全妹なんですが」
「う~ん、其処ら辺はヒヨリに聞くしかないな。まあ会話なんぞ出来ないが。鈴村騎手なら何か聞いているかもしれんがな」
サクラヒヨリの状態が想定以上に良い事で、武藤調教師達も軽い冗談を飛ばしながらも念入りにブラッシングしていく。そして、一通りの世話を終えた武藤調教師は、角砂糖を与えながらサクラヒヨリに声を掛ける。
「ヒヨリ、明日の早朝に出発するからな。頼んだぞ」
「キュフフン」
サクラヒヨリの首を優しくトントンと叩き、武藤調教師は後の事を厩務員に任せる。そして、今調教を行っているサクラフィナーレの方へと移動した。
「サクラフィナーレはどんな感じだ?」
サクラフィナーレが練習コースを駆けて戻って来た所で、騎乗している調教助手へと声を掛ける。
「う~ん、悪くは無いんですがね。ただ、感じとしては相変わらずです」
調教自体では悪くない走りをするサクラフィナーレである。特にプリンセスミカミと同じレースを走るようになったところで、今までと何処か変わった気はする。ただ、その変化が中々に結果に結びついていない気はする。もっとも、重賞勝利はそう簡単ではないと武藤調教師としても理解はしていた。
「ヒヨリやミナミベレディー程のスタミナが無いからな。同じことをしろと言う方が無茶なのは理解しているが、桜花賞馬だからなあ」
桜花賞を勝っているが故に厳しいとも言えるのだが、そもそもサクラフィナーレはヒヨリ達に比べても気性は穏やかで大人しい。ここがどうしてもレース終盤で勝ちきれない結果になっているように思えた。
「今更だが、試しに鞭を使用してみるか?」
「そうですね、悪くは無いと思います。ただ、今まで一度も使われてきませんでしたから、どうなるかですね」
手鞭で走ることは走るし、器用にストライド走法とピッチ走法を切替はする。ただ、それらを駆使していてもレースでの走破タイムなどは平凡である。このタイムでGⅠやGⅡを勝てるかと言えばハッキリ言って厳しい。
「長内騎手も頑張ってくれているから何とかしてやりたいんだが。それでも勝てないまでも掲示板は死守してくれているからな」
「勝つとなると、このままだと厳しそうですね。もっとも、5歳、6歳と走るなら斤量も変わって来ますし、来年の中山牝馬辺りなら勝てそうですが」
サクラフィナーレの主戦である長内騎手。その長内騎手にとってサクラフィナーレは初めてGⅠを勝たせてくれた大事な馬だ。思い入れも強い。それ故に、何とかして重賞を勝ちたいと時間があれば日々の調教にも率先して騎乗してくれている。
武藤調教師としても、デビューしてからずっと付き合いのある長内騎手に、何とか頑張って欲しいという思いもあった。
「外野からはサクラヒヨリの様に鈴村騎手に騎乗して貰えば、などと言われているからな。長内騎手も気にしていない振りをしているが、思いっきり気にしているのが判るからな。フィナーレはヒヨリとは違うからそう簡単に乗り替わって勝てるもんでもないんだが、鈴村騎手の血統特化を考えればそう言いたくもなるか。なあ、フィナーレ。どうだ? お前は勝ちたいのか?」
「キュフフン」
武藤調教師に貰った角砂糖を暢気に食べているフィナーレに思わず問いかけるが、肝心のフィナーレは耳をピコピコさせて反応するのみだった。
そして、大阪杯当日。
「牝馬でGⅠ4勝ともなれば凄い記録なんだがなあ」
「ですね。まあ、春の天皇賞とエリザベス女王杯と距離が長めの所ばかりですから、もう少し短い所を勝ちたいですけどね」
その思いもあっての大阪杯である。桜花賞、秋華賞を勝っている御蔭で距離適性に不安は無い。そう思う所ではあるが、実際の所はやはりステイヤーよりだろう。牝馬であり種牡馬になる訳では無いサクラヒヨリは種付け相手を選ぶ立場にあり、そこまで適正距離にこだわる必要は無いのだ。
「ミナミベレディーは秋の天皇賞も勝っているからな。もっとも、それでも適距離は2200以上と思われているが」
「芝1600mから3200mまで走れる方が可笑しいんですよ。まあ、其処だけを見ればヒヨリも一緒ですが、ヒヨリもミナミベレディーも負けず嫌いですからね。あの気性あっての今の実績ですよ」
「そうだな。ヒヨリも今年で引退になるだろうし、残りのレースを頑張って欲しいのだが」
そう思う武藤調教師ではある。同じ血統、気質も若干違いはするが同じように頑張り屋だ。それでいて何故かサクラヒヨリはミナミベレディー程に強さを感じられない気がする。
「ミナミベレディーと比べて何が違うんだろうな。初めて見た時の印象では、サクラヒヨリの方が大成しそうに感じたんだが」
「やっぱり、鈴村騎手が言うようにメンタルの図太さですかね。ヒヨリはちょっと神経質な所がありますが、ミナミベレディーは移動でも、レースでも、特に委縮する事が無いって言ってましたから」
「そこだけはフィナーレも似たような物なんだがなあ」
「あ、ゲート入りが始まりましたね」
ターフモニターに各馬達がゲート入りする映像が映った。今回、枠順も6番とまずまずの枠を引き当てた事で、武藤厩舎としても勝ち負け以上を期待している。
『6番サクラヒヨリが後続を1馬身程突き放して3コーナーに入りました。2番手には1番キンメッキ、3番手に9番ハクトスピード・・・・・・。
4コーナーを回って最後の直線! 阪神競馬場短い直線、残し切れるかサクラヒヨリ、後続馬は届くのか! 先頭は6番サクラヒヨリ! 2番手を3馬身程離して最後の直線! しかし、此処で8番オレナラカテルが凄い勢いで上がって来た! 更に後方から12番ミチノクノタビ、14番ウメコブチャも上がって来る!
