第253話 北川牧場と、十勝川とトカチフェアリー

 ミナミベレディーが繁殖牝馬として北川牧場に戻って来る。その事を受けて北川牧場では冬の間に厩舎を含め大幅に改修された。以前を知っている人達にとっては、それこそ見違える様であった。


「はあ、早くトッコが帰ってこないかなあ。帰ってきたら驚くだろうなあ。すっごい綺麗になったよね」


 桜花は綺麗になった厩舎の様子に目を細めながら、フォークを手にボロや寝藁の掃除に勤しんでいる。その二の腕は、昔から行っていた作業のために中々に逞しい。


「そうねえ、トッコが此処はどこ? って驚きそうね」


 同じく馬房の清掃を行っていた恵美子も笑いながら厩舎の中を眺める。


「うん、それ判る。此処まで綺麗になってるのって記憶に無い。此れもトッコ効果だよね? トッコが帰ってきたら私も毎週帰って来てトッコと遊ぶ!」


 ミナミベレディーの帰郷を今か今かと待ち望んでいる桜花は、帰ってきたらミナミベレディーとどうやって遊ぶかの予定を話始める。


「桜花、馬鹿な事言ってないで、さっさとやらないと時間が無いわよ」


 北川牧場の繁殖牝馬は、サクラハキレイが既に引退をしている為に、サクラハヒカリ、ミユキガンバレ、ヒダマリガンバレ、トチワカバの4頭になっている。


「馬鹿な事って、酷いよ! あ、お母さん、3番棟の馬房も改修した方が良かったんじゃ無いの? トッコ以外にも帰って来るんだし、馬房足りる?」


 北川牧場にある設備として、繁殖牝馬用と乳離れした仔馬用に10頭用の厩舎を2棟持っていた。しかし、近年は繁殖牝馬の数が減ったためにフルに使われる事無く、各棟の一部は物置となっている。さらには3番棟に至っては至る所にガタが来ていたのだが、最低限の修繕はされているが改修と言うほどには手を入れていない。


「そうねぇ、トッコだけでなくヒヨリやフィナーレ、それにプリミカも帰って来るものね。でも、そうなると維持費だけでも大変よ? 無理せず今出来る処から改善していけばよいの。一度投資した設備はお金に戻らないのよ?」


 そう桜花に告げる恵美子だが、場合によってはフィナーレあたりは十勝川の所にお世話になれば良いのではと思っていたりする。もっとも、つい先日の愛知杯でサクラハヒカリの産駒プリンセスミカミが初重賞制覇をしてくれたので、何とか其処迄逼迫することなく行けるのではと思っていたりするのだが。


「うんうん、プリミカも頑張ってくれたよね! ヒカリの産駒でやっと重賞勝利馬が出てホッとした。他の仔もがんばってくれないかなあ」


 実際、愛知杯のレースを北川牧場で見ていた桜花は歓喜で大暴れであった。


 今回の愛知杯は勝つ見込みが高かった事も有り、また三上氏購入の北川牧場産駒初の重賞勝利の可能性という事もあって、恵美子が牧場を代表して愛知杯観戦に行った。その為、北川牧場では桜花のストッパーとなる者が居なかった。それ故に、桜花が息切れするまで騒ぎ切ったのであった。


「そうね、これで一安心ね。今年デビューの仔もいるし、期待したいわね」


「うん、今年生まれる仔達は、高値が期待できるかなあ」


 恵美子としても、この後の北川牧場を支えてくれるサクラハキレイ産駒の繁殖牝馬が何処でも良いので重賞を勝利してくれる事をずっと願っていたのだ。


「ここ数年は本当に良い事が多いわね」


 今年のヒカリの仔は高く売れそうで良かったわ。


 4歳でGⅢである愛知杯を勝ってくれている。上手くすればもう1個くらいGⅢを勝ってくれるかも。そう願う恵美子であるがこればかりは何とも言えない。


 そもそも、零細牧場の生産馬が重賞を勝つ事など、近年では10年、20年に1度あれば良いという事を恵美子は良く知っていた。ここ20年で廃業した競走馬の生産牧場は多く、恵美子が知っている牧場だけで20は超える。


「大手牧場には敵わないものねぇ。うちも良く廃業しないで来れたわね」


 牧場の努力次第で出来る事には限りがある。生き残るために必要なのは、馬主との繋がり、魅力ある繁殖牝馬、零細牧場であるが故に、ある意味血統への拘りと言うかロマンだろうか?


