第226話 ジャパンカップ 前編

『雲一つない青空が広がり、冬の到来を感じさせる冷たい風が吹く此処東京競馬場は、気温とは真逆の熱気に包まれております。


 只今の時間は12時を回った所。この後15時40分出走が予定されております第※※回ジャパンカップを一目見ようと、既に19万人近い競馬ファンが詰めかけております。


 ファンの注目は何と言っても圧倒的な1番人気ミナミベレディー。


 ここジャパンカップでGⅠ9勝目を挙げる事が出来るのかに尽きると言えましょう。最多勝利数に並ぶと共に、単独最多勝利数へ繋がる重要な一戦。特に今年一杯で引退を表明しているミナミベレディーを見る事が出来るのは、このジャパンカップと有馬記念の残り2レース。


 女帝の名を、姿を、自身の目に焼き付けようと正に競馬ファン達が集まって来ています。そして、海外から打倒女帝を掲げ、シーマクラシックの借りを返さんと参戦するペルシアンカーテンを筆頭に、昨年のBCターフ2着馬リラレディ、一昨年のパリ賞を勝利したベーグルショコラが参戦。


 国内においては先日の天皇賞秋を勝利した……』


 競馬専用チャンネルでは、早くもジャパンカップへ向け実況が始まっている。その実況を聞きながら、恵美子は何とも言えない思いでテレビに映し出されるミナミベレディーの姿を見ていた。


「凄い馬になっちゃったわねぇ」


「そうだなあ。まあ、御蔭で色々と大変だったな」


 昼食を食べながらテレビを見ていた峰尾も、箸を止めてテレビへと視線を送る。


 引退後に、ミナミベレディーが北川牧場へと戻って来る。その為、現在牧場では馬房の改築工事や放牧場の柵の入れ替えなど、幾つかの工事が行われていた。


「トッコ、ヒヨリ、フィナちゃんだけでも凄いのに、プリミカちゃんも頑張ってくれているから。みんな良い子よね」


「トッコが生まれるのがもう少し早ければ、もう少し楽だったかな?」


 幾度も繰り返された話だった。ただ、それならそれで大変だったかもしれない。


「トッコが生まれた時は色々と大変だったわね。まず立ち上がるのに時間が掛かって、歩き方も何か変で、トットコトットコ歩くからみんなでトッコって言い始めたのよね」


 そう言って思わず笑い声が零れる。


 今はもう笑い話に出来るが、当時は無事に買い手がつくのだろうかと心配になったのを覚えている。トッコの生まれる前の年も中々に厳しい年であっただけに、特に期待していたキレイの産駒がこれで大丈夫かと思ったのだ。


「その後の検査で骨や関節に異常などは無かった事で安心したんだが、走り方が問題で中々売れなかったからなあ」


「今だから言いますけど、桜川さんが買ってくれなかったのにはちょっと恨めしく思ったわね。トッコが桜花賞を勝った時も、桜川さんが悔しがるのを見て思わず胸がスカッとしましたわ」


 コロコロと笑う恵美子だが、そんな恵美子を見て峰尾は思わず黙り込んでしまった。まさか恵美子がそんな事を思っていたとは峰尾は欠片も気が付いていなかったのだ。


「桜花も大学生になりましたし、乳牛の数も増えましたでしょ? 何とかあの子にこの牧場を無事に引き渡す事が出来そうですし、ほんとトッコにも、キレイにもどれだけ感謝してもし足りないくらい」


「あとはトッコの子供達が走ってくれれば万々歳だな」


「まあ、そう簡単ではないと思いますけどね」


 そう言うと、恵美子は食べ終わった食器を手に、台所へと向かうのだった。


◆◆◆


 パドックを回るミナミベレディーを見ながら、大南辺は今更ながらにミナミベレディーの出走するレースが残り2レースになってしまった事を実感していた。


「今日も調子が良さそうだな」


 パドックでミナミベレディーは周囲の馬へ視線を向ける余裕を見せながら、入れ込む様子を欠片も見せずに軽快な足取りで進んで行く。


「トッコー、頑張ってね~」


「トッコちゃん、がんばって~」


 パドック周りの柵に掲げられたミナミベレディー頑張れの複数の横断幕。その横断幕の一つに桜花と未来の姿があった。


「ブヒヒヒン」(桜花ちゃんだ~)


