第256話 トカチドーターとデイジー賞

 年が明け2月に入った所で、それぞれの厩舎では所有馬のレースに向けて慌ただしくなって来る。それは、トカチドーターの次走に悩んでいた馬見厩舎も同様であった。


「やはりクイーンCは厳しいか。まあ、抽選になる事は間違いないからな」


「今のドーターでは、勝ち負けも厳しそうですよ」


 1勝を挙げてはいるドーターではあるが、日々調教を行っている馬見調教師達が見てもまだ重賞出走は厳しいと思える。栃木での放牧を経てしっかり休養は出来ているし、休養前に比べ一回り馬体も大きくなったような印象を受けはするが、調教をつけていた鈴村騎手からもスタミナ面で不安があるとの評価を受けていた。


「まあ、成長が遅いのはサクラハキレイ血統で言えば致し方がないのだろうが、そもそも適距離の判断が出来んな」


 恐らく父馬であるゴーアースの血も影響しているのだろう。ゴーアース自体の成長はやや早めから普通と言う所だけに、ドーターの仕上がりの遅さはサクラハキレイの血統が色濃く出た結果かと思える。


「欲を出さずに堅実に行かないとだな」


「という事は、予定通り中山で行われる芝1800m、デイジー賞で?」


「そうだな。そこで様子を見て次走を決めよう。出来ればフラワーカップで重賞を獲らせてやりたい処だが、厳しいだろう。デイジー賞も掲示板に載れば御の字か」


 昨年に何とか1勝出来たトカチドーターであるが、あれは出走頭数の少なさやメンバー、展開など色々な運に恵まれたからだと判っている。今のトカチドーターの実力的に言って、3歳1勝馬のレースであっても油断すれば容易く掲示板外になるだろう。


「そうですね。ただ鈴村騎手ですから、キレイ血統に騎乗した時の訳の分からない運の良さがありますから期待はしましょう。鈴村騎手自身もキレイ血統への思い入れが強いですからね」


 蠣崎調教助手の言葉に、馬見調教師も思わず苦笑を浮かべる。


 二人がそんな会話をしていた頃、驚いた事に武藤厩舎所属のサクラフィナーレがGⅢ中山牝馬ステークスへ出走する事が発表された。桜花賞を勝利している故に相応のハンデを背負う事になるが、金鯱賞などGⅡで勝負するよりは勝利する可能性が高いと判断したのだ。


「そもそも、中山牝馬ステークスはサクラハキレイ産駒と相性が良いはずだ」


 まさに神頼みと言っても良い領域ではあるが、競馬関係者達に何故桜花賞を勝てたんだ? とまで言われているサクラフィナーレである。

 武藤厩舎としては、まずは何処か重賞を勝利して、今後の弾みにしたい。先日栃木の牧場で言っていた様に中山牝馬ステークスに出走する事に決めたようだ。


 ハンデを考えると最適なレースかは何とも言えない所であるが、他のレースはと言われても厳しい所はあるのだろう。


「で? 騎手は相変わらず長内騎手で行くのか? まあ、武藤厩舎としても判断し辛いだろうが」


 サクラフィナーレが勝ったGⅠ桜花賞。その勝利騎手である長内騎手から他の騎手に乗り替えを行うのは勇気がいる決断だろう。ただ、ここ2戦ではプリンセスミカミにも先着を許し良い所が無い。


 サクラフィナーレ自体がGⅠを勝てる馬かと言うと、馬見調教師としても厳しいと言わざる得ない。それでも直近の姉2頭が結果を出しているだけに、武藤厩舎としてはGⅢで良いので結果が欲しい所なのだろう。


「本来は鈴村騎手に頼みたい所でしょうが、プリンセスミカミの主戦を務めますからね。ただ、サクラフィナーレも中々に難しい馬ですから、簡単に乗り替わりとは行かないみたいですね」


「という事は長内騎手か。まあ、長内騎手としても踏ん張りどころだろうな。サクラヒヨリの主戦は鈴村騎手に戻った。少ないチャンスをものに出来なかったからな」


 もし、サクラヒヨリで実績を出せていれば、ミナミベレディーが引退後も長内騎手が主戦になったかもしれない。長内騎手が騎乗したレースで何処か一つでも勝つことが出来ていれば、ただ重賞はそんなに甘くないかと思う馬見調教師だった。


