第257話 浅井騎手とトカチフェアリー
3月に入ると十勝川の周りは途端に忙しくなる。近く出走するのはトカチフェアリー、出走レースは中京競馬場で行われる芝1600m エルフィンステークスである。
「どうかしら? 出来れば此処は勝ってもらいたい所だけど、欲をかきすぎかしら?」
実際の所、GⅢであるフラワーカップにするか、チューリップ賞にするかで悩みはしたのだが、転厩の事も有り余裕を見てエルフィンステークスへ出走させる事にしたのだ。
「地力から見ても、GⅢは行けると思うのよね。そこを考えれば、音源と浅井騎手にお願いした事も加味して勝ち負けくらいして欲しいわよね」
強引に転厩しただけに、黒松調教師への手前もある。それ故に確実に勝ちを狙っていくか、それともより高みを目指してみるか。篠原調教師とも幾度か打ち合わせを行った。そして結局はエルフィンステークスに目標を定めたのだ。
「浅井騎手も乗り替わり初戦ですものね。確実に勝ちを狙いたいわよね」
「否定はしませんが、それだけでなく騎手、馬ともにベストの状態でなければ重賞は厳しいですね。ここで狙うのは、まずは1勝という所でしょう」
淡々と説明をする篠原調教師に、十勝川は苦笑を浮かべるのだった。
そして、篠原厩舎ではそのトカチフェアリーの調教にそれこそ熱が入っていた。
「悪くは無いのですよね」
追い切りで6歳牝馬のオープン馬と併せ馬を行ったのだが、トカチフェアリーは最後の直線で難なく差し切っている。もっとも気性難は相変わらずで、走ってみなければ判らない怖さがある。
「テキ、手応えとしては悪くないと思います。鞭を入れてからの反応が早くて、まずまずです!」
追切を終えたトカチフェアリーが戻って来て、騎乗していた浅井騎手が笑顔で篠原調教師へ感想を述べる。トカチフェアリーに再び騎乗出来る事になって、浅井騎手の表情も明るい。
「あとは当日のご機嫌次第ですか。まあ、あの音源が効果を出してくれれば掲示板は行けそうですね」
篠原調教師としても、まさかミナミベレディーの嘶きを聞かせると馬が落ち着くとは思ってもいなかった。ただ、実際に興奮しているトカチフェアリーにミナミベレディーの嘶きを聞かせた所、明らかに落ち着きを見せ始めた事で効果がある事を認めざる得なくなったのだ。
「牡馬は合う合わないがあるみたいなんですけど。落ち着く子もいれば、逆に落ち着かなくなる子もいるみたいです。それと、慣れて来るとやっぱり効果が薄くなるみたいですね」
ミナミベレディーの嘶きに関しては、それこそ鈴村騎手が一番詳しい。もっとも、浅井騎手が鈴村騎手に聞いた所、ある一定年齢以上の牝馬には効果がなくなるどころか、逆に馬が委縮し走らないケースもあるとの事だった。
「ミナミベレディーの嘶きも万能ではないですか」
その話を聞いた篠原調教師は、首を傾げながらも今週末に開催されるエルフィンステークスへと集中する。オープンを無事に勝利ともなれば、トカチフェアリーの次走は重賞挑戦となる。トカチフェアリー次第ではあるが、エルフィンステークスであれば十分勝つ事もありうると思っていた。
「出走馬の傾向などを再度確認しますよ。当日のレース展開をイメージして万全を期す。厩舎の掃除が終わったら勉強会です。頭に叩き込みますからね」
篠原調教師の言葉に、浅井騎手は思わず首を竦めるのだった。
そしてエルフィンステークス当日。生憎の曇り空であり、前日から朝にかけて雨が降った事も有り、馬場の状態は稍重となっていた。それでも芝の状態は午前中の重からは若干ではあるが回復している。
3歳未勝利戦である1レースと5レースに出走した浅井騎手ではあるが、残念ながら11頭中2番人気の4着。9頭中6番人気の6着と微妙な成績となった。
「気持ちを切り替えて行きましょう。まあ、その様子では開き直って行きましょうと言うべきでしょうか?」
中京競馬場第10レースとなるエルフィンステークスが近づくにつれ、浅井騎手の緊張はピークになって来た。何と言ってもトカチフェアリーに再度騎乗しての初戦であり、何かと結果を求められる立場にある。
「オークスの失敗を繰り返さない様に、緊張しない様に、そう思ってはいるんですけど」
「ふむ。浅井騎手にもミナミベレディーの嘶きを聞かせれば良いのですかね?」
思いっきり緊張している浅井騎手に、とても冗談を言っている様には思えない表情で篠原調教師がそう告げる。思いもしない篠原調教師の言葉に、浅井騎手は一瞬虚を突かれながら、冗談だろうか? 本気だろうかと篠原調教師の表情を窺う事となった。
「えっと、冗談でしょうか?」
「冗談以外に考えられないでしょう」
とても冗談とは思えませんと言いたい所であったのだが、その言葉を言うことは出来ず浅井騎手は何となく微妙な気持ちでエルフィンステークスへと向かうのだった。
