トッコさんの引退式とその後

第246話 引退式前の桜川さんとトッコ

 最終レースと最終レースの表彰式も終わった中山競馬場では、ミナミベレディー引退式の準備が進められていた。まだ薄っすらと陽が残る中、観客達は引退式が始まるのを今か今かと待ちわびている。


「開始予定時間は16時半だったな」


 時計を見て時間を確認する桜川は、幸恵に抱き着くようにして眠っている娘と、椅子に座ってウトウトしている息子を見て思わず頬を緩める。


「どうやら寝てしまったようだね」


「結構はしゃいでいましたから」


 度々競馬場へと両親に連れて来られ、夏休みには北海道の牧場に遊びに行く事が定番となっている桜川家である。特に北海道の北川牧場ではミナミベレディーが子供好きなのか、柵越しではあるがフンフンと興味深そうに娘へと顔を寄せていた。


 当初はあまりに大きな馬に泣き出してしまった娘であったが、今はミナミベレディーの鼻先を撫でる事が出来るほどに懐いている。そんな子供達であるから、今日の競馬場行きも楽しみにしていたし、ポニーに騎乗出来た事も、ミナミベレディーの登場にも大喜びをしていた。


「嬉しそうにポニーに乗っていたからね」


「雲の絨毯でも楽しそうに遊んでいましたから」




 自身の持ち馬であるサクラヒヨリでは無くミナミベレディーの応援をする子供達に複雑な思いが無いではないが、それでも二人して顔を見合わせて笑い声を堪える。そんな二人の話し声に反応したのか、息子は顔を上げて此方へと顔を向けた。


「お父さん、もう始まった?」


「いや、まだだよ。寒くないか?」


「うん、大丈夫」


 馬主席と言っても室内ではない為、陽が落ちて来ると更に寒くなって来る。その為、子供達の為にひざ掛けなどを持参しているが、それでもやはり寒いだろう。


「トッコちゃんの引退だけど、ヒヨリも一緒に出るからね」


「桜花お姉ちゃんはあっちに居るんだよね。僕も行きたかったなあ」


「ヒヨリが一緒と言っても、ミナミベレディーの引退式だからね。この後の食事会には桜花さんも来るから楽しみにしていなさい」


「うん!」


 北川牧場に出入りしており桜花と仲良くしている子供達は、ミナミベレディーの事を普通にトッコと呼ぶ。これは、桜花の影響を多大に受けており、馬主である大南辺も笑いながら受け入れていた。


 今日の引退式終了後には、ミナミベレディーの関係者である大南辺夫妻、北川ファミリー、鈴村騎手、馬見調教師などの関係者が集まって食事会が予定されていた。当初は桜川ファミリーは呼ばれる予定は無かったのだが、ミナミベレディーの引退式にサクラヒヨリが一緒に参加する事も有り桜川ファミリーにも声が掛かっていたのだ。


「あら? 見て」


 ターフビジョンにミナミベレディーの姿が映し出され、『ミナミベレディー引退式』の文字がでかでかと映し出される。


「ついに始まるのか」


 スタンド前に設置された台の後ろでは、馬主である大南辺他のメンバーが集まってきているのが見える。


 来年はサクラヒヨリも引退式を執り行う予定である桜川としては、今回の引退式をぜひ参考にしたい。その為に真剣に引退式へと視線を注いでいるのだが、まず思った事はやはり寒いだった。


「スタンドの方が熱気が有るか?」


「どうかしら? 風があるからあちらの方が寒いと思うわよ?」


 妻の言葉にそれもそうかと思いながら、何故か自然と夜の引退式を止める理由探しをしている。


 そんな事を思って見ている中、誘導馬に続いて鈴村騎手が騎乗したミナミベレディーと、鷹騎手が騎乗したサクラヒヨリが本馬場へと入って来た。


「あ、トッコが入って来た! 里美、起きなよ! トッコの引退式だよ」


「ううう、眠い」


「ほら、トッコが画面に映ってるよ!」


「トッコ? あ、ほんとだ! トッコだ!」


 本馬場へと誘導されてきたミナミベレディーがターフビジョンに大きく映しだされている。そして、兄に起こされた妹はそのミナミベレディーの姿を見て漸く目を覚ました。


「お母さん、トッコだよ! トッコが映ってる!」


「ほんとね。里美、ほら、あそこにトッコちゃんが居るわよ」


 暗い本馬場の中をスポットライトで照らし出されるミナミベレディーが居る。


「……よく見えない」


「ふふふ、なら前のモニターを見ましょうか」


 そう言って妻と子供達はターフビジョンを見る。


「そうだなあ、スポットライトで照らされていても、やはり暗いな」


 ターフビジョンの映像では、誘導馬に先導され入場して来るミナミベレディーと、その後ろを素直について来るサクラヒヨリの姿が映し出されている。しかし、2頭の周囲を照らし出すにはスポットライトでは少々厳しい。