伸びて来たのは8番! 8番オレナラカテル! 凄い勢いであっという間に前を走る馬をかわして2番手! 勢いが違う! 阪神の坂を物ともせず、6番サクラヒヨリに並びかける!
他の馬は届かないか! ここで6番サクラヒヨリと8番オレナラカテルの一騎打ちだ!
かわした! かわした! オレナラカテル、ここで一気にかわして先頭に立った!
サクラヒヨリも必死に追いすがる! 先頭はオレナラカテル! オレナラカテルだ! 更に突き放して先頭でゴール! 勝ったのはオレナラカテル! サクラヒヨリを1馬身突き放して、大阪杯を制しました! 2着にはサクラヒヨリ、3着にはミチノクノタビ、4着にウメコブチャ。
第※※回 大阪杯、勝ったのは8番オレナラカテル! 久しぶりのGⅠ制覇! ダービーに続き、GⅠ2勝目を挙げました! 勝ったのはオレナラカテル、長い長いトンネルを抜け、漸く悲願のGⅠ2勝目! 女帝の後継者サクラヒヨリを破って……』
「くぅぅ、勝てなかったか」
思わず唸り声を漏らす武藤調教師。レース自体は悪くない展開で、3コーナーから4コーナーへ入った所でのロングスパート。事前に想定していた通りのレース展開に持ち込めたのだが、最後の最後に差し切られてしまった。
「惜しかったですね。展開的にはベストだったんですが、2000mだとやはり距離的に短いんですかね」
「馬鹿野郎! オレナラカテルはダービー馬だぞ。芝2400とかでも距離的に不安はないだろう。地力の差とまでは言わんが、普通に今までのようなレースでは勝てないかもしれないな。ミナミベレディーとて、運不運はあるが最後まで接戦に次ぐ接戦だったからな。
まあ、オレナラカテルは春天に出走しないだろうが、春天は春天でサウテンサンも出走して来るし、楽は出来んなあ」
サウテンサンは阪神大賞典をきっちり勝ち切っている。昨年同着に終わった春の天皇賞、今年は白黒つけたいのは何方の陣営も同じだろう。
それ以外に春の天皇賞で警戒する馬は、日経賞で勝利を収めた昨年の菊花賞馬だ。皐月賞とダービーを勝ったマナマクリールがドバイへ向かった事で、サウテンサンを避けて日経賞への出走した。その狙いが見事に的を得てこちらも日経賞を勝利していた。
またドバイワールドカップデーへ遠征した馬の中で特に注意すべきはドバイターフで惜しくも2着となった2冠馬マナマクリール、同じく今年のドバイシーマクラシックで見事勝利を飾り、昨年に引き続き日本の牝馬最強のイメージを作ったプリンセスフラウだ。
何処を見ても、油断できる要素が無い。
「有力馬が遠征で減ってたからこそ、ここで勝ち切りたかったがなあ。下手打つと女帝の後継者がプリンセスフラウに持って行かれるぞ」
「後継者というには、あちらはミナミベレディーと同じ年ですが」
「ならなんだ、遅咲きの最強王女とかか? ただこっちはGⅠ4勝なんだ。春天では負けられんぞ」
武藤調教師の本音が、思いっきり口から零れるのだった。
◆◆◆
シャクシャク、シャクシャク
「ブルルルン」(リンゴは美味しいですね~)
もう春なので、リンゴは時期じゃ無い気もするんです。それでも、定期的にご主人様がリンゴを送って来てくれるので、今も美味しくご飯に入ったリンゴを食べています。
「ブヒヒヒヒン」(ご主人様ありがとう~)
引退してから心配だったのは、ちゃんとリンゴが食べられるかだったんですよね。思わず、いまは居ないご主人様に感謝の気持ちを送っちゃいます。
引退のお祝いに鈴村さんがくれたメロンも格別でした! メロンは特別の日に限られる御馳走なんです。でも、今いる桜花ちゃんの牧場は北海道何ですから、もっとメロンを食べる機会があっても良い様な?
「ブフフフン」(次にメロンを食べれるのはいつかなあ)
北川牧場に無事に帰って来て、一月くらい過ぎました。
私は、毎日のんびりしていますよ。週末には桜花ちゃんが帰って来てくれるので、前以上にお話も出来ますし。
ただ、何か暇なんですよね。最初は楽で良かったんですけど、最近は暇を持て余しています。
調教が無くなって、引き運動でお散歩したり、何か回転ドアモドキで歩かされたりしますけど、基本的には一日中放牧されていますから。
「ブルルルン」(何か趣味を見つけないとボケそうですね)
ただ、間もなく出産予定のお姉さん達の仔馬が生まれます。そこから一気に慌ただしくなるかな? 毎年、放牧で帰って来ると仔馬達との駆けっこが日常になっていましたよね。
「ブヒヒヒン」(早く生まれてくると良いなあ)
今年、生まれて来る仔馬が楽しみですね。やっぱり仔馬は可愛いですからね。
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