第248話 ミナミベレディーの引退式 中編
勝てたのか、勝てなかったのか。サクラヒヨリに競り勝ったことは判っていても、最後に追い込んで来たトカチマジックとの差は判断できなかった。
どっち? 勝てた? 駄目だった?
ミナミベレディーのレースは写真判定が幾度もあった。しかし、それでも結果が出るまでの待ち時間に慣れると言う事は無い。騎乗しているミナミベレディーも香織と同様に結果が気になるのか、静かに立ち止まって電光掲示板へと視線を向けている。
そして、漸く電光掲示板に着順が点る。1着に16番の文字が点灯した事を確認した香織は、今まで堪えていた涙が決壊したが如く溢れ出した。
「勝った、勝てた! やったよ! ベレディー、がったよ!」
「ブルルルン」(勝てたね~)
思わず最後は込み上げてくる思いで鼻声になってしまった香織だが、そんな自分とは対照的にベレディーは何時もと変わらず耳をピコピコさせて、のんびりとした返事を返してくれる。
まあ、ベレディーも鼻息は凄いけどね。
目の前で同じように掲示板を注視していたロンメル騎手が、トカチマジックの馬首を返し検量室へと戻っていく。その際に視線が合うと、ロンメル騎手は何か声を掛けてくれたようだった。ただ、それ程距離は離れていないにも関わらず、観客席から聞こえる歓声に打ち消され聞き取れない。それでも小さくサムズアップさせた手を掲げてくれたので、恐らく自分達を祝福してくれたのだろうと思う。
香織がロンメル騎手にペコリとお辞儀をすると、ロンメル騎手が今度はスタンドを指さした。
え? 何?
そう思う香織であるが、スタンドの観客達の熱狂にロンメル騎手が何を言いたかったのか思い当たった。
そっか、観客の人達にベレディーの姿を見せてあげないと。
何と言ってもミナミベレディーのラストランだった。有馬記念で勝てた喜びと安堵に溢れる涙を拭いながら、スタンド前でベレディーと初めてのウイニングランを行う。スタンドから注がれる多くの祝福の声にお辞儀をし、更に多くの歓声を受けて漸く検量室へ戻る。その後も、競馬関係者など多くの人に祝福され、その後に出会った美香とも会話を交えた。
この時までは、確定した有馬記念の勝利! 昨年に続いての連覇、宝塚記念を含め、グランプリレース4連勝。GⅠ10勝のみならず、様々な記録尽くめの勝利でありながら、香織の心の中を占めていたのはミナミベレディーの引退レースに花を添える事が出来た。無事に有馬記念を勝てた。その喜び一色だった。
どこかフワフワした気持ちのまま受けたインタビュー。その後に行われた表彰式。この時の香織はまだ勝利の余韻に酔っており、ミナミベレディーの引退という現実をそこまで実感出来ていなかったと言っても良い。
ミナミベレディーが最後のレースを終えた。もう二度とレースを走る事は無く、香織が騎乗する機会は無い。引退という事を改めて意識したのは、皮肉にも引退式の為にミナミベレディーに騎乗して本馬場へと入場し表彰台へと向かう最中であった。
ターフビジョンに映し出されるミナミベレディーの姿。繰り返し映像で流される思い出のレース。香織は、引退式の壇上へと向かう足を思わず止め、映し出される映像に見入ってしまった。
「……そっか、もう最後だったんだ」
ミナミベレディーの引退レース。
有終の美を飾る為にも勝たせてあげたい。そう思いながら、そう口にしながら、それでも、心の何処かでミナミベレディーの引退を意識する事を避けていたのかもしれない。
引退レースを勝たせる事に集中し、敢えてその後の事を考える事を止めた。そうしなければ最後のレースを冷静に走る事すら難しかったかもしれない。
そして、今まさに目に飛び込んで来たミナミベレディー引退式という文字と、過去のレース映像が香織の心を思いっきり揺さぶったのだった。
雛壇の手前で立ち止まりターフビジョンを見つめる香織の目から、知らず知らずに涙が溢れ出してくる。映像で流されるレース一つ一つの思い出が、当時と同じように香織の心に蘇って来る。
ああ、これは初めて勝った桜花賞だ。勝てるとは思っても見なかった。2歳牝馬優駿での失敗を返上する走りを見せる。ただ、それだけに集中していた。
エリザベス女王杯、秋華賞で勝ちきれなかったからこそ、距離の伸びたエリザベス女王杯で何とかGⅠ2勝目をミナミベレディーに齎してあげたかった。
3歳春の桜花賞を、他の馬達がまだレースに不慣れだったが故に勝てた。偶々運が良かったから勝てた。ミナミベレディーの実力はやはりGⅢからGⅡだ。そんな周りの声を、ミナミベレディーは凄い馬なんだ! 頑張り屋さんなんだ! 周囲の声を黙らせる為にも、ミナミベレディーにGⅠ2勝目を挙げさせてあげたかった。
表示されるレース毎にその時、その時の思いが蘇って来る。
「鈴村騎手、大丈夫ですか?」
香織が演壇前で立ち止まっているために、係員が誘導しに来たのだろう。ただ、涙を流しながらターフビジョンを見つめる姿に、恐る恐る声をかけて来た。
「あ゛、ずぐ、行きます」
慌ててハンカチで涙を拭い、演壇へと上る香織。そこで漸く引退式が始まった。
「香織さん、大丈夫ですか?」
隣に立つ北川牧場の恵美子さんから声を掛けられた。
大丈夫かと問われれば、大丈夫では無いと答えるべきなのだろうか? 今の状態で美佳の問いかけにまともに答えられるか自信は無い。それでも、ハンカチで涙を拭い、小さく鼻をかむ。
