第251話 プリンセスミカミと三上さん

 ミナミベレディーの引退式が無事終わった。だからと言って、それで厩舎が暇になる訳では無く、武藤厩舎でも、太田厩舎でも、それこそ馬見厩舎でも日々変わらず調教が続けられる。


 特に太田厩舎では1月に開催される芝2000m牝馬ハンデ戦、愛知杯へとプリンセスミカミが出走する事も有りその調教に余念がない。


「で、プリミカの調子はどうだ? 秋華賞後はちっと調子を落としていたが」


 秋華賞で3着に入ったのは良かったのだが、予想通りにそこから調子を崩す。愛知杯にするか、思い切って3月の中山牝馬ステークス迄伸ばすかを悩んでいた太田調教師であるが、その後、比較的早い段階で飼葉食いが戻って来た。その為、思い切って愛知杯へと出走を決めたのだった。


「プリミカも少しずつ成長して来てますね。秋華賞出走時に比べ馬体重も増えて来ていますし、良い意味でひと回り大きくなりましたよ」


 残念ながらプリンセスミカミは3歳では重賞を勝つことが出来なかった。それでも、3歳後半から次第に馬体も仕上がって来て、ここに来て漸く成長を感じられるようになった。


「秋華賞で3着に入れたんだ、愛知杯で何とか重賞初勝利と行きたいところだがな」


「今の状態を維持出来れば、勝ち負けは行けますよ。苦手な左回りも何とか克服しましたし」


 実際の所、中京競馬場という所で若干の心配はある。中京競馬場の芝2000mは、プリンセスミカミにとっては何方かと言うと苦手な左回りでの競馬となる。更には、坂の途中からスタートしてのレースで、コーナーが比較的鋭角な為に速度が出にくい。プリンセスミカミにとっては初めて尽くしのコースであった。


「完全に克服したとは言い切れないが、幸い前走に引き続き鈴村騎手が騎乗してくれるからな。ここはやはり期待したいな」


 サクラハキレイ血統に鈴村騎手が騎乗する。今やそれは勝率が上がる事を意味するほどになっていた。


「しかし、鈴村騎手も成長しましたね。騎乗依頼も増えて、いまや一流騎手に仲間入りですよ」


 誰もが引退するのではと思っていた数年前の姿がまるで嘘のようだ。昨年もその前の年程では無いがリーディングで12位とトップ20位以内をキープし勝利数も73勝を挙げている。


「先行馬、逃げ馬に乗せると怖い騎手になったからな。後方からの追い込みや、中団からの差しなどはまだ荒いが。ただ気性難な馬での勝利数が伸びている。そう考えれば騎乗依頼も自ずと伸びるだろうよ」


 とはいっても、斤量マイナス2kgの恩恵は此処に来てさらに大きい。その為、新馬、未勝利馬などの騎乗依頼が特に多く、オープン馬、更に重賞となると依頼される数はそれ程多くは無い。


 ただ、それでも関東のレースにおいては改善傾向ではあるが。


 そして、愛知杯当日。鈴村騎手を鞍上にプリンセスミカミが出走する。


『第※※回 芝2000m左回りで競われます愛知杯。2004年より牝馬限定戦へと移行。今年も14頭の牝馬達が栄冠を目指し出走致します。1番人気はゼッケン5番プリンセスミカミ。前走の秋華賞では同じサクラハキレイ血統、桜花賞馬サクラフィナーレを抑え堂々の3着。

 エリザベス女王杯を回避し、ここ愛知杯へと照準を決めた陣営の期待に応え勝利を掴むことが出来るのか!


 鞍上には、秋華賞の時より手綱を握る皆さまご存知鈴村騎手! サクラハキレイ産駒特化の相性を、サクラハキレイ血統へ拡大できるのか!』


 愛知杯の実況が始まり、太田調教師はパドックを回るプリンセスミカミの様子にまずまずの手応えを感じていた。


 そして、期待を込めたレースが始まる。


『4コーナーを回りまして、先頭は2番パインマスカット、しかし後続も一気に詰めて来る。2番手には11番ハルノヨウセイ、3番手に9番カワイイコ。此処で中京競馬場、最後の坂が待ち構える! 先頭は依然パインマスカット! 


 直線に入り各馬鞭が入った! 各馬横に広がり抜け出してきたのはプリンセスミカミ! 1番人気プリンセスミカミ、懸命に前を追いかける! 前を走るカワイイコをかわし現在3番手! 先頭パインマスカットは脚が止まったか!


 此処で先頭は変わってハルノヨウセイ! しかしプリンセスミカミが伸びて来る! 届くか! 坂を上り切って残り200m!


 ハルノヨウセイ、懸命に粘る! プリンセスミカミ必死に追いすがる! プリンセスミカミ伸びた! プリンセスミカミだ! ゴール直前、再度伸びてプリンセスミカミ1着でゴール!