 その中で定期的に結果を出してくれるサクラハキレイは北川牧場の大黒柱であったのだ。


「今年の冬はランニングマシーンもあるし、何と言っても新しく整備された放牧地と屋根付きの周回コースだよね! 大南辺さんと桜川さんにはすっごい感謝!」


 桜花の言葉に恵美子は思わず苦笑する。設備の寄贈においての税金関係が何かと面倒であったのだ。普段お願いしている税理士に加え、大南辺が依頼している会計士も交えて税法上の取り扱い、贈与税に掛かる金額など事細かに打ち合わせる事になった。


「桜花は頑張って此処を維持していかないと駄目よ。でも、トッコやヒヨリがいるのだから、昔に比べれば遥かに楽な出だしよ?」


「うん、それは判ってるよ。でも、トッコ達の産駒が走ってくれないとあっという間に厳しくなりそうだけどね。でも、セールに出せばトッコの産駒は売れそうだけど」


「其処迄甘くは無いわよ? トッコの事は覚えているでしょ?」


 そう言って舌を出す桜花に、恵美子は思わず呆れた表情を見せる。


 GⅠ馬、年度代表馬の産駒であれば最初は高値を期待できる。それであっても、2頭目、3頭目が出走するようになると、やはり実績を求められるだろう。北川牧場はそんな経験を幾度もしているし、産駒の成績が伸び悩み廃業していった同業者も知っている。


「トッコが今年無事に種付けが出来たら、ヒカリの種付けは今年休むんだよね?」


 高齢となってきているサクラハヒカリだ。今年出産予定の仔馬が牝馬と判っているため、体調面などを考え今年の種付けは休ませたいと考えていた。特に、無事にミナミベレディーが受胎し、来年にその産駒が生まれるのであれば財政的にも無理をさせる必要は無い。


「そうね、出来れば無理をしたくないわね」


「でも、キレイを見ていると産駒も晩成っぽい気がするよね」


 高齢繁殖牝馬は様々なリスクを持つとも言われている。しかし、サクラハキレイの様に晩年にGⅠ馬を産んだ繁殖牝馬も存在する為に何事も例外は居るという所ではある。


 ただ、サクラハキレイは数年おきに重賞馬を産んではいたが、サクラハヒカリの産駒でオープン馬になったのは1頭のみ。ここに来て漸くプリンセスミカミが2頭目のオープン馬となり念願の重賞を勝ってくれたのだった。


「トッコの種付けかあ。お母さん、やっぱりリバースコンタクトで検討してるの?」


「一応、十勝川さんの所のトカチシルバーやトカチマジックが候補に挙がっているわよ。ただ、トカチマジックはまだ若いから、第一候補はやっぱりリバースコンタクトかしら? お値段もだけど、タンポポチャが同じ牧場で放牧されているから。次点でトカチシルバーかしら」


 母の言葉に、桜花はトカチシルバーの血統を思い出そうとする。


「父の父がホームシルバーで、その父がサンデーサンだっけ? う~ん、どうなのかな?」


「半兄にはGⅠを勝利しているプラチナヨットもいるから悪くないのよ? 難を言えばマイラーの方が良い気はするから悩み処ね」


 実際の所、ミナミベレディーのお相手は選び放題と言えば選び放題である。


「タンポポチャとは相性が良かったし、あっちの血統はマイラーだよ?」


「そうねぇ、タンポポチャと仲が良かったのは否定しないわ。ただ牝馬だからかもしれないわよ? プリンセスフラウとも仲が良いし、どうなのかしら?」


 もっとも、実際にミナミベレディーが今年ちゃんと発情してくれるかが問題ではある。そこは目を瞑って、一応は今年のお相手選びをしておかなければならない。


「そう考えると、トッコもだけどヒヨリも難しそう」


「そうねぇ、トッコの影響を思いっきり受けてるものね」


 この後の事を考えて、思わず溜息を吐く二人だった。


◆◆◆


「はあ、どうしましょうかしら」


 有馬記念が終わり十勝川としても本来は一段落ではあるはずなのだが、十勝川の頭を悩ませているのがトカチフェアリーの事であった。


 紫菊賞で2勝目を挙げた事も有り、12月に行われた阪神ジュベナイルフィリーズへ思い切って出走させてみたのだ。人気も6番人気とそれ程悪くはなく、GⅠという事で黒松調教師の推す西川騎手に騎乗をお願いした。


「それで12頭中10着なのよねぇ」


 距離適性的に言って芝1600mは若干短いかもしれない。ただ、其処迄対応できない距離とは考えていなかった。レースは前寄りの4番手につけ、展開自体もそれ程悪い展開ではない。それでいて、最後の直線でまったく伸びずにズルズルと後続に抜かれ結果10着でのゴールとなった。


