第234話 十勝川と森宮ファームと恵美子さん

 十勝川は先日行われたトカチドーターのレース映像を確認し、小さく溜息を吐いた。レース結果に対しては全く不満は無い。トカチドーターは無事に新馬戦を勝ち、未勝利での引退を逃れた事に安堵するのだが、それ以上にレースでの走りに注目していたのだ。


「まだまだ不器用だけど、やはりピッチ走法とストライド走法を切り替えているわね」


 秘書の杉本も共に映像を確認しており、その杉本から見てもトカチドーターの走りが変わっているのが判る。


「そうですね。ミナミベレディーの音源も使ってくれているようですし、御蔭で落ち着いてレースが出来たみたいです。レース前も気合十分って感じでしたね」


 自身の所有馬であり、色々な意味で期待の1頭だけにこの勝ちは素直に嬉しい。そして、この先のレースへと期待は受け継がれていく。


「レース後はやはりコズミが出たみたいですけどね。まだまだ本格化するまでに時間は掛かりそうね」


 馬見調教師の話では、桜花賞出走は厳しいだろうとの事だった。この後の成長次第だが、それでも3歳牝馬GⅠレースへ出走出来るかと言えば、中々に厳しい様だ。その為、十勝川としても次走を含めてどこに出走させるかが悩ましい。


「ミナミベレディーの放牧に合わせてトカチドーターも放牧に出すわ。ここで焦ってもメリットは少ないわよね。ともかく、願っていた通りに器用に走り方を変えてくれそうだから、これだけでも収穫は大きいわ。それに北川牧場も工事は終わったのでしょ?」


 十勝川としては、出来ればGⅢで良いので重賞を勝って欲しい所ではある。しかし、それも含め此れからの成長次第という所で、先行馬としては期待できなさそうな為に、現実は厳しいかもしれないと思っていた。


 最も、ミナミベレディーによって良い方向で期待が裏切られる事も期待している。


「北川牧場も秋から冬にかけて色々と工事をされていましたが、無事に一段落されたようですよ」


 杉本の言葉に、十勝川も工事内容が書かれた報告書を見ながら頷く。


「ミナミベレディーの産駒に期待するのは誰もが同じですから。大南辺さんも頑張ったわね。もっとも、ミナミベレディーが稼いでくれた賞金を考えればですけどね」


 そう言って十勝川は明細を見ながら笑う。杉本も同様に苦笑を浮かべる。


「幼駒の初期施設としては、及第点といった設備は揃いましたね」


「そうね。でも、出来ればトカチファームでミナミベレディーを預かってみたかったわね。後は提携内容で少しずつ北川牧場にテコ入れするしか無いわね」


 そう言ってコロコロと笑う十勝川だが、まずは初年度の種付けをどの馬で行うのかが気になる所である。


「タンポポチャと仲が良いですからね。タンポポチャの半兄で、リバースコンタクトはどうかと言われてるようですね。タンポポチャに似ていれば受け入れてくれるんじゃないかと考えているようです」


「リバースコンタクト? 確か皐月賞とダービーの2冠馬だったわね。適距離的にはどうなのかしら? マイルの方が良い気もするわね」


 牡馬でGⅠ勝利を期待しているような種付けに思う。その気持ちも判らなくはないが、十勝川であればやはり芝1600mから2000mでの実績馬にしたい所だ。


「タンポポチャに似た馬という点のみでの候補だそうです。もっとも、お見合いさせて相性を見るそうですが。事故でも起きたら目も当てられませんし」


「そうねぇ、ミナミベレディーは確かに牡馬には当たりがキツイわね」


 杉本の言葉に、十勝川も納得する。


「トカチマジックも候補に入っているようですよ。何と言っても幾度とレースで共にしていますし、先日のジャパンカップでもミナミベレディーがトカチマジックを気にかけてたような素振りがありました」


 そして、十勝川と杉本の二人はジャパンカップの映像を見直す。


「そうねえ、チラリとトカチマジックを見ているわね。でも、何方かというと後から来た馬を確認しただけじゃないかしら?」


「まあ、ハムハムはしてくれそうに無いですね」


 二人が見つめる先では、ミナミベレディーがプリンセスフラウへと近づいて来るところで映像は終わる。その後を知っている故に十勝川は苦笑をうかべた。


「ミナミベレディーは牝馬には慕われているわね」


「牡馬を威嚇する事はなくなりましたから、そこは好条件ですね」


 その言葉に素直に頷きながら、どうせなら最後はトカチマジックに勝って欲しいわねと思う十勝川だった。


◆◆◆


 森宮ファームでは、タンポポチャの初の妊娠という事で常に気を配っていた。そのタンポポチャも、特に問題無く無事に妊娠初期から中期に入り、間もなく後期へと差し掛かろうとしている。その為、森宮ファームの面々は誰もが笑顔を浮かべていた。


「此の侭、無事に出産までこぎつけてくれればですね」


「そうだな。エコー検査でも順調に成長している事が確認されている。それに何と言っても牡馬だからな。是非期待したいな」


 牧場長の嬉しそうな声に、厩務員達も同様に頷く。


 森宮ファームとしては、やはり此処で柱となる種牡馬の誕生が望まれている。近年、海外のセールで種牡馬を購入しているが、中々に期待通りの良い実績に繋がっていない。もっとも、その結果が出るまでには年単位で時間のかかる事であり、牡馬最後の産駒、ラストクロップで結果が出たなどと言った事も有り得るのだ。