「夜の引退式は雰囲気があって良い気がしていたが、ヒヨリの時はやめようか」


「そうね、流石に寒くなって来たわね」


 桜川は妻の笑いを含んだ返事に思わず苦笑いをする。


「あら? 北川さんの所は奥さんに代わったのね」


「峰尾さんは表彰式に出れたから交代かな?」


 北川牧場の代表として峰尾が引き続き引退式にも登壇すると思っていた。ただ、目の前に設置されている台の後ろでは、北川牧場の恵美子が控えているのが見えた。


「そうね、恵美子さんもせっかく来たのですし」


 そう告げる妻を見ながら、桜川はふと思った疑問をぶつける。


「お前も表彰台に上がりたいか?」


「謹んでご辞退しますわ」


 この時の妻、幸恵の目は思いっきりマジだった。


◆◆◆


「ベレディー、遂に引退式だね。はあ、何か全然実感がわいてこないよ」


 私に騎乗した鈴村さんが、首をトントンと叩きながら声をかけてくる。私は、頭を上げて鈴村さんに尋ねました。


「ブヒヒヒヒン」(最後も勝てたし、もう馬肉は無いよね?)


 結構頑張ったと思うんですよね? 引退と聞いて私も今ひとつピンと来ないんですが、ここ最近はずっと表彰式に出てたので、勝てていたんだと思います。ただ、大きなレースとかじゃないと勝てていてもお肉街道の可能性はありますよね?


 よく考えたらお馬さんのレースだと、ダービーとかしか知らないんですよね。でも、私はダービーは走った事がないので、そう考える自分が走って来たレースのランクが良く判らないんです。


 でも、エリザベスさんとか、天皇賞とかで勝ってますから、名前的に凄いレースですよね?


 何と言ってもレースの名前の格が違いますよね! そう考えるとお肉街道は無くなったと思うのですが、いざ引退となっちゃうと心配になって来ます。何と言っても私は小心者ですからね。


「うんうん、もうちょっと待ってね。呼ばれたら本馬場に入るからね。ヒヨリもいるけど、併せ馬は無いからね」


「ブルルルン」(お外はもう真っ暗だもんね)


 この状態で走ったら、目の前に何かあっても気が付かないかな? 怪我しちゃったらせっかく無事に引退出来たのにってなっちゃいます。


「キュヒヒヒン」


「ブフフフン」(大丈夫ですよ~)


 私の後ろにいるヒヨリが嘶きます。普段と様子がちょっと違いますから、ヒヨリも神経質になっている感じかな?


「サクラヒヨリはちょっと神経質になっているかな?」


「ブヒヒヒヒン」(私に怒られたばかりですから~)


「キュフフン」


 ヒヨリの鞍上にいる騎手さんが、ヒヨリの様子を気にかけています。


 さっきレースが終わってから私に怒られていますからね。ハムハムで誤魔化して、馬運車では私はさっさと寝ちゃう事が多いので安心していたのだと思います。それなのに、まだ何かあって私と一緒なので焦っているのでしょうか?


「ミナミベレディーは面白いね。まるでお互いに会話しているみたいだね」


「ええ、声の感じで色々と察しているみたいな所もあります。本当に賢いですね」


 鈴村さんが首をポンポンしながら相手の騎手さんに答えます。


「ブルルルン」(言葉は判っているんですよ?)


 うん、鈴村さん達が話している言葉が、私の妄想とかじゃない限り理解出来ているんです。その代わりと言っては何ですが、ヒヨリ達の言葉は判らないんですけどね。


「うんうん、そろそろだから待ってね」


「ブヒヒヒン」(お腹が空いたの~)


「面白い馬だね。う~ん、一度で良いからレースで騎乗してみたかったな」


 何やらヒヨリに騎乗している騎手さんが言ってますが、私としては鈴村さんで良かったかな? 他の騎手さんでレースを走った事が無いので、何となくですけどね。


「ベレディーに最後まで騎乗出来た事に感謝です。本当に運が良かった。でも、鷹騎手だってタンポポチャが居ましたよね?」


 何やら鈴村さん達が会話を続けていますが、そっか、私も運が良かったのかな?


 でも、そんな会話も気にならなくは無いですが、何時もならレース後に貰える氷砂糖が貰えてませんね。夕ご飯もまだですし、お腹が空いて来ちゃいました。


「大丈夫だよ。暗いけど心配ないからね」


「ブルルルン」(違うの~、お腹空いたの~)


 物語とかの様にこういう所でお腹がグーグー鳴って欲しいのですが、残念ながら鳴りません。式が終わるまでご飯はお預けっぽいので悲しいです。


 あ、でも、今なら併せ馬も出来るかな? タンポポチャさんと走った時はお腹がいっぱいで走れなかったんですよね。


 そう思って脚を上げ下げしてみますが、レース後で何か怠いので走るのはやっぱり無しにしましょう。


「キュフフフフン」


 うん、ヒヨリも走りたくないって言ってますからね。

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