第254話 大南辺と桜花とトッコ

 ミナミベレディーの引退。その影響をある意味一番受けているのは、やはり大南辺だった。


 今週、競馬協会の表彰式が開催される。既に通知を受けてはいるのだが、昨年の年度代表馬はやはりミナミベレディーとなった。2年連続の受賞となっている。もっとも、その事自体は嬉しい事は嬉しいのだが、大南辺が今最も気になっているのは、今後のミナミベレディーの事であった。


「はあ、ベレディーが北川牧場に移送されるのは来月か。俺の予定はどうなっていたか」


 北川牧場へ挨拶にも行きたい。ミナミベレディーの様子も見たい。改修が終わった後の北川牧場へは既に1度訪問をしてはいるが、ミナミベレディーが新しい設備でどの様に過ごしているかも見たい。その為、ミナミベレディーが移送されて落ち着いたであろう1週間程後に、北川牧場へ訪問の予定を組むつもりでいる。


 ミナミベレディー、ミナミベレディー、引退直後であるが故に、大南辺の頭の中は依然ミナミベレディーで大半を占められていた。先日の有馬記念の勝利、その後の引退式、そのすべてが今もまざまざと脳裏をよぎる。


 大南辺の所有していた馬は、ミナミベレディーの引退で残り1頭となっている。その馬はまだ今年4歳となる為に引退を考えはしないのだが、4歳の段階で1勝。掲示板に載る事すら稀な成績であり、今後オープン馬になる事はまず無いと思っている。


「其れは兎も角、ミナミベレディーの産駒なぁ。やっぱり欲しいよな」


 今年、無事に受胎したとしても出走出来るまでに時間は掛かる。ただ、ミナミベレディー産駒を購入する気満々の大南辺は、妻からの購入頭数を何とか5頭まで引き上げて貰う交渉の真っ只中であった。ただ、引退した後の馬達のその後の管理費用も掛かる事も有り、税金絡みで何とか説得をしようとしているが苦戦中である。


「半額負担の契約産駒くらいは所持したいのだが、道子がなあ。多分、うんと言ってくれると信じてはいるのだが」


 なんやかんやと最後には、自分の我儘を聞いてくれる妻である。それ故に、今回の事も最後には許してくれると信じてはいるのだが、時おりとても頑固になる所も有りまだ安心は出来ない。


 ミナミベレディーが勝利した数々のレース。その優勝トロフィーや、口取り式の写真。それを順番に眺め悦に入りながらも、今後生まれてくるだろうミナミベレディー産駒のその未来へと思いを馳せる。


「牝馬がいいかな? サクラハキレイの血統だからな。やはり狙うなら牝馬なんだろうが、ベレディーの産駒なら牡馬も走ってくれそうなんだが」


 大南辺はコレクションを眺めながら勝手にミナミベレディー産駒へと期待を寄せる。ミナミベレディー引退後、休日を過ごす大南辺の典型なパターンである。


「貴方、そろそろゴルフにでも出かけたらどうなんですか? 最近は競馬場にも行きませんし、運動不足になるわよ?」


「ああ、そうだなあ。あ、それはそれとして、来月の2週目の土日だが、北川牧場へ行ってくる」


 夫の部屋へやってきた道子は、うろうろと部屋の中を歩き回る夫の姿に何時もの事と呆れかえる。そんな妻の視線を物ともせずに、大南辺は来月の予定を妻に告げた。


「どうぞご勝手に。私はたぶん友人と出かけますから、そこは任せますわ」


「ああ、所でだな、例のベレディー産駒の事なんだが」


 今一番の懸念事項を何とか解決してから北川牧場へと訪問したい。そんな思いから恐る恐るお伺いを立てる大南辺に、道子は大きく溜息を吐く。


「最初の5頭ですよね。まあ、貴方の気持ちも判らないでは無いですし、それこそミナミベレディーはしっかりと賞金を稼いでくれました。ですから特別に許可はしますけど、その5頭のお馬さんが走らなくてもしっかりと最後まで面倒をみてくださいね。


 買ったは良いけれど、思うように行かないから捨てましたとかは、それこそ北川さん達に合わせる顔が無くなりますよ?」


「俺はそんな事しないぞ! 今所有している馬達だってちゃんと面倒を見ている!」


 もっとも、その為に少なくない金額を毎月支払っている大南辺だが、ここ数年はミナミベレディーの御蔭で負担に思った事は無い。


「桜川さんの奥さんに、後になってミナミベレディーを買っておけばと桜川さんが落ち込んでいた様子をお聞きしていますし、貴方が買わなかった1頭が活躍したら貴方も落ち込むでしょ? ただ、価格は要打合せ! そもそも、5頭も買って幾らくらいになるのか良く判らないんですからね」


 妻の言葉に、大南辺もコクコクと大きく頷きながら、実際の所幾らくらいになるのだろうかと首を傾げるのだった。


 2月に入りミナミベレディーは栃木の牧場より北川牧場へと無事に移送された。その報告を待って、大南辺は北海道への仕事を金曜日に捻じ込み、翌日の土曜日に北川牧場へと訪問する。


