トッコさんと有馬記念
第231話 北川牧場と大南辺
12月に入り、北海道は既に雪景色に彩られ始めている。そんな北海道にある北川牧場では、ここしばらく続いていた牧場工事も一段落し峰尾と恵美子が事務所のストーブの前で一息ついていた。
「はあ、何とか間に合ったな。雪で工事が中断する事も覚悟していたが、今年は雪が降るのが遅くて助かった」
「そうね、工事が春に延期になんてなってたら困ったわね」
口で言うほど困った様子が無い恵美子であるが、それも工事が無事に終わったからであろう。
北川牧場では、大南辺と桜川からの寄贈という形でウォーキングマシンを含め新たな設備が増えていた。ウォーキングマシンなどは、繁殖牝馬になったミナミベレディーが、冬場や出産間近に運動する事を考えての設備だった。
「今後の管理が大変だな。雪下ろしなども必要になるからな」
「牧草地も増えましたし、荒れ地になっていた場所も整備出来ましたから、数年前が嘘の様ですね」
僅か10年程前の出来事だ。不受胎、死産などで肝心の幼駒頭数が減り、北川牧場の経営としてはカツカツの状態が続いていた。それこそ、競走馬の生産のみでは年々厳しさが増していたのだ。
それ故に乳牛の頭数を増やし、その加工品を販売し収入の安定化を図って来ていた。幸いにして生キャラメルなどが国内でブームとなり、更にはバターの品不足などによって安定的な供給先が見つけられた。そのお陰で細々とだが競走馬の生産牧場を続ける事が出来ていたのだ。
「あの頃は、桜花の判断次第では牧場を手放す事も考えていましたね」
「そうだな。まさか桜花が牧場を継ぐと言うとは思ってもいなかったしな」
桜花は、両親の苦労を小さい時から見続けていた。1年を通して休みなど勿論無い。朝も早く起きて馬や牛の世話に追われる。そして、その労働に対し得られる収入はといえば、決して多くは無い。動物達の飼料、予防接種などの医療費、設備の維持費などであっという間に消えて行くのだ。
「親父たちが生きていた頃は、何とか身内だけで廻せたからな。俺が一人っ子だから兄弟で助け合うとかも出来なかったしな」
「そうですね。でも、身内が居れば居るで苦労したと思いますよ? それに、貴方に兄弟がいたら結婚を躊躇ったかもしれませんね」
くすくすと笑いながらそう答える恵美子に対し、思いもよらぬ回答で峰尾は口をぽか~んと開けていた。その表情をチラリと見詰め、恵美子は更にクスクスと笑い続ける。
恵美子の発言が、本気だったのか、冗談だったのか、ただ追及するには怖い話題であった為に峰尾は慌てて話題を変える。
「ゆ、雪があまり積もらないといいな」
「そうですね」
外を見ると、今も雪が降り続いている。降り積もる雪を見ながら、恵美子は今この牧場を手放せば幾らくらいになるのだろうかと考えてしまう。トッコのみならずサクラヒヨリやサクラフィナーレが将来帰ってくることが決まっている。その事もあって、自分が今まで考えた事も無い金額になるのかもしれない。
牧場を手放して、安定した生活を送る。そんな自分達を夢想する。
大丈夫だろうか? 潰れないだろうか? 資金繰りは何とかなるだろうか? 種付けはこの馬で良いだろうか? 受胎出来るだろうか? 無事に仔馬は生まれるだろうか? 仔馬は幾らくらいで売れるだろうか?
