第259話 森宮ファームと北川牧場
春のGⅠ戦線が騒がれ始める頃、森宮ファームではタンポポチャが待望の初仔の出産を無事に終えていた。
「いやあ、此方の方が緊張しましたね」
「立ち上がるのも早かったしな。牡馬だからきっと頑張ってくれるぞ! 見てみろ、如何にも走ってくれそうな表情をしている」
森宮ファームの牧場長達は、母乳を必死に飲む仔馬を見ながら喜びに目を細めている。もっとも、直接見に行ったわけでは無くあくまでもカメラ越しで見ているだけの為、実際の所はそこまで仔馬の顔を見れている訳では無い。
森宮ファームでは、タンポポチャ以外にも繁殖牝馬が多数居る。それこそ出産ラッシュと言っても良い状況が続いている。
そんな忙しさの中にあっても、タンポポチャは初産という事で最大限の注意が払われていた。森宮ファームとしても出産が予定日より前後する事を覚悟していたのだが、ほぼ予定日通りに兆候が表れた。その後も、破水後は30分程で出産という安産で牧場関係者を安堵させた。
「初乳もちゃんと飲めましたね、タンポポは暴れる様子も無いですし、これは優等生ですよ」
「そうだな、安心したよ」
生まれて15分程で仔馬は立ち上がろうと動き出し、それを見たタンポポチャは、鼻先で仔馬をつついていた。
そして、1時間程で仔馬は起立し、よろよろとしながらタンポポチャを追いかけ授乳をせがむ。その様子を心配しながら映像で確認していた牧場長達は、初乳を飲む事が出来た所で漸く今日2度目の安堵の溜息を吐いた。
「あとは、タンポポチャの後産だけだな。獣医の先生には無事生まれたと連絡を入れておいてくれ」
「判りました。先生を呼ぶような事にならなくて良かったですね」
最悪な状況も想定して酸素ボンベも用意していた。初産の仔馬は体調面で弱い仔馬が生まれる事もある。それ以外でも馬の出産は危険と隣り合わせであり、この時期には獣医師との連絡は欠かせない。
なかには生まれた仔馬を虐待する母馬もいる。その原因の一つが仔馬に自分以外の匂いが付く事によって自身の仔馬と認識しなくなる事と言われている。その為、仔馬と母馬の関係を適切な状態にするために、森宮ファームでは問題が無い限りにおいては監視カメラで状況を確認するのみにしていた。
もっとも、それ故に何かと気を揉む事が多いのだが。
「タンポポも気性は荒い方ですから。まあ、予断は許しませんが最初の山は過ぎましたね」
「育児放棄などにならなくて良かったな。聞いた所では、ミナミベレディーは自身の仔馬でなくとも可愛がるそうだから、あちらはそんな心配は少なそうだが」
タンポポチャとミナミベレディー、何かと比較してしまう2頭だけについつい牧場長の話の中にミナミベレディーの名前が出てきてしまう。
「ミナミベレディーですか? それだって生まれた仔馬が牡馬だとどうなるか判りませんって。パドックでは牡馬をよく威嚇していましたよね?」
そう言って笑う厩務員に対し苦笑を浮かべる牧場長。何せその事が理由でミナミベレディーが今年無事に種付けできるかと、競馬関係者達の間で不安視されているのだ。
「そういえば、リバースコンタクトであちらから問い合わせが入っていたな。タンポポとミナミベレディーは仲が良いから半兄という事で選ばれたのだろうが。まあ、まだ候補にと言う所なのだろうが、リバースはそこまでタンポポに似ている訳じゃ無いからなあ。会わせて見て受け入れてくれる様なら何とかという所だろ。こちらもミナミベレディーなら文句は無いんだがな」
北川牧場から、ミナミベレディーの種付け候補として森宮ファームのリバースコンタクトに対し問い合わせが入っていた。森宮ファームとしても相手がミナミベレディーという事で、是非とも産駒に期待したい所ではある。ただ、ここで問題となるのが肝心のミナミベレディーが受け入れてくれるかという所なのだ。
「タンポポの今年の種付けもなあ。ミナミベレディーが見合いに来た時に会わせれば発情してくれんかな?」
「流石にそれはありませんよ」
笑いながら軽く答える厩務員に対し、牧場長は思わず少々険のある眼差しを送ってしまう。
昨年は如何にか種付けが出来たタンポポチャであるが、今年も同じように苦労しそうなのが予想できる。どの種牡馬にするかは上が決める事であるが、その馬でどの様にして問題無く種付けするかは牧場長に委ねられる。昨年の苦労を考えれば、ついつい愚痴も出てくると言う物だ。
「ミナミベレディーも苦労するだろうな。まあ、その事を考えれば多少は溜飲も下がると言う物だ」
そう告げながらも、生まれた牡馬の未来を夢見て笑顔を見せる牧場長だった。
◆◆◆
その頃、北川牧場でも繁殖牝馬の種付け相手に頭を悩ませていた。
「十勝川ファームには、ヒカリ達のお相手は昨年と同じでお願いしました。トッコが種付けできるかが不明ですから、ヒカリには今年も種付けする事にしましたよ」
恵美子は、夫に今年の種付け計画を伝える。当初は、サクラハヒカリの今年の種付けは休ませる予定でいたのだが、ミナミベレディーの種付けが出来るかどうか何とも言えない事と、プリンセスミカミが重賞勝利した事で来年の産駒に対し問い合わせが増えた事。その為に、悩みに悩んだ末に今年も種付けを行う事に決めたのだった。
「ヒカリの産駒が牝馬だと嬉しいな。牡馬だとどうしてもなあ」
