第238話 有馬記念 中編

 香織は、待機所でミナミベレディーをゆっくりと歩かせながら状態を確認していた。いつも以上に観客が多く、パドックでも若干異様と言ってもよい熱気が漂っていた。それによって何頭かの馬達が入れ込む様な挙動を見せ、更にこの馬だまりでも同じような様子を見せていたが、幸いにもミナミベレディーは普段通りに特に入れ込む様子もなく逆に周囲の馬達を眺める余裕が感じられた。


「ベレディー、一緒に走るレースは最後だからね。頑張ろうね」


 今日のレースがミナミベレディーへ騎乗出来る最後となる。その思いが知らず知らずに溢れてくる。まだレースが始まってすらいない段階で、香織は早くも涙が溢れて来そうになった。


「ブルルルン」(鈴村さん大丈夫?)


 香織の声に反応したミナミベレディーが、香織を気にした様子で振り返る。


「ごめん、大丈夫だよ。しっかり走ろうね」


 ミナミベレディーの首をトントンと叩きながら自分の気持ちを宥めていく。


 うん、これがベレディーとの最後のレースだから、出来る限りの最高のレースを。


 香織は、自分自身の今の状態を振り返る。


 うん、大丈夫。入れ込んでない。焦っていない。ちょっと緊張はしているけど、何時もこんなもの。


 自分の心臓がドッドッドッドと速いペースで鼓動しているのが判る。そのリズムを感じながら、ゆっくりとミナミベレディーの馬首をゲートの方へと向けた。そして、他の馬の最後尾からゲートへ向けミナミベレディーを歩ませる。


「ふふふ、ヒヨリやプリンセスフラウだけじゃなく、他の馬もベレディーを気にしているみたいだね」


 最後尾であるが故に、前の馬達の動きが良く判る。そんな中、サクラヒヨリを含め、何頭かの馬が時々ミナミベレディーへと視線を向けるのが判った。


「ブルルルルルン」(レース前の他のお馬さん魅了作戦成功?)


「視線が気になる……感じではないかな?」


「ブヒヒヒン」(ヒヨリとフラウさんを見てるの)


 ミナミベレディーの様子を窺う香織だが、かつてあった様な周りからの視線を気にしたような気が立った感じは無い。


 うん、良い感じだね。


 タンポポチャと競い合っていた3歳の頃は、ミナミベレディーも多少なりとも入れ込む様な所があった。それも4歳が過ぎ、5歳となって落ち着いた貫禄のような物を感じさせるようになった。


 遠くでファンファーレの音が響き渡り、馬溜まりに迄歓声が響いて来た。そして、1番から順次ゲートへと誘導が始まる。


「ベレディー、ゲート入りしたら直ぐにスタートになるからね。出遅れないようにしようね」


「ブルルルルン」(係りのおじさんがゲート潜って出たらすぐだよね)


 順調にゲート入りが進み、最後にミナミベレディーがゲートへと誘導される。


 香織が軽く指示をすると、ミナミベレディーは素直に自分からゲートへと入って行く。そして、ベレディーを誘導していた係員がゲートを潜り抜け一拍ほどした後、ゲートは勢いよく開いた。


ガシャン!


 その音と共にミナミベレディーは綺麗にスタートをする。


「よし! いいスタートだよ!」


 香織はこのままミナミベレディーを前へと追い出し、前寄りでレースを展開する予定であった。しかし、スタート自体は悪くなかったミナミベレディーだが、そこからの加速に何時も程の勢いが無い。


 やっぱりスタート前の溜めが弱かったかあ。


 ミナミベレディーはスタート巧者である。しかし、そのスタート及びスタート後の加速の原動力となっているのはゲート内でグッと身を沈めての溜めだった。調教で幾度か練習させてみたのだが、普段のようにグッと身を沈めてスタートを行うには若干時間が足りない事が判っていた。


 その為、幾度もスタートの練習を行い、ある程度は改善して来ていたのだが、やはり溜めが若干少なくスタートでの加速がつくのに時間が掛かる。


「ベレディー、焦らなくて良いからね」


 スタート後の緩やかなカーブを経て、4コーナーへと入って行く。此処までに幾らか内へと付けたい所ではあるが、内にいる12番サウテンサンが壁になって思うように内に入れない。


 その中で、2番サクラヒヨリと8番プリンセスフラウが好スタートを切り先頭を争う。その2頭を先頭に緩やかなカーブを経て馬群は次第に縦長になる。


 最初の4コーナー出口へと向かう所で、馬群はまた若干横に広い状態で突入していく。


「うんうん、良い感じだよ」


 外側を回る為に距離的な不利ではあるが、ミナミベレディーは全体的に外寄りの7番手付近に位置取りながら正面直線へと入った。先頭ではプリンセスフラウ、すぐ横にサクラヒヨリが、その後ろにはサウテンサンが並びながら走っている。