「仕上がりは悪くなかったんだろ?」


「ええ、前走との間隔も短いと言う程では無かったわ。レース後の検査でも異常は無かったの」


 天候も曇りではあったが馬場の状態は良。上手くすれば掲示板にはと期待していただけに、今回の結果は残念な思いが強い。


「母さん、黒松調教師は何か言ってた?」


「騎手との相性とは言わなかったわね。馬が周りに委縮した感じだったとか、3歳になればより精神的な成長も望めるので、とか? 次走も西川騎手で行くかは明言しなかったわね」


 実際の所、十勝川としては騎手が変わった事と、ミナミベレディーの嘶きの有る無しが影響したのではないかと疑っている。その為、次走の騎手を再度浅井騎手へ戻す様に検討を依頼していた。ただ、黒松調教師からの返事はまだない。


「次走は普通に考えてクイーンC? 府中だから遠征になっちゃうよね。2勝しているから何処を走らせるかの判断が厳しいなあ。実力的にもどうなのか、雨で馬場が荒れていたとかもなかったからね」


「ええ、昨年なら美浦でミナミベレディーと調教をと考えればマイナス要因はなかったのよね。トカチフェアリーもミナミベレディーとならメンタル的に問題は無かったと思うの。ドーターもいるから馬見調教師も嫌とは言わなかったと思うわ」


 ただ、その肝心のミナミベレディーが既に引退している。その為、美浦トレーニングセンターへ行ったとしてもミナミベレディーに会うことは出来ない。


「ドーターとなら併せ馬は出来るね」


「ええ、黒松調教師を納得させないと駄目ですけどね」


 そのトカチドーターは同じ3歳でまだ1勝しかしていない。その為、併せ馬を行うにしても、本来であればオープン馬以上の馬が望ましい為に黒松調教師は良い顔をしないだろう。


「あと出来れば音源を何とかしたいのよね」


 ただ、トカチフェアリーの主戦でもない鈴村騎手にお願いするのは筋違いに思える。それでは次走のトカチフェアリーの騎手を鈴村騎手へと考えると、トカチドーターとレースが被った時に困ってしまう。


「浅井騎手に頼むしかないんじゃない? 音源を何とかしたいならさ。僕としては黒松厩舎から篠原厩舎に変えても良いと思うんだよね。母さんは、もともと黒松調教師と相性良くないじゃん」


「黒松厩舎も最近はクラブ馬が増えて、クラブ馬だと出走回数も含めて今までとはやり方が変わるでしょ? 先代の頃とはやっぱり方針が違うから黒松調教師もどうしてもベテラン騎手重視になって行ったのよね。私だって判らなくはないのよ?」


 実際に景気後退の影響で個人馬主の所有馬数は大きく減ってしまった。そして、資金的に余裕のあるクラブが台頭してきて有力馬を所有する事となった。


 黒松厩舎のみならず、何処の厩舎も有力馬を所有するクラブを重視せざる得なくなって来ているのは確かだった。クラブ馬の場合、クラブ会員でも判る名前が知られているベテラン騎手を起用する事が望まれ、ここ数年はベテラン騎手を起用する事で若干ではあるが厩舎の勝利数を上げる事にも成功していた。


 その為、黒松調教師としては確実に勝利を掴むためにも更にベテラン騎手重視になってしまっている。


 十勝川は勿論その事をよく理解していた。


「景気低迷で黒松厩舎のお得意様が結構減ったからさ、そこから回復させるために苦肉の策だよね。まあ時代の流れって言ってしまえばその通りなんだけど、だからと言ってこっちが我慢するのも変だし浅井騎手に戻せないなら転厩で良いと思うよ」


 今後の競馬界を支えて行くと言う意味でも、クラブ所有馬を軽視する事は出来ない。ただ、新人騎手達を育てる必要性というのも同様に重要なのであるが。


「そうねぇ、でも浅井騎手がもう一度騎乗してくれるかしら? 篠原調教師も良く思わないと思うわ」


 ここでまた大きく溜息を吐く十勝川に、勝也が珍しく少し苛立った様子を見せる。


「トカチレーシング代表として、僕が黒松調教師と話すよ。その前にフェアリーを篠原厩舎へ転厩出来るかも含めてね。空きが無いとそもそも話が成り立たないから。あと、騎手は浅井騎手に戻そう。ハイ、これで決まり!」


 そう言って手を叩く勝也に、十勝川は眉をハの字にして困った表情をするのだった。

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