「そう考えると、まだ長内騎手も運がありましたね。鈴村騎手がプリンセスミカミの主戦になっていて助かりましたよ。まあ、武藤調教師の決断が遅かったとも言えますが」


「騎手をどうするかは悩み処だからな。まあ、そういう意味では太田調教師はよく決めたな」


 栗東トレーニングセンターに所属する太田調教師である。それ故にフリーとはいえ美浦に所属する騎手に依頼する事は非常に珍しい。


「あれは、馬主である三上氏の意向も強かったみたいですよ。何と言ってもサクラハキレイ血統特化ですから」


 実際に其処迄の影響はないのだろうが、ジンクスや縁起、相性などを重視する競馬界において鈴村騎手が獲得したこの称号は非常に大きい効果を発揮する。


「まあ、サクラハキレイの血統が廃れてしまえば意味を為さなくなるが、それこそベレディー次第だな。そう考えると、鈴村騎手はとことんベレディーに依存しているなあ」


 馬見調教師の言葉に、蠣崎調教助手も笑い声を上げるのだった。


 そして、トカチドーターの出走するデイジー賞が2月末に開催された。勿論、鞍上は鈴村騎手である。


「う~ん、状態も上がり調子と言えばそうなんですが、今ひとつ集中していませんね」


 仕上がりとしては悪くはない。特に、昨年のレースからプラス5kgは成長分で好条件と思っている。レースの出走頭数的にも10頭と予想の範囲内ではある。


「あとは鈴村騎手次第か。まだ馬が若いからなあ」


 何と言ってもまだ2レース目である。それ故に、競馬場の雰囲気に若干気後れしているように見える。


「鈴村騎手が、ドーターもレースの映像を見てくれないと言ってました。まあ、映像を見るのはベレディーくらいですよ。ベレディーは好奇心が旺盛でしたから」


 笑いながらそう告げる蠣崎調教助手に、馬見調教師は何とも言えない表情で頷く。


 馬見調教師も、蠣崎調教助手達も、別にミナミベレディーが映像でレースを覚えていたかと言われるとそんな訳が無いと思っている。多分、映像が動く事が楽しいだけなのだと思うが、どうしてもそう言い切れないような所がミナミベレディーにはあった。それ故に微妙な表情になるのだ。


 そんなトカチドーターは、パドックでも、本馬場に入ってからも、周囲の馬を気にする素振りを見せている。


「大丈夫だよ。ヒヨリに比べたら怖くないですよ?」


 首をトントンと叩きながらトカチドーターを宥める鈴村騎手。ただ、前走と同様にゲート内へ誘導されると、より神経質な様子を見せる。


「大丈夫だからね。ドーターは良い子だね」


 そんなトカチドーターではあるが、ミナミベレディーの下へ頻繁に通っていた鈴村騎手であるが故に、何とか落ち着きを取り戻しつつある。


「最後の馬が入ったよ」


 何時もの様に、声色を変えてトカチドーターへと指示を送る。そして、その数秒後にゲートが音を立てて開く。


「よし! 良いスタートだよ!」


 前走より綺麗なスタートを決めたトカチドーターは、そのまま先頭を窺う気配を見せた。


 スタミナが心配だけど、どうかなあ。


 今日のレースが中山競馬場の芝1800mという事もあり、他の馬が無理をして競りかけてこない。その為、好位差しを狙うつもりであった鈴村騎手であったが、トカチドーターは想定以上のスタートが切れた事で其のまま先頭に立った。そして、直ぐに最初のコーナーへと差し掛かる。


「このまま行くからね。ドーターちゃん頑張ろうね!」


 先頭に立つトカチドーターは、1コーナーから2コーナーを回り、向こう正面に入った所で息を入れる。後続とは2馬身程しか差はついていない。恐らくは最後の直線、ゴール前の坂が勝負の分かれ道になるだろう。


「どうかなあ? 扱かれてたって聞いたけど」


 トカチドーターの耳がピクピクと動いて、香織の呟きを聞いているのが判った。


「まだだよ、最後の直線勝負だからね」


 ミナミベレディーやサクラヒヨリが得意とするロングスパート。それが出来るほどのスタミナが無い事は普段の調教で判っている。そんなトカチドーターではあるが、末脚の切れはサクラフィナーレやプリンセスミカミの同時期と比較すれば上のように感じる。


「まあ、ベレディーが最初から鍛えているからね。ベレディーを信じましょう」


 ミナミベレディーの指導を受ける頻度は、他の馬達と比べ同厩舎であるトカチドーターの方が圧倒的に多い。


 3コーナーから4コーナーを回り、間もなく最後の直線へ入る。此処でトカチドーターの外を被せるように他の馬達が上がって来る。その動きに釣られる形でトカチドーターがハミを噛み締めた。


