第255話 篠原厩舎と黒松厩舎

 篠原厩舎では、思いもよらぬ転厩の申し入れが入り慌ただしく受け入れ態勢を整えようとしていた。競走馬の引退は、何も12月が多いという訳では無い。年度替わりなどでは無く、怪我などのアクシデントなどもあり日々引退する馬はいる。


 それ故に厩舎が管理する管理馬の頭数は日々増減しているのだが、近年栗東のベテラン厩舎はどこも預託数一杯の競走馬を管理していた。その為、依頼されてすぐ受け入れできるかは判らない状況ではあるのだが、幸い篠原厩舎では12月に引退した馬が数頭いた為に空きが出来た状態であった。


「まさかトカチフェアリーが転厩してくるとは思いませんでしたねぇ」


 自厩舎の馬房の中で何時もの淡々とした様子で寛ぐトカチフェアリーを見て、実の所篠原調教師としては色々と複雑な気持ちであった。


 トカチレーシングからトカチフェアリーの転厩したい旨の連絡が来た時、一瞬ではあったが篠原調教師は断ろうかと考えた。地方からの転籍や、美浦からの転厩であれば即頷いたであろう。しかし同じ栗東、ましてや自身よりも年長で実績のある黒松厩舎からという事で、後々へ遺恨を残すのではと心配したからである。


「黒松調教師の了解は得ています。そもそも、うちの会長と黒松調教師とは今一つ相性が良く無いですから」


 トカチレーシングの今の代表である十勝川勝也と篠原調教師は昔から比較的交流があった。勝也自身がまだ学生の頃、勝子に連れられて栗東トレーニングセンターに出入りをしていた。その際に、勝手にウロウロとしていた勝也を色々と注意したのが篠原調教師であった。


「こら、子供。無暗に馬に近寄るんではありません。馬は臆病なのですから、咄嗟に蹴られても蹴られた方が悪いのですよ」


「ここは関係者しか入れませんよ? さっさと親御さんの所へ行きなさい。此処では馬以上に大事な物は無いのです。馬優先ですから、子供は大人しくしていなさい」


 高校生の勝也に対し、まるで小学生の子供の様に声を掛けて来る篠原調教師に、当初勝也は強く反発したものだった。


「ここのルールすら知らず、馬より自身の事を優先するようでは子供と変わりませんよ。嫌ならまずルールとマナーを身につけなさい」


 そう淡々とした調子で言葉を掛ける篠原調教師。その後も、栗東へ来ると何時の間にか自分の傍に来ていて、細々とした注意をする。そして、そんな遣り取りが1年、2年と繰り返された。しかし、ある時から気が付けば栗東へ訪れても、篠原調教師を見かけても注意をされる事が無くなっていた。


 あれ?今日は何も言って来ないぞ?


 そう思った頃には、不思議と勝也は篠原調教師に心を開いていたのだった。


「黒松調教師もしっかりと結果を出されていますよ? 決断するのは時期尚早ではないですか?」


 そう忠告する篠原調教師に対し、勝也はそれは判っているとばかりに篠原調教師の説得を始める。


「トカチフェアリーには浅井騎手をと思っています。であるなら篠原調教師の所へ転厩させた方が結果は出るでしょう。昔から貴方には良く叱られましたが、後で考えても決して理不尽な事を言われた事はありませんでした。まあ、今は僕がトカチレーシングの代表になりましたから、今後は宜しくお願いしますよ」


「はあ、あの生意気な子供が代表になるとは、トカチレーシングも大丈夫ですかねぇ」


 そうあからさまに溜息を吐く篠原調教師に対し、勝也は思いっきり笑い声をあげながら篠原調教師に返事をする。


「生産はまだまだ母の手腕が生きていますよ。僕はその預かった馬を何処に預けるか考えるだけです。ですから、トカチレーシングの未来の一端は篠原調教師にかかっていますね。頼みました!」


 屈託なく笑う勝也に対し、やれやれと言った様子で篠原調教師は肩を竦める。そして渋々と言う様子を一欠けらも隠す事無く、その後は書類を無事に交わしてトカチフェアリーを受け入れるのであった。


「テキ! 本当ですか!」


 トカチフェアリーが篠原厩舎に転厩してくることを知った浅井騎手は、驚きと喜びで思わず声が大きくなる。浅井騎手にとってトカチフェアリーは思い入れのある馬であり、乗り替わりには悔しい思いをしていたのだ。