北川牧場では、何と言っても牝馬の方が実績がある事で高値がつく。産まれるならば産駒は牝馬である方が嬉しい。もっとも、それ以前に種牡馬を飼育する施設が無い事から、もし北川牧場で生産した牡馬が実績を残したとしても、手放す方向で話は進むのだろうが。
「先日、ミユキガンバレが産んだ子は牡馬でしたから、ヒカリの産む産駒には期待したいですわね。それ以上に牡馬にも頑張って実績を作って欲しい所なんですけど」
生まれる仔馬の性別で牧場の収入が大きく変わるのである。それ故に生まれる仔馬の性別は牧場の存続にすら関わる重大事だ。ただ、此処からの会話が例年の北川牧場と違う点である。
「ところで、盛田さんからの依頼の件はどうするんだ?」
北川牧場において、昨年大幅な改築改修が行われ施設も充実して来ていた。更には、ミナミベレディーを筆頭に、レースにてストライド走法とピッチ走法を使い分ける走り方でも注目を浴びている。その事も有り今年は馬主である盛田さんから、所有する繁殖牝馬の預託をお願いできないか問い合わせが入って来たのだ。
「そうですねえ、昔はうちも何頭か預託馬も受け入れていましたけど、今の預託料って相場は幾らくらいなのかしら?」
盛田氏は、プリンセスフラウの所有馬主として面識はある。もっとも、面識があるというだけで、そこまで親しいと言う程では無い。そんな盛田氏がなぜ北川牧場へ問い合わせて来たかと言うと、盛田氏所有の繁殖牝馬を受け入れていた牧場が倒産した事に起因する。
「生産牧場も生き残るのが厳しいからなあ」
盛田氏が預託して貰っていた生産牧場は、自家製産馬の成績が振るわず苦境に立たされていたようだった。そんな状況でも施設の維持管理に費用は掛かる為、預託馬の受け入れ頭数を増やしていたようだが、遂に力尽きたようだった。
「プリンセスフラウは別なのよね? あの馬は今も現役ですけど」
「GⅠ馬になったんだからな、生産牧場としては手放さないだろうな」
その牧場で生まれた馬が特別レースや重賞を勝利してくれれば、生産牧場賞の収入が入ってくる。特にGⅠ馬プリンセスフラウであれば、その産駒に期待ができる為に生産した牧場としては何とかして預託して欲しい一頭であろう。
「ユキフルヒカリは7歳まで現役で頑張ってたのね。クイーンステークスを勝ってるけど、産駒でまだ重賞勝利どころかオープン馬も出ていないのね」
ユキフルヒカリは現在15歳。5歳の時にクイーンSを勝利しているが、その後は勝ちきれず7歳で引退。産駒では牡馬で1勝馬が1頭、牝馬で1勝馬が同じく1頭の計2頭が競走馬として登録され、更に未勝利で3歳馬が1頭と計3頭が現役で走っている。
「うちも今は繁殖牝馬の頭数が減っているから、預かれない事は無いがな」
「そうねぇ。でも、今後は続々と引退して来るわよ? うちの子を余所に出すと桜花が煩いと思うし、将来的な事を考えれば馬房に空きはそんなにありませんよ?」
実際の所、恵美子としてはミナミベレディー、サクラヒヨリ、サクラフィナーレ、プリンセスミカミの4頭は出来れば受け入れたいと思っていた。そして、その産駒達が実績を出せば自ずと頭数は増えて行く。
もっとも牡馬に関して言えば、管理の問題も有り北川牧場では過去も含め所持した事は無い。
北川牧場としては、先々を考えれば預託馬を受け入れるかは中々に判断が難しい所である。それでも、ミナミベレディーのみならず、サクラヒヨリ、サクラフィナーレにも、チューブキングの血統という所で未だに熱烈なオファーがある。それもあって場合によってはサクラフィナーレなら手放しても良いかと思っていたりもする。
恐らく桜花は猛反対するんでしょうね。でも、どうかしら? 変な所はドライだから。
将来の事を模索していると、今度は峰尾がそんな恵美子の考えを察したかのような話を始める。
「うちの子はみんな仲良しだからな。ヒカリなんぞ自分の仔馬の世話をトッコに任せているくらいだ」
その言葉に、恵美子は思わず苦笑を浮かべてしまう。
「普通はありえないんですけどね。ヒカリは大雑把ですし、トッコはトッコで何にでも興味津々だから成り立っているのよ。トッコも牝馬や仔馬に対しては穏やかですから、最初はキレイも戸惑ったみたいですけど、最近ではトッコに順位を譲ったようですね」
「そうだな、まあトッコは牧場で見ている限りでは穏やかだからな」
馬は元々群れを作る生き物である。それ故に当たり前に序列が出来るのだが、恐らく序列で第一位に今いるのはミナミベレディーであろう。
数年前まではサクラハキレイであったのだが、それ故にサクラハキレイはミナミベレディーを苦手としていたのだと恵美子達は考えていた。もっとも、ミナミベレディーがデビューする前から威嚇していたのは謎であるが。
「まあ、存在感はあるからな。それも日に日に増しているぞ」
そう言って笑い声を上げる峰尾だが、確かに夫が言うようにミナミベレディーの馬体は日に日に恰幅が良くなっている。まさに、体型だけを見れば繁殖牝馬と言っても遜色がなくなってきている。
「飼料もかわりましたし、栄養も違いますからね。変わってもらわなければ困りますよ。ただ、問題はトッコがちゃんと発情するかどうか何ですよね。どこか馬の本能を忘れて来たんじゃないかって思う所がありますから」
「食欲は本能のままだがな」
それもそうなんですけどねと思う恵美子であった。
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