 鈴村騎手は此処で漸くトカチドーターに手鞭を入れ、外の馬に競る形で直線へと入って行く。


「よし、ドーター、勝ちに行くよ!」


 直線に入り、残り180mという所で中山競馬場名物の急坂が待ち構えている。


 鈴村騎手は再度首筋を軽く叩き、トカチドーターへと指示を出す。


「ピッチ走法!」


 その言葉にトカチドーターは、まだまだ不器用ながらも先程までと比べ小刻みな走りへと変わる。


「がんばれ! ベレディーに褒めてもらうよ!」


 競うように並走していた馬達の勢いが、坂に差し掛かった所で明らかに止まる。それに対し、トカチドーターは必死に前へ前へと小刻みに駆け上がって行く。


「頑張れ! あと少し! 頑張れ!」


 鈴村騎手はトカチドーターを励ましながら、腕に力を込めて頭の上げ下げの補助を行う。


 半馬身から1馬身程前に出ていた馬達を、必死に最後の坂で抜き返す。


「頑張れ! ドーター、頑張れ!」


 頭の上げ下げのリズムに合わせ、必死に力を入れる。それに合わせて鈴村騎手はトカチドーターを応援する。


 半馬身、首、頭、そして並走。前を走る馬に並びかけ、トカチドーターは必死に前へと突き進んでいく。そして、先頭で坂を上り切ったトカチドーターは、勢いを落とすことなく突き放し、半馬身差を維持したままゴールまで走り切った。


「頑張った! 勝ったよ! ドーター、頑張ったね!」


「ブヒヒヒヒン」


 手綱を引き、並足になったトカチドーターの首を優しくポンポンと叩きながら鈴村騎手は褒めてあげる。トカチドーターは心なしか誇らしげな様子で小さく嘶いた。


 その後、表彰式を終えた鈴村騎手は足早に次の騎乗の為に騎手控室へ向かっていく。その姿を見送りながら、十勝川と馬見調教師はトカチドーターの次走に向けて打ち合わせを行う。


「勝ててホッとしました。予想していた以上にスタミナはありましたね」


「ええ、これで無事に2勝できましたし、何と言っても2連勝は嬉しいですわね」


 表情を綻ばせる十勝川であるが、対して馬見調教師は少々思案顔である。


 表彰式前に軽く鈴村騎手とも話をしたのだが、何と言っても今回はメンバーに恵まれた所がある。実際にレース自体は平凡なタイムで終わっていた。


「今日はスタートが良かったですね。あと鈴村騎手の得意な展開に持ち込めたのも大きいですが、やはりタイム的に見ても次走を何処にするのかが難しくなりました」


「ベストの騎乗でこのタイムですからね。馬見さんの狙い処としては、4月のフローラステークス辺りかしら?」


 ここで桜花賞と言わない所がまさに十勝川らしい所である。トカチドーターにマイルは厳しいとの判断は既に為されており、十勝川としても狙い処はやはりオークスと秋華賞と考えていた。


「回復次第ではフラワーカップも候補に考えています。まだ他の馬がレース慣れしていない時期ですから、騎手の指示に比較的素直に応じてくれる点を考えれば悪くはないかと。

 もっとも、敢えて此処で無理をする必要性も感じません。フラワーカップを走るのでしたら桜花賞の方がまだ良いかもしれませんね。昨年のサクラフィナーレの様に嵌まれば行けるかもしれませんね」


「桜花賞を獲るための血統ですものね」


 コロコロと笑いながらそう言う十勝川であるが、やはり今日のレースを見ても中々に重賞を勝つには厳しいように思える。今日勝てたのは良いが、何と言ってもタイムは平凡だ。


 馬見調教師が言うようにフラワーカップは芝1800mと条件的に悪くはないが、レース間隔的にトカチドーターには厳しいだろう。


「実際の所、狙い処は4歳になってからでしょうか? 奇しくもプリンセスミカミが愛知杯を勝ちました。私的には似たようなレーススケジュールを考えています。回復状況によっては一旦ここで放牧をして、マーメードステークス、クイーンステークスなどを狙っても良いかもしれません」


 芝1800mから2000mあたりのGⅢを狙っていくのも悪くはない。もっとも、どちらも牝馬限定とはいえ古馬と同じレースとなるのだが。そう考えれば、デイジー賞より前のレースで勝負していれば、そんな思いが込み上げてくるが過去に戻る事は無い。


「そうねぇ。でも古馬と同じレースとなるとプリンセスミカミと同じレースになるかもしれませんわよね? そうなると鈴村さんが騎乗してくれるかしら?」


「成程、確かにそうですね」


 十勝川の言葉に、馬見調教師もなるほどと頷く。GⅢを勝利した事で、プリンセスミカミがGⅡやGⅠへ参戦するかは何とも判断できない。


「ん~~~、悩むわねぇ。桜花賞ねぇ」


 そう言う十勝川であるが、その表情からは悩めることが嬉しい。その思いがにじみ出ているのであった。

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