「ベレディーの、映像を、見ていたら、何か込み上げて来ちゃって」
「そうよね。私達は無事に引退出来た安心感があるけど、香織さんにとってはお別れみたいなものだものね。うちの桜花はトッコが無事に引退できて、牧場に戻って来るのを大喜びしているから」
その言葉に、香織が壇上にいる人達を見ると、インタビューを受けている大南辺さんも、馬見調教師も、共に笑顔を浮かべている。勿論、隣の恵美子も同様だ。その事で、何かストンと心が落ち着いたような気がした。
「そうですね。無事にベレディーが引退出来た。おめでたい事なんですよね」
競走馬が、無事に怪我無く現役を終える。しかも、今までに類を見ない程の成績を残して。これ程に素晴らしい事は無い。競走馬は、サラブレットは、まさにガラス細工の芸術品だ。それ故に、誰もが笑顔を浮かべて引退式に臨んでいる。
「ええ、鈴村さん、今までトッコを大事にしてくれてありがとう。あの子が無事に引退出来たのも貴方の御蔭よ。本当にありがとうね」
「いえ、此方こそ。ベレディーには本当に、本当にお世話になりました。今の私が居るのも、全てはベレディーの御蔭なんです。ベレディーに出会えなければ今の私はありませんでした。恐らくは引退していたと思います。何せベレディーに会うまで、その年は1勝も出来ていませんでしたから。本当に、本当に、ベレディーに……」
気持ちを落ち着けたつもりの香織だったが、此処でまた涙が溢れ出してくる。そして、このタイミングで馬見調教師のインタビューを終えた美佳がやって来てしまった。
「あ~~~、えっと、ミナミベレディーの主戦を勤め上げ、GⅠ10勝の立役者でもある鈴村騎手にお話を聞かせていただきますぅ? って言うか、鈴村騎手、今大丈夫です?」
思いっきり涙を流している香織に対し、美佳はどうしようか? 後に回そうかと戸惑う様子を見せる。その様子に慌てて涙を拭い、軽く咳払いをして香織は答えた。
「あ、すいません。これでベレディーも引退かと思うと色々と込み上げてきてしまって」
香織の様子に大丈夫そうだと安堵しながら、美佳はそのままマイクを差し出しインタビューを続ける。
「まずは改めて、GⅠ10勝おめでとうございます。これで、2年連続の年度代表馬もまず確定ですね」
「ありがとうございます。GⅠ10勝も年度代表馬も嬉しいんですが、それ以上に無事に怪我無くベレディーが引退出来た事にホッとした気持ちが大きいです。勿論、引退で寂しい気持ちの方が大きいんですが、私も北川牧場へ会いに行けば会えますから、あ、会えますよね?」
そう言いながら恵美子へと視線を向けると、恵美子も笑顔で返してくれる。
「鈴村騎手、無事に会えるみたいですね。良かったですね! と、ここで率直にお尋ねしますが、引退せずに来年も走り続ければ、まだまだ記録を更新しそうですが。そこは残念に思いませんか?」
「そうですね。そう思う気持ちがまったく無いとは言いませんが、記録がというよりベレディーと一緒にもうレースを走れないと思った時の寂しさの方が強かったですね。調教とレースはやはり違いますから、何と言って良いか上手く言葉に出来ませんが、そうですね、喪失感? 違いますね。何って言って良いか判りませんが、一つの何かが終わったと言う? そんな感じです。判って貰えるかが微妙な感じですね」
自分の中に今ある気持ちを、中々に上手く言葉にする事が出来ない。必死に言葉を探すのだけれども、丁度良い言葉が浮かんでこないのだ。
考え込む香織に対し、美佳は苦笑を浮かべながらさらに言葉を紡いでいく。
「鈴村騎手にとって、ミナミベレディーはどんな存在でしたか?」
美佳からの思いもよらぬ質問に、キョトンとした表情を浮かべた香織は思うままに言葉にする。
「う~ん、そうですね。師匠であり、友人であり、時には姉の様に見える時も、妹の様に見える時もあります。出会えた事を考えれば運命? う~~~~ん。そんな感じでしょうか?」
ミナミベレディーは自分にとって? 香織はついついミナミベレディーへと視線を向けると、何故か、何時の間にかミナミベレディーの引綱を桜花ちゃんが持って歩かせている。
え? え? 何があったの? ベレディー、桜花ちゃんを見つけて突撃した?
今までのレースでも、今日の表彰式でも桜花ちゃんを見つけたらまっしぐらだったからなあ。本当に桜花ちゃんには敵わないなあ。最強のライバルはやっぱり桜花ちゃんだよね。
思わずそんな事を思って香織の表情が一瞬綻んだ。
「ただ、運命というには強力なライバルがいますけど」
思わず最後は笑いながら素で答える香織。
恐らくミナミベレディーの事を思い自然と浮かんだのであろう優しい笑顔を見て、運命の相手ですかあと思い美佳も思わず口元に笑みを浮かべる。そして、自然と香織の視線を辿った美佳も、ミナミベレディーと桜花の様子が目に入って来た。
「中々に強力なライバルさんですねぇ。今後の鈴村騎手の健闘を祈らせていただきますね。ありがとうございました。それでは、最後にミナミベレディーの生産牧場である北川牧場を代表して北川恵美子さんにお話を聞かせていただきます」
美佳の言葉に、香織は此処でも苦笑を浮かべるのだった。
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