 2着にはハルノヨウセイ! 1番人気プリンセスミカミ、首差で初重賞制覇! 勝ったのはプリンセスミカミ! 鞍上鈴村騎手、サクラハキレイ血統で初の重賞制覇!』


「良し! 勝ったぞ!」


 太田調教師は、グッと拳を固め小さくガッツポーズをする。


 秋華賞の走りを見て、牝馬限定のGⅢであれば勝てると手応えは感じていた。しかし、実際に勝てるかどうかは別の話であり、重賞を無事に勝てた事で重い肩の荷を下ろしたような気持だった。


「何とか勝てましたね。三上さんも今頃馬主席で大喜びしてますよ」


 調教助手の言葉に、太田調教師はニヤリと笑う。


「まあ、こっから先を考えると此処で勝てたのは大きいな。出来ればマイルを走れると良いのだが、難しいからなあ」


 距離的にもプリンセスミカミの適距離は1800mから2200mくらいであろう。それではGⅠを勝てるかというと、古馬混合戦では厳しいと感じていた。


「次走の中山牝馬は回避だな。これ以上負担重量が増えても困るな」


「サクラハキレイ産駒は中山牝馬ステークスを勝つ血統のはずだったんですが、やはり回避ですか」


 調教助手の言葉に、太田調教師は苦笑いを浮かべる。


「まあ、出走馬の面子を見て考えるがな。ただ、GⅡを勝てる馬かと言われると厳しいが、重賞1勝しているのとしていないのでは差がな。まあ、あちらさんはGⅠ馬だからなあ。何処かでギャフンと言わせてぇが、無理か?」


 そんな事を考えながら、太田調教師は表彰式へと向かうのだった。


◆◆◆


「おおおおお!」


 ゴール手前で差し切り、プリンセスミカミが初の重賞勝利を飾る。その姿を見ていた三上氏だが、その勝利の瞬間を目にし咄嗟に言葉が出てこない。ただ、自然に溢れてくる涙を慌ててハンカチで拭う。


 馬主になって既に20年近く経つ。その中で、未勝利で終わった馬もいれば、オープン馬にまでなった馬もいた。所有馬が幾度か重賞を走った事があるが、残念な事に勝利した事は無い。


 所有馬が重賞を走る度に、若しかしたら? 今回こそは? そう思いながらレースを見てきた。そして毎回勝てずに終わった事に、競馬はそんなに甘くない。そんな思いを新たにする。


 それ故に、今回の愛知杯においても、駄目かもしれない、多分駄目なんだろう。そんな思いが何処かにあった。それは、駄目だった時に自分が傷つく事を少しでも和らげる魔法の言葉でもあった。


「勝ちました。良かった、勝ちました」


 今日、目の前でプリンセスミカミがGⅢを、重賞を勝利してくれた。


 桜川氏が、大南辺氏が、数々のGⅠを勝利していくのを羨ましく眺めている事しか出来なかった自分。


 なぜ、あの時にミナミベレディーを買わなかったのだろう。


 そんな思いをしたのは何も桜川だけではなく、北川牧場と交流のある馬主達、特に大南辺が購入を決める以前にミナミベレディーを見ていた馬主達が一様に抱く思いだった。


 ミナミベレディーがサクラハキレイ産駒では考えられない2歳で初重賞勝利。その話を聞いた時、三上は慌てて北川牧場へと向かう。そこで、サクラハキレイ産駒のサクラフィナーレが既に桜川氏に購入されていた事を知る。


「桜川さんが購入済みですか。そうですか」


 そして、サクラハヒカリ産駒の牝馬がまだ所有者が決まっておらずセールに出される事を知り、咄嗟に購入を決めてしまったのだった。


 その後のミナミベレディー桜花賞勝利から始まる奇跡の数々、大南辺氏と桜川氏の幸運が非常に羨ましく、自ずと自身が購入したプリンセスミカミへ思いが向かう。


「理不尽な期待を掛けてすまんな」


 太田厩舎の馬房へ顔を出す度に、リンゴをシャリシャリと食べるプリンセスミカミへそう謝罪する。


 プリンセスと名前を付けてしまう程に期待してしまう自分がいる。桜花賞は間に合わなかったが、オークス、秋華賞と善戦するプリンセスミカミ。3歳を終え、今後は古馬を交えたレースが続く故に、重賞を勝つことは中々に厳しい事は理解している。それでも、期待してしまう、願ってしまう自分がいた。


 愛知杯の表彰式、そこで三上は太田調教師に深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。太田調教師には色々と無理を言いました」


「ここで勝ててホッとしましたわ。まあ、GⅢなら何処か勝てるとは思っとりましたが。こっからは茨の道かもしれませんが、まあ鈴村騎手が騎乗しとればまたどっか勝つでしょうよ。おお、今日の立役者だ」


 そう言って笑う太田調教師の視線の先では、鈴村騎手が笑顔でインタビューを受けている。聞いている限りでは、やはりサクラハキレイ血統での勝利という事で色々と質問を受けているようだった。


「まあ、血統特化など眉唾もんですが、勝てばついつい信じてしまいますな」


「ええ、本当に」


 その二人の視線の先では、引綱を引かれたプリンセスミカミがご機嫌斜めに頭をブンブン振っているのが見えるのだった。

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