第225話 ジャパンカップ前のこもごも

 私の馬房の前では、鈴村さんが嬉しそうに話をしています。その話の内容から、どうやらヒヨリがエリザベスさんのレースで勝ったみたいですね。


「ヒヨリに騎乗してレースするのが久しぶりだったから、ちゃんと反応してくれるか心配していたんだよね。でも、厩舎の人も最高の状態に仕上げてくれていて、ヒヨリも絶好調だったの。3コーナーからのロングスパートでもしっかり最後まで頑張って走ってくれたよ」


「ブフフフン」(ヒヨリは鈴村さんのこと好きよ?)


 見ていて判るんですが、ヒヨリが素直に甘えるのって人間だと鈴村さんだけなんですよね。ヒヨリの所の厩務員さんとかにも懐いてはいると思うんですけど、やっぱり鈴村さんとは違うみたい。何でかはヒヨリじゃ無いから判らないんですけどね。


「ベレディーも再来週のジャパンカップ頑張ろうね。海外からもシーマクラシックで走ったペルシアンカーテンがベレディーにリベンジする為に参戦するし、プリンセスフラウも打倒ベレディーって言ってるから、負けられないよ!」


「ブルルルルン」(フラウさんも? あ、きっと調教師さんとかかな?)


 一瞬フラウさんの言葉が判るのって思っちゃいました。でも、お馬さんの言葉が判ったら苦労しませんからね。恐らくフラウさんの厩舎の人とかが言ってるんですね。


 でも、そっかあ、次のレースはフラウさんと一緒なんだ。うん、楽しみですね。やっぱり知っているお馬さんに会えるのはレースくらいですから。


「トカチマジックやシニカルムールも出走して来るし。特にシニカルムールは此処最近は良い状態を維持しているみたいだから油断できないね」


 うん、やっぱりお馬さん語は判らないと思いますね。もし判る機械とかあるんだったら鈴村さんは絶対に持ってきますよね?


「ブヒヒヒヒヒン」(フラウさんとは、レース前に一緒に走れないの?)


 タンポポチャさんとはレース前に一緒に調教とか出来たんですよね。そう考えるとフラウさんともご一緒できそうな気がするんですが、駄目なのかな?


「京都大賞典を風邪で回避してるから、ベレディーがレースの感覚を忘れてないか心配なのよね。ベレディー大丈夫?」


「ブルルルン」(うん、多分大丈夫?)


 返事は返しますよ? でも、大丈夫の基準が良く判らないのです。でも、走ることは出来るよ? お腹もタプタプ迄は行ってないよね?


 チラリと自分のお腹を見ます。風邪でお休みしたので、ちょっと心配と言えば心配です。でも、見た感じそこまで大きくなって無い……かな?


「鈴村騎手、お疲れ様です。そろそろベレディーを出しますね」


「お疲れ様です。はい、判りました。私もこのままついて行きます」


 お腹を見ていたら、何時の間にか引綱を持って厩務員さんがやって来ていました。この後は鞍を載せて貰って何時もの調教ですね。走る事は嫌いじゃ無いのですが、ヒヨリもレースを走ったばかりだと一人で調教かな。


「ブヒヒヒヒン」(あの子はタフだから、すぐに回復しそうよね)


「ん? ベレディーどうしたの? 大丈夫だよ。一緒に調教だよ」


「ブルルルン」(うん、それは判ってる~)


「うんうん、ベレディー、頑張ろうね。もうちょっと体重落とさないとだからね」


「ブヒヒヒン」(えっ! 太ってないよ!)


 可笑しいです。鈴村さんと私の間に認識の違いが発覚したのです。厩務員さんがクスクス笑っているので、恐らく鈴村さんの冗談だと思うのですが、ご飯が減らされ無いか心配ですよ。


「ブフフフン」(頑張って走る!)


「うんうん、頑張ろうね」


 私は、鈴村さんと一緒に気合を入れるのでした。


◆◆◆


「ううう、トッコの残り少ないレースだから応援に行きたいけど、帰りがキツイ」


 桜花は、もしジャパンカップと有馬記念に来るなら費用は出してくれると大南辺から言われていた。しかし、お金では何ともならないのは月曜日の授業だった。


「東京競馬場からだから、安全を見て羽田の21時発だと22時半には千歳空港に着くよ?」


 隣で未来がネット検索で調べてくれているけど、千歳を22時半着で荷物を預けずスルーで行けば何とかなるだろうか?