 予想通りといえば予想通りかな。問題は、此処から予定通りのレースが出来るかだね。


「ベレディー、正面の坂をピッチ走法で駆け上がるよ」


 耳をピコピコさせてミナミベレディーが反応する。


 いまだ内に2頭の馬がいる。最初の直線に入った所で外に膨らみ前方を遮る馬はいない。そして得意な坂を利用して速度を維持し、前を走るサウテンサンへと追い付きたい所だった。


◆◆◆


 ゲートに入ってグッとしたらゲートが開いちゃいました。鈴村さんが、最後にゲートに入るからスタート準備する時間がって言ってたけど、何か慌ただしかったですね。スタート自体は綺麗に出来たんですけど横とかにお馬さんが居て、ぶつかるのが怖くて内側に入れません。


「ベレディー、焦らなくて良いからね」


 鞍上の鈴村さんがそう言うので、耳をピコピコさせてお返事しました。でも、お隣だけじゃ無く後ろから来るお馬さんもいるので、何か何時もと勝手が違いますよ。


 スタートから緩やかなカーブを走って、最初の直線に差し掛かります。すると、お馬さん達が窮屈そうに縮まって来ました。私はちょっと外側から直線に入ったんですが、そのせいかな? 前に結構な数のお馬さんがいます。


「ベレディー、正面の坂をピッチ走法で駆け上がるよ」


 鈴村さんの指示が来ますけど、一番前を走っているのはヒヨリとフラウさんかな? 出来ればヒヨリの後ろくらいに行きたいんですが、私の直ぐ内側にお馬さんが居るので、まだ内側に入れません。


 スタンド前を通過していると歓声が凄いです! ウワ~~っていう大きな歓声が響き渡って、何かワクワクしてきました。


「ピッチ走法!」


 歓声の大きさに吃驚している間に、気が付くと坂が目の前に来ていました。ここで鈴村さんの指示でピッチ走法へと切り替えます。


「うん! 頑張って此処で前に出るよ!」


 小刻みにピッチ走法で駆け上がっていると、何とか横のお馬さん達を突き放してヒヨリ達の後ろを走るお馬さんに並びかける事が出来ました。


「ストライド走法!」


 坂を駆け上がった所で走り方を元に戻します。後ろから見ていると、騎乗している騎手の人が変わってもヒヨリはちゃんと坂では小刻みに走っていますね。


 そして、内側に1頭入れた状態で私はコーナーへと入って行きます。ただ、外側なので気分的には少し楽ですね。代わりに内に居るお馬さんにプレッシャーを掛けてあげましょう。


「うん、良い感じだね。向こう正面で息を入れるからね」


 カーブで前を走るヒヨリが私に気が付いたみたいですね。一瞬視線が飛んできたのが判りました。外にいるフラウさんは気が付いていないかな? ただ、ヒヨリとフラウさんが競っているので何となく走るペースが速い様な気がします。


「ハイペースだね。向こう正面でしっかり息を入れないと」


 鞍上の鈴村さんも私と同じように感じているみたいです。ただ、前を走るヒヨリを見ていると、私よりもフラウさんを意識しているみたいなんですよね。並走したままだと我慢比べしちゃいそうです。


 2コーナーから向こう正面の直線に入る所で、私の内側に居たお馬さんが少し後ろへと下がりました。たぶんですが、変に速度を上げるとぶつかりそうなのと、向こう正面で息を入れさせる為でしょうか? 私達の後ろのお馬さんとは見た感じ1馬身以上離れています。


「息を入れるよ」


 向こう正面で軽く手綱を引かれ、私は速度を緩めます。前を走るヒヨリとフラウさんはまだ速度を落としませんね。どちらの騎手さんも手綱を引いているんですが、2頭は競り合ったままです。


「ヒヨリ掛かっちゃった? プリンセスフラウだからかなあ」


 ん? あ、そういえばフラウさんに負けた事があるんでしたっけ? ヒヨリは真面目ですから気にしているのかな? でも、走り通しは駄目ですよ? 思いっきり疲れちゃいますよ?


 困りましたね。ヒヨリにどうやって息を入れさせれば良いのでしょう? リラックスさせる為にわざとスキップしてあげても、私はヒヨリの真後ろですから見えないですよね?


 仕方が無いのでしっかりと轡を噛み締め、ヒヨリの前に出る事にしました。こんな所で無理をして、怪我をしちゃったらどうするのでしょうか。


 グッと轡を噛み締めて、一気に速度を上げます。早めに前に出ないと、それこそ息を入れる事が出来なくなります。


「ちょっと! ベレディーどうしたの!」


 鈴村さんが慌てて手綱を引きます。ただ、私はそれでも加速してヒヨリ達に追いすがりました。


「ベレディー! ここで息を入れないとだよ!」


 鞍上で鈴村さんが大きな声で私に指示を出します。でもですね、ヒヨリを止めないと駄目なんですよ?


 鈴村さんの指示に逆らいながら、フラウさんの外側から先頭に出る為に頑張って脚を早めました。

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