「おお、ベレディーものんびりしていますね」


 到着して直ぐにミナミベレディーの様子を見に行った大南辺は、まだ雪の残る放牧地でのんびりとしている姿を見て笑顔を浮かべる。


「いま此処に放牧されている馬でトッコと遊びたがる若い馬はいませんし、ヒカリ達は来月には出産が控えていますから、トッコも一緒にのんびりしてますね。


 1歳になった馬は新しい放牧地にまとめて放牧されているので、運動量も減りますから。これからはトッコもだんだん体型が変わって行きますよ? トッコは気が付かないと思いますけど」


 昨年生まれた1歳馬達は、新しく整備された放牧地に放されている。そちらの方が屋根付きの周回コースもあり調教において便利なのだ。


 また、繁殖牝馬向けの飼料に代わっている事も有り、今後はミナミベレディーも繁殖牝馬への道を進んでいく。


「ベレディー、ベレディー」


 大南辺がそう声を掛けると、ミナミベレディーは耳をピコピコさせながら大南辺へと顔を向け、そのまま此方へと駆け寄って来る。


「ブフフフフン」(ご主人様だ~、おやつ? おやつ?)


 自分へと頭を突き出し、フンフンと匂いを嗅ぐミナミベレディーだが、直ぐに歓喜の声をあげた。


「ブヒヒーン!」(わ~い、リンゴだ~!)


 自分が隠し持ってきたリンゴに気が付かれたかと苦笑しながら、大南辺は4つに分けたリンゴの一欠けらをまずは与えるのだった。


シャリシャリシャリシャリ


 口の中でリンゴをゆっくりと味わうかのように食べるミナミベレディー。その鼻先を優しく撫でながら大南辺は状態を確認する。


「まだまだ結構引き締まっていますね。それこそ、レースに出てもしっかり走ってくれそうな感じに見えます」


 最後のレースからすでに1か月以上時間は過ぎている。次走の予定が無いミナミベレディーである為、てっきり何時もの様に太ってしまっていると思っていた。


「先日まで栃木でヒヨリやフィナーレ、ドーターと一緒だったんです。すでにあちらでも飼料は切り替えていて現役の物とは違うんですけど、流石に休めなかったみたいで」


 そう言って苦笑する桜花に、成程と大南辺も頷く。


「ブルルルルン」(全然休めなかったの~)


「お、ほら、味わって食べるんだぞ。またリンゴを1箱持ってきたからな」


 ミナミベレディーに催促されたと思った大南辺は、次のリンゴを一切れを差し出した。


「ブフフフフン」(わ~~い、ありがとう~~)


 尻尾をブンブン、お耳ピコピコ、リンゴをシャクシャク食べながらピョンピョンと跳ねる。大南辺は、その姿を目を細めて眺める。


「このピョンピョンダンスの御蔭で売れ残っていたんだなあ」


 結局、引退するまで嬉しい時に飛び跳ねるピョンピョンダンスを止める事は無かった。ただ、もしこのダンスをする事も無く、普通に走る仔馬だったら自分の目に留まる前に売れてしまっていただろう。


「あの頃は、お母さんもお父さんも、無事に売れるか、ちゃんと走ってくれるかすっごく心配してました。私も、家の牧場大丈夫かって心配してましたからよく覚えてます。本当に初めの頃は特に走るのが不器用というか、ぎこちなかったんですよね? 大南辺さんに買って貰ってすっごく感謝しました」


 笑いながら答える桜花だが、北川牧場の面々も今だからこそ話せる話だった。実際、大南辺がもう少し競走馬に詳しければ、きっと二の足を踏んでいただろうし、購入価格はもっと安くなっていただろう。


 そうこうしている内に、ミナミベレディーはリンゴを食べきった。そして、これ以上リンゴが貰えないと判ると、今度は桜花へと鼻先をスリスリしはじめる。


「流石に桜花ちゃんには敵わないな。本当にベレディーは懐いている」


「此処まで懐かれるとは思っていなかったんです。でも、やっぱり懐いてくれると嬉しいし、私もトッコは大好きですから」


 桜花は、嬉しそうに笑顔を浮かべてミナミベレディーの鼻先を撫でる。そして、ミナミベレディーが満足したかなという所で、大南辺と揃って事務所へと戻るのだった。


 ただ、大南辺としてもまだ大学生の桜花に対し、今年の種付けをミナミベレディーが出来そうか聞く勇気はなかった。繁殖牝馬とする為に、それに適した飼料が用意され、馬自体の体型も変わって行くと聞いている。それ故に先程見た馬体からするとやはり今年は厳しいかなと思っていた。


「大南辺さん、トッコが引退しちゃいましたから所有馬は減ったんですよね? まだ生まれていませんけど、今年のうちの産駒とかはどうですか? トッコが恐らく構い倒しますから、きっと走ってくれると思いますよ?」


 今年の種付けについての打ち合わせをする為に大南辺が来たと知っている桜花は、どうせなら今年生まれる予定の産駒も高値で買ってくれないかなと思っていた。何と言っても大南辺は、昨年もトッコの御蔭で賞金を稼ぎまくっていて予算は潤沢なはずだ。


「そうだねぇ、ただ、ベレディーの産駒を買いたいから自重しないとなんだよ。何せうちの奥さんに漸く5頭までなら購入して良いと了解を得た所でね。ここで1頭買っちゃうと中々に厳しくてね」


「あ、そうなんですね。それでしたら、トッコの産駒を高く買ってくださいね!」


 そう言いながらも、困った表情を浮かべる大南辺を見て、既に道子さんにしっかり釘を刺されていたかと内心では顔を顰める桜花だった。

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