「JRの最終間に合うかなあ?」


「多分? 22時53分だから、急げば間に合うと思う……かな?」


「あぅぅぅ」


 ある意味、勝手知ったる新千歳空港だ。何度も利用しているので迷子の可能性は低い。それであっても、乗り継ぎの時間にあまり余裕が無いと心配になってしまう。


「最悪はタクシーでも、空港で一泊でも何とかなるって。桜花は見に行きたいんでしょ?」


「うん、行きたい」


 予定では有馬記念が引退レースになる。しかし、あくまでも予定であり、もしかするとジャパンカップが最後のレースになる事だって有り得るのだ。


 風邪知らずのトッコが風邪をひいたように、実際には何が起こるか判らない。


 一度そう思ってしまうと、桜花としては何としてでも残り2レースを自分の目で見たくなったのだ。ただ、流石に必須の授業を自身の牧場が生産した馬だからと言って、競馬を見に行くので休みますは通じないだろう。


「桜花ちゃんのお母さんは一緒に行けないの?」


「うん、いま収穫だ何だで忙しいって。それに、うちの牧場って今色々と工事をしているから。貴方ももう大学生なんだから一人で行って来なさいって言われた」


 いざ動き始めると決断力も有り、割と何でも熟していく桜花である。そんな桜花の特質として何事も余裕があれば問題は無いのだが、余裕が無いと直前まで色々と悩み決断が出来ないという欠点があった。


「ねえ、お母さんが行けないなら私が一緒に行ったら駄目かな? ほら、費用的には変わらないし、大南辺さんに聞いてくれない? 私が一緒の方が桜花も安心できるでしょ?」


 ドバイで大南辺夫妻とも懇意になっている未来は、これ幸いに自分も無料でジャパンカップの観戦及び東京観光が出来る機会を得ようと桜花へ提案する。大南辺夫妻の性格的にも経済的にも、未来一人が増えても増えなくても余り気にしないと思っていた。


「え? でも、それって迷惑じゃない? 甘えすぎな気がする」


「大南辺さんだったら大丈夫だよ。ほら、聞いてみよ? 二人なら何かあっても何とかなるよ」


 結局、未来に押し切られた桜花が大南辺へと電話を掛ける。そして、未来が言うように大南辺は特に悩む様子もなくフライトチケットを二人分送ってくれる事になった。


「いいのかなあ?」


「良いに決まってるよ。それに、土曜日の午後と日曜日の午前中が空いてるから何処か行こ? 横浜の中華街とかどう? そこで夕飯食べない?」


 桜花とは違い、未来の意識は棚ぼた式に行ける事となった東京観光に向かうのだった。


◆◆◆


「そうですか。ジャパンカップには、桜花さんが来てくれるんですね。ベレディーにとって桜花さんは勝利の女神ですから、ええ、ええ、ベレディーも喜びますよ。鈴村騎手にも伝えておきます。まあ、桜花さんと鈴村騎手は個人的にも遣り取りがあるので、既に話が行っているかもしれませんが。ええ、ありがとうございます」


 大南辺からの電話を受けていた馬見調教師の表情も、桜花がジャパンカップに来ると聞いて笑顔が零れる。その電話を横で聞いていた蠣崎調教助手の表情も同様であった。


「桜花さんが来てくれるんですね。いやあ、これはジャパンカップも貰いましたね」


 電話を切った馬見調教師に、蠣崎調教助手は笑いながら声を掛ける。


「まあ貰ったかどうかは兎も角として、好条件なのは間違いがないな。何と言っても桜花さんが観戦に来て負けたレースは2歳牝馬優駿だけだからな。あとはすべて勝利しているんだ、まあ験担ぎではあるがね」


 実際の所、大南辺の思いも同様であろう。


 何と言っても年内での引退が決まっているミナミベレディーだ。泣いても笑っても残りレースはジャパンカップと有馬記念。それを考えれば、何とか勝たせてやりたいと思うのは、ミナミベレディーに関わる関係者一同の思いだった。


「ベレディーも、もう5歳ですか。早いですねぇ。初めてベレディーを見た時には、此処まで走るなんて思いもしませんでした」


 蠣崎調教助手の言葉に、馬見調教師も大きく頷く。そして、ミナミベレディーが馬見厩舎に来てからの事が次々と頭を過って行く。


「まあ、最初から癖の強い馬だよな。変な走り方をする。調教で鞭を受け付けない。砂は嫌がる。まあ、試行錯誤の嵐だったが。GⅠを勝つような馬はこういう物なのかもしれないな」


「癖が強くて全然走らない馬もいますけどね」


 何よりも運が強い馬だったと思う。


 まず、晴女で雨でのレースが殆ど無かった。まず新馬戦、コスモス賞、そしてGⅢアルテミスステークス、この3レースは運で勝ちを拾ったと思っている。勿論ミナミベレディー自体の頑張りもあったが、まだまだ馬自体が完成とは程遠く、レース毎に酷いコズミを発症もした。


「残り2レースか。そう思うと何とも言葉にならないな」


「我々の厩舎に初めてGⅠ勝利を齎してくれた馬ですからね」


「ああ、そうだな」


 調教師として、厩舎として、誰もが目指す先はGⅠ勝利だ。人によってはダービーだ、有馬記念だ、天皇賞だと言うのかもしれない。しかし、人脈も、調教技術も、まだまだ未熟な新人調教師に、そうそう良い馬が回ってくるはずがない。そんな自分にとって、GⅠ勝利はそれこそ夢のまた夢だったのだ。


「ベレディーへの恩返しだな。ここに来て怪我などさせるなよ。ただ、勝てるだけの事はしろ」


「それ、思いっきり矛盾してませんか?」


 馬見調教師の言葉に、蠣崎調教助手は思いっきり苦笑するのだった。

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