「ミナミベレディーなどが良い例だな。カミカゼムテキの種付け産駒で、まさか最後の3世代で爆発するとは誰も思っていなかっただろうな。まあ、あれはカミカゼムテキがというよりサクラハキレイが優秀だったっぽいが」


 そう考えると、やはり優秀な牝馬を揃えたい所ではある。


「そのミナミベレディーももう引退か。どんな仔を産むのだろうな」


 牧場長としては、最後のレースとなる有馬記念の結果よりも、引退後繁殖牝馬としての今後が気になる。自牧場で管理しているタンポポチャの産駒もそうだが、やはり優秀な牝馬の登場はどうしても血統や産駒の結果に注目してしまう。


「チューブキングの関係者やファンも注視しているみたいですよ。出来ればミナミベレディーかサクラヒヨリの何方かが欲しい所でしょうね。まあ、十勝川さんの所がせっせと動いているみたいですが」


「そうだな。まあ、最初の数年は毎年種牡馬は変えるだろう。結果が出せそうな相性の良い馬が判るまでが大変だからな。それでもサクラハキレイは繁殖牝馬を引退するまでほぼ毎年種付け出来ていたんだ。そう考えれば丈夫な馬だったんだろうな」


 馬にとっても当たり前に出産は負担が大きい。その為、晩年は隔年での受胎という方法が取られる事が多い。それに対し、サクラハキレイは晩年であっても3年間に渡ってGⅠ馬を出産した。牧場長としてはその事の方が驚きであった。


「北川牧場の経営的な問題もあったかもしれませんね。売れる産駒が居るのと居ないのとでは、下手すると牧場の存続に関わりますよ」


「そうだな。確か10頭も居なかったな? そう考えれば苦渋の決断か」


「ミナミベレディーが活躍し始めて直ぐに引退しましたから、そう言う事だったんじゃないですかね? 凄い功労馬ですね」


 厩務員であったとしても、牧場を運営するスタッフであるが故にその苦労はある程度想像がつく。もし、自厩舎の産駒が大きく頭数を減らしてしまえば倒産だってありえるのだ。


「北川牧場もしばらくは安泰だな。まあ、無事に産駒が生まれればだが」


 すべての事は馬次第。人工授精が禁止されている競馬界だけに、ちゃんと受胎出来るか、出来ても無事に生まれるか、生まれて来た産駒が活躍できるか。何時まで経っても安心できないのが生産牧場というものである。


 それ故に、牧場長としては柱となる種牡馬が欲しいと思ってしまうのだった。


◆◆◆


 工事が完了し馬達が放牧されている放牧地を眺めながら、恵美子は白い息を吐く。既に雪が薄っすらと積り、その中をどの馬達も自分と同じ様に白い息を出しながら、それでものんびりとしている。


 そんな馬の中でもやはり恵美子の視線が向かうのは、サクラハキレイだった。今日も朝には新しく出来たウォーキングマシンで軽い運動を行っている。まだまだ元気な様子を見せてくれてはいるが、いつ別れが来てもおかしくは無い年齢になっている。


「キレイ、キレイ」


 恵美子が声を掛けると、雪の下の草を探していた頭を上げこちらへとゆっくりと駆けて来る。


「調子はどう?」


 柵から頭を出してくるサクラハキレイにカットしたリンゴを与えると、尻尾を揺らしながらモグモグと食べ始める。


 そんなサクラハキレイの鼻先を優しく撫でながら、恵美子は優しく話しかける。


「キレイ、本当にありがとうね。貴方の御蔭でまだまだ牧場は頑張れそうだわ」


「キュフフフン」


 リンゴを食べ終えたサクラハキレイは、鼻をヒクヒクさせて恵美子が持つリンゴの欠片を催促した。その為、恵美子はクスクスと笑いながら手の持つリンゴを差し出す。


「貴方も、お婆ちゃんになったわね。でも、まだまだ頑張って生きてね」


 自分が北川牧場に嫁いできて、訳も判らず牧場の仕事に追われ、漸く慣れて来た頃にサクラハキレイは生まれた。父にチューブキングを持つが故に、それこそ北川牧場の期待の一頭であったのだ。

 北川牧場としては、中々にお高い種付け料を払って産まれた子であり、それ故にGⅢを勝利した時は恵美子も嬉し涙が零れた。


「あれでまだ牧場は大丈夫と思えたのよね。本当にありがとうね」


 期待の牝馬であったが故に引退後は北川牧場へと戻って来た。ミナミベレディーと同様に、馬主との契約でそうなっていたのだ。そして、繁殖牝馬に転向後も安定して良い仔馬を産み続けてくれた。


「でも、トッコ達は想定外だったわね」


「キュヒヒン」


 リンゴの最後の欠片を貰ったサクラハキレイは、しばらくは恵美子に大人しく撫でられていた。そして、もう何も貰えそうにないと思ったのか、踵を返して放牧地へと戻って行ってしまった。


「あらあら、トッコの名前を出したから拗ねちゃったのかしら? でも、何でトッコを苦手にしているのか判らないわね?」


 幼駒の頃は仲良く一緒にいた二頭だが、ミナミベレディーが成長してからは何故かサクラハキレイがトッコを避ける傾向にあった。


「父親に似ているからなんて無いわよね?」


 そもそも、父親に会った事すらないサクラハキレイである。それ故に有り得ない話なのだが、ただ何となく峰尾と桜花の事が頭に浮かびそんな事を思う恵美子であった。

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