「何を聞かれているのかは判りませんが、トカチフェアリーが預託される事になったのは確かです」


「凄いです! あ、あの、トカチフェアリーの鞍上は決まっているんですか?」


 思いっきり期待に目を輝かせて浅井騎手は尋ねる。


「鞍上も浅井騎手に主戦として頑張っていただく事になります。今回の転厩に際しての条件で、もしトカチフェアリーが重賞挑戦になったとしても乗り替わりはありませんよ。もっとも、余程に下手を打ったら私が無条件で降ろします。まあ、ここは頑張り時です。頑張りなさい」


 篠原調教師は薄っすらと笑みを湛えながら、淡々と浅井騎手に説明をする。浅井騎手はその説明に初めは目を輝かせ、次第に満面の笑みを浮かべていく。


「トカチフェアリーの状態を実際に見てみないと判りませんが可能なら2月中京で行われるエルフィンステークスを考えています。芝1600mで牝馬限定戦。まあ、今後を試すには悪くないレースでしょう」


「はい! 頑張ります!」


 元気よく返事を返す浅井騎手に目を細めながら、さてさて、黒松調教師に筋を通してこないとなあと内心溜息を吐く篠原調教師であった。


 そして、篠原調教師が黒松厩舎へと赴くと、驚いた事に黒松調教師が深々と頭を下げた。


「すまない。変なゴタゴタに巻き込んでしまった。トカチフェアリーの状態は悪くない。あの馬は重賞も獲れる馬だと思っている。後を頼む」


 近年、以前の様な成績が中々上げられていない黒松厩舎である。そこを考えればトカチフェアリーは是非とも自厩舎で育てたい一頭であった。黒松調教師としても大事に育てたいと考えていた1頭であり、本音では悔しい思いが強い。


 ただ、今回のケースにおいては潜在していた十勝川との考え方の違いが強く出てしまった。その為に起きた騒動に、篠原調教師を巻き込んでしまった事には忸怩たる思いがある。それ故の謝罪であった。


「任されました。私が何かを言う立場ではありませんが、私に出来るのは引き継いだトカチフェアリーを私に任せて良かったと思っていただける様にする事だけです。何が正しく、何が間違っていた。それを論ずる意味など無い世界ですから。黒松調教師の思いをしっかりと受け止めさせて頂きます」


 そう言って深々と頭を下げる篠原調教師。その篠原調教師を苦笑を浮かべて黒松調教師は見返した。


「そうだな、何が正しいか、何が間違っているか、それをどれだけ言っても勝てなきゃ意味が無い。競馬はあくまでも結果が命だったか。まさか篠原調教師が親父の口癖を知っているとは思わなかったよ」


 決して自分を非難している訳では無い。それは篠原調教師の目を見ていれば良く判る。良くも悪くも篠原調教師と言う人物は、自分と別の意味で融通の利かない頑固者だ。


「私が調教師になりたての頃、よくそう言って発破をかけてくれました。お前は理論理論であたまが硬いと怒られましたが、まあ、私も頑固ですから。何かと口煩いかたでしたねぇ」


「確かにな。口煩く、酒が入れば周りに絡む厄介な親父だったな。そうか、そうだったな」


 そこで、しばらく黙り込んだ黒松調教師であるが、何か吹っ切れたように笑顔を浮かべる。


「まあ、うちは今じゃあクラブ馬が主体になっちまってるからな。ロマンより欲しいのは結果だ。親父が生きていたら何か言うかもしれんが、競馬は結果が総てだ。縁が無かったのは残念だが、トカチフェアリーを頼む」


「勿論ですよ。良い馬ですからね、後で手放したのを後悔して頂きます」


 そう言うと篠原調教師と黒松調教師はお互いに握手を交わし、ある意味円満に挨拶を交わす事が出来たのだった。


「あれ? テキ、これは何です?」


 篠原調教師が厩舎を後にした時、テーブルに置かれた紙袋に調教助手が気が付いた。


「ん? ああ、篠原調教師の手土産だ。まあ、何か喰いもんだろう。開けてみろ」


 包装紙からは直ぐに何かは判らない為、ついつい何を持ってきたのかと包装紙を破る手元を注視する。


「軽いですね。そうすると、クッキーとかですかね? 屋号は入ってないから有名どころじゃ無いですね」


 そう言いながら包装紙を破って箱を開けた調教助手は、思わず軽い笑い声をあげた。


「ミナミベレディー煎餅でした! うわあ、これ結構手に入り辛いんですよ。篠原調教師、良く手に入ったなあ」


 瓦煎餅の表面に、ミナミベレディーのデフォルメされた絵が焼き付けられている。昨年の秋から競馬場などでも売りに出されてはいるが、ミナミベレディー人気が凄く最近は売り切れ必至となっていた。


「はあ、まあ良い。一枚よこせ」


 何となく複雑な気持ちでミナミベレディー煎餅を口にする黒松調教師だった。

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