 呼び掛けに対し、ミナミベレディーは明らかに桜花へと顔を向け尻尾をファサファサさせて嘶く。その様子に周辺の競馬ファンからも笑い声があがる。


 恐らく来て早々に横断幕の許可を取りに行っていたのであろう。その為、まだ大南辺とは顔を合わせていない。大南辺は挨拶をする為に、桜花のいる場所へと移動を始めた。


「あれ、北川桜花さんだよな? ってことはミナミベレディーの勝ち確定?」


「まあ、絶対ではないけど、可能性は高い」


「あ、桜花ちゃんだ。レースの時は何処に居るのかな? 桜花ちゃんの応援見てみたい」


「う~ん、最低でも指定席は取ってると思うから無理?」


「え? え? あの子誰? 有名人?」


「ほら、ミナミベレディーの生まれた牧場の子」


 周辺で一気に桜花の話題が広がって行く。その様子に思わず大南辺の顔には苦笑が浮かぶ。


 ミナミベレディーの馬主である自分より絶対に有名だよなあ。まあ、こんなおっさんよりは注目されるか。


 特にネットなどで動画を検索したりする事の無い大南辺は、ミナミベレディーを応援する桜花の姿が競馬ファンの中でバズっているとは思いもしていなかった。


「とま~~れ~~」


 桜花に声を掛ける所で、パドックでは止まれの合図がかかる。思わずパドックへと視線を向けると、騎手達が自身の騎乗する馬達に駆け寄って行く姿が見えた。


◆◆◆


 止まれの合図を受け、香織はミナミベレディーの下へと駆け寄った。


「ベレディー、桜花ちゃんも来てくれたし、今日は頑張ろうね」


 香織がミナミベレディーの首をトントンと叩きながらそう話しかけると、ミナミベレディーはフンフンと頭を上下に動かした。


「良い感じに仕上がっていますよ。桜花さんに気が付いて気合十分ですし、まあ、前走と間隔が空いているのが若干心配ですが、あとはお任せします」


「最善を尽くします。ベレディー、頑張ろうね」


「ブフフフン」(桜花ちゃんがいるし、頑張る)


 ミナミベレディーの様子に笑顔を浮かべ香織は騎乗する。そして、蠣崎調教助手に手綱を引かれながら本馬場へと歩き出した。


「流石にどの馬もしっかり仕上げて来ていますね」


「そうですね。見た所、特にペルシアンカーテンは要注意ですか。ただ、ベレディーが1枠1番ですからね。どの陣営も奇策に出る可能性があるので要注意ですね」


 ジャパンカップは、1枠の、更には1番人気の馬の勝率が高い。ここに来て好枠を引き当てた事で、一気にミナミベレディーが勝つ可能性が高くなったと競馬関係者からは思われていた。


「プレッシャーも凄いんですけどね。ただ、よく考えればベレディーって大外枠で走った事はないですね。やっぱりベレディーは運がいいね」


 そう話しながらミナミベレディーの首筋を優しく叩く。ミナミベレディーは香織達の会話に聞き耳を立てているような感じがして、香織は笑い声が零れそうになった。


 本馬場に入り返し馬をして待機所へと入る。ミナミベレディーは周りの馬を意識する事なく、ゆったりとした様子で歩みを進める。


 うん、本当に女帝って感じになって来たね。


 以前は他の馬の視線を気にして威嚇するようなところもあった。その為にスタート直後にその馬に体当たりされた事もある。今も特に牡馬達からチラチラと視線を受けているが、一向に気にした様子はない。


「ベレディーも貫禄がついていたのかな?」


 思わずそんな事を言うと、何やらベレディーが私を見ようとする。


「うんうん、大丈夫だよ。ベレディーは良い子だね」


 首筋をトントンと叩きベレディーを宥める。そして、ゲート前に移動する所で、ミナミベレディーが立ち止まって耳をピコピコさせた。


「ん? ああ、プリンセスフラウだね。今日も一緒に走るんだよ」


「ブフフフン」(うん、パドックで見てた~)


 プリンセスフラウは度々ミナミベレディーへと顔や視線を向けてくる。


 今年のシーマクラシックで一緒に移動したからなのか、タンポポチャが居なくて寂しいのか、理由は良く判らないけどミナミベレディーはプリンセスフラウと仲良くなった。

 もっとも、その関係は香織が見るからにタンポポチャとの関係とはまた違い、何処となく後輩を気にする先輩のような感じがするのだが。


「プリンセスフラウは同じ5歳馬だよ?」


「ブルルルン」(うん、判ってるよ?)


 何と言っているのか判らないけど、たぶん判ってるよとでも言っているのかな?


 そんな事を思いながら、手綱を操りゲート前にやって来たのだった。

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