常に様々な心配を抱えながら頑張って来た。そして、この先も牧場経営を続ける限り心配の種は尽きない。
トッコ達の子供が走らなかったら? トッコ達が何かしらの原因で死んでしまったら? 桜花にも同じ苦しみを与えて良いの? 今の状況が恵まれているだけに、恵美子は常に不安を抱えていた。
でも、駄目ね。自分の横でのんびりとお茶を啜る峰尾を見ながらも、恵美子は桜花の事を考える。
夫の、そして北川牧場の血を桜花からは強く感じる。常にポジティブで、挫けても直ぐに立ち直る。そして、更に夢を追いかけて行く。馬達を愛し、競馬を愛し、馬が勝てば熱狂し、負ければ落ち込む。
「本当に困った血統ね」
馬だけのブラッドスポーツではなく、馬を生産する者達もやはり血統なのかもしれない。北川牧場のように外の血を入れながらも、その子である桜花には、やはり強くその血を感じさせた。
窓から見える景色の向こうで、放牧地に放たれた馬達の姿が小さく見える。
雪が降り積もれば、馬を如何に運動させるかが重要になって来る。馬の運動量は重要であり、その為のウォーキングマシンだ。大南辺としても、まだ生まれてもいないミナミベレディー産駒への思い入れ、意気込みが凄い。
「有馬記念は家族みんなで行きましょうね。トッコの最後のレースですから。貴方も、せめて最後の表彰式には出てね?」
「う、が、頑張る」
まるで桜花と同じ様な返事に、恵美子は又もやクスクスと笑い出すのだった。
◆◆◆
大南辺は、自宅の部屋で壁に飾られている幾つものミナミベレディーの写真を見つめていた。
一際大きく飾られた写真には、桜花賞の優勝レイを身につけたミナミベレディーと、引綱を手にする自分と妻、そして馬見調教師など関係者達が満面の笑みを浮かべている。
「もう引退か」
早い様な、長かったような、そんな6年間だった。
大南辺夫妻には残念ながら子供がいない。その為か、お互い自由に趣味に生きて来た。そんな大南辺がもっとも愛したのが競馬だった。
幼い頃に両親に連れられて行った競馬場。眼前に広がる緑一面のターフに感動し、そこを駆け抜ける馬達の姿に圧倒された。その後、成人して馬主資格を取った大南辺は、ミナミベレディーを購入するまでに通算して4頭の馬を所有する。
「最初のミナミベキングは1勝も出来なくて終わったんだったな」
壁の隅に飾られている小さな写真、そこには自分が初めて購入した馬の写真が飾ってある。
その馬は、思い入れのあるGⅠ馬の子供であったが、登録は出来たのだが結局は1勝も出来ずに引退する事となった。そして、その後に購入した馬達も、1勝はしたもののオープン馬どころか2勝する馬すらいなかった。
大南辺が所有している馬は、自分にとって思い入れがある馬の血統ばかりだった。仔馬を見て、その血統表に思い入れのあるGⅠ馬の名前を見るとついつい購入しようかと食指が動いてしまう。
そのせいで妻からは所有する競走馬の上限頭数を決められており、それは今も変わっていない。
「来年から寂しくなるな」
ミナミベレディーが引退しても、まだ所有している馬はいる。それでも、今の自分は重賞を、そして憧れのGⅠを勝つ事を知ってしまった。とてもではないが、以前のような自分には戻れないだろう。
それ故に、期待は、思いは、ミナミベレディーの産駒に注がれていく。
「産駒が生まれるのは、早くて再来年になりそうだからなあ。もう1頭サクラハキレイ産駒を買っておけば良かったかな」
そう思いはするものの、今後ミナミベレディーの産駒を買う事を考えると、どうしても二の足を踏んでしまうのだ。
「上限頭数上げてくれんかなあ」
ミナミベレディーで思わぬ収入を得たが、金額を知った妻によって、それは別枠で管理されている。その為、当たり前だが無暗に使うことは出来ないし、大南辺としてはミナミベレディーの、サクラハキレイの、ひいてはチューブキングの血統を繋げる為に使うつもりだった。
桜花賞から始まり、エリザベス女王杯、春の天皇賞、宝塚記念、秋の天皇賞、そして有馬記念。一つ一つの写真を眺めて行く。それぞれの写真で、胸に込み上げてくるものがあり、知らず知らずに涙が流れていた。
「ちょっと、また泣いているの?」
ドアを開け部屋に入って来た道子が、そんな大南辺に呆れたように声を掛ける。慌ててハンカチを取り出して涙を拭きながら大南辺は振り返って笑顔を浮かべる。
「夢を思い出していた。この写真の一つ一つが俺の夢だよ。叶った夢、叶わなかった夢、ただこの数年は夢の世界にいるようだった」
「あら、まだ最後のレースがあるんでしょ? それに、貴方がよく言っていたじゃない。競走馬は引退した先にも夢が繋がっているって」
道子からそんな言葉が返って来るとは思っても居なかった。それ故に、大南辺は満面の笑みを浮かべる。
「そうだな、夢はまだ繋がって行くんだったな。道子、ありがとう」
「な、なによ、別に貴方がいつも言っている事でしょ?」
道子は顔を真っ赤にして大南辺に返事を返すのだった。
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