『中京競馬場、芝1600m、3歳牝馬リステッド競争エルフィンステークス、芝の状態は稍重、これがレースにどのように影響するのか。3歳牝馬クラシックへ向けて、桜花賞へ向けての試金石、11頭のうら若き牝馬達が間もなく出走致します。1番人気は昨年の2歳牝馬優駿で4着に入ったフリーダラン、デビュー戦を勝利し、アルテミスステークスでは5着、2歳牝馬優駿では4着と勝ちきれないながらも存在感を示し、ここエルフィンステークスで勝利して弾みをつけたい所! 2番人気は……』
エルフィンステークスの実況が流れ、次々と出走馬が紹介されて行く。その中にあって、前走10着でありながらも以前に好走していた浅井騎手への乗り替わりでトカチフェアリの人気は6番人気となっていた。
「はあ、フェアリー、久しぶりの一緒のレースだね。頑張ろうね」
枠番も5番と可もなく不可もない。若干ゲート入りが早まる為に、スタートまでトカチフェアリーを如何に落ち着かせられるかが最初の関門だろう。
「大丈夫だよ、フェアリーは良い子だね」
鈴村騎手仕込みの声掛けを行いながら、首をトントンと叩きトカチフェアリーの気持ちを落ち着かせていく。その間にも、他の馬達のゲート入りを意識する。
「最後の馬が入るよ」
トカチフェアリーへとそう声を掛け、浅井騎手も手綱を握りスタートに備える。そして、ゲートが開くと共にトカチフェアリーは前へと飛び出した。
「最高のスタートだよ!」
スタートと同時に浅井騎手はトカチフェアリーに声を掛け、首筋を優しく叩いて褒めてあげる。そして、3コーナーからの緩やかな下りを意識し、更には最後の直線、ゴール前の急坂を意識しながらも、前よりに位置取りを行うのだった。
◆◆◆
「良い騎乗でしたよ。まあ、道中で少しまごつきましたが、まあ褒めてあげましょう」
スタートから好位置につけたトカチフェアリーは向こう正面で一時的に3番手になるが、最後の直線で再度スパートし最後の最後でギリギリ前を差して僅差の勝利。
浅井騎手としては、もう少し楽な展開を望んではいたが結果を見ればギリギリの辛勝。要因としては向こう正面で後続に追い抜かれた際にトカチフェアリーが抜き返そうとした。それを浅井騎手が手綱を引いて宥めたのだが、そこで少々折り合いを欠いたのだ。
「途中、もう少し脚を溜める事が出来ればもう少し楽だったかもしれません」
2着に入った馬との差は首差。最後の坂を上がり切った所で差し切ったトカチフェアリーだったが、浅井騎手としては後少し余力があればと思わなくはない。
「そうですね。まあ、それは帰ってからちゃんと検証しましょうか。勝つことは出来たのです、及第点でしょう」
「わ、わかりました」
篠原調教師の勉強会、反省会は中々にメンタルに来る。その為、肩を落としながら騎手控室へ戻って行く浅井騎手の後ろ姿を見つめながら、篠原調教師は薄く笑いを浮かべる。
篠原調教師としては、現状のトカチフェアリーでは掲示板に載せる事が出来れば御の字だと思っていた。ただ、トカチフェアリーも浅井騎手を覚えていたのか、調教でも、今日の騎乗でまずまずの反応を示してくれた。もっとも、浅井騎手が言うには、以前騎乗していた頃以上に気性が荒くなっているとの事であったが。
「あら、浅井騎手は騎手控室に行っちゃいました?」
「ええ、まずは此処を勝ててホッとしていました」
篠原調教師の言葉に、十勝川はコロコロと笑い声を上げる。
「チューリップ賞で3着までは厳しかったかしら?」
「さて、走ってみなければ判らないのが競馬です。十勝川さんはその事をよくご存じだと思いますが?」
何時もの様に淡々と返す篠原調教師に、十勝川はまたもやコロコロと笑い声を上げる。
「この後の祝勝会の席で次走を考えましょう。浅井騎手にもそうお伝えしてね」
それは即ち次走は重賞で行くと言う事であり、その鞍上を浅井騎手に頼むという事である。篠原調教師は、此処で再度薄っすらと笑みを浮かべる。
「浅井騎手はマイナス4kgの恩恵があります。もっとも、私はダイエットとは無縁ですが」
特別競走では恩恵は無いが、それ以外の平地競争では51勝以上100勝以下の若手女性騎手はマイナス3kgの恩恵がある。それ故に、その分しっかりと体重管理をしなければならない。マイナス3kgであるのに、自身の体重増でマイナス3kgにならなければ騎乗出来なくなり、騎乗機会だけでなく信用を失ってしまうのだ。
篠原調教師がそう告げる意味に気が付いた十勝川は、またもや笑い声を上げながら篠原調教師に告げる。
「ええ、勿論判っているわ。だから蟹料理にしたの。浅井騎手は量を食べられないでしょうから。私だって焼肉食べ放題は年齢的にきついですからね」
そう言う十勝川であるが、以前に鈴村騎手と会食した時に、蟹は失敗だったかと思った事をすっかり忘れていたりする。
「蟹ですか」
これはまた、打合せするにも会話が弾まなさそうな料理だなと思う篠原調教師であった。
実際、この後の会食では黙々と蟹を突っつく浅井騎手と、もともと寡黙で淡々と蟹を食べる篠原調教師、そして蟹は失敗だったわねと再度思う十勝川、そして、なぜ蟹を選んだと頭を抱える十勝川勝也の姿があったとかなかったとか。
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