第215話 トッコさんの出走取消騒動 後編

 ミナミベレディーの出走取消の件は武藤厩舎でも衝撃を持って受け取られていた。


「風邪かあ、気をつけんといかんな。ヒヨリとフィナーレにも早々に馬着を着せるか?」


 競走馬の中には馬着を嫌う馬もいる。ただ、幸いな事にサクラヒヨリもサクラフィナーレも馬着を嫌がる事は無い。競走馬は新陳代謝が盛んであれば比較的冬毛が伸びない。また、ブラッシングなどで細かに手入れされている為、その点においても同様である。


 それ故に、急な寒暖の差は注意が必要だった。


「馬は寒さに強い生き物ですが、流石にこうも急に寒くなると調子も崩しますか」


「大事なレースの前だからな、こちらも気をつけよう。馬見調教師は落ち込んでいるだろうな」


 大事な競走馬、ましてや昨年の年度代表馬であり、上手くすれば今年も連続して年度代表馬に選ばれる可能性も高い競走馬だ。


 年度代表馬を確実にする為にもジャパンカップと有馬記念は重要なレースであり、馬見厩舎としても秋の試金石的な意味合いの京都大賞典において細心の注意を払っていただろう。それでも競走馬は生き物であり、ましてや意思疎通が難しい。それ故に不意のアクシデントは不可避と言っても良い。


「馬と会話が出来れば大半の怪我なども防げるのだろうがな」


「そう言えば、犬とか猫のボイス何とかって商品がありましたね。流石に馬のは出ませんか。出れば多少高くても、喜んで買う人もそこそこいそうですがね」


「まあ、販売されれば鈴村騎手は間違いなく買うな」


「でしょうねぇ」


 武藤調教師と調教助手は顔を見合わせて苦笑を浮かべる。


「さあ、とりあえず馬達の様子を見に行くぞ。風邪といえどシャレにならんからな」


 来週には何と言ってもサクラフィナーレが出走する秋華賞が開催される。


「天気も幸い晴れるみたいだからな。何とか2冠と行きたいところだが」


 実際の所、武藤厩舎ではサクラフィナーレが前走の紫苑ステークスで3着という結果を受け今まで以上の緊張感が漂っていた。


「せめてプリンセスミカミには勝ちたいですね」


 サクラフィナーレは既にGⅠを1勝している。だからと言って同世代で能力上位かと言えば何とも言えない。それなりに競走馬としての能力はあるのだろうが、3歳春はまだ馬達も若く、成長途中の馬が多くいる。それ故に、この春から秋にかけて大きく成長してきている馬もいるだろう。そう考えれば桜花賞の勝利は、まさに運が良かったと言えるのだった。


「そうだなあ、秋華賞ではラトミノオトもだが、やはり怖いのはライントレースか。ウメコブチャも油断できん。牝馬は特に気性面も含め難しいからな、そういう点だけで言えばフィナーレは安定しているのだが。負けて良いという訳では無いのだが、確かにプリンセスミカミには勝ちたいなあ」


 武藤調教師的に見てサクラフィナーレは要領の良い馬である。ただ、昨年のサクラヒヨリと比較すれば持久力は明らかに下だろう。それでも出走するレースで何とか掲示板内に留まっているのは、ミナミベレディーから続く変則的な走法の御蔭である。


「サクラフィナーレも成長して来ています。以前程レース後に体調を崩さなくなりました」


「そうだな。しかし、何方かと言えば4歳からか。まだ本格化したとは言い辛いからな」


 武藤調教師としては、どうしてもサクラヒヨリと比較してしまいがちではあるが、サクラフィナーレが活躍するとしたらやはり4歳以降であろう。ただ問題はサクラフィナーレが4歳の時にはまだサクラヒヨリが現役でいる事であった。


「サクラヒヨリと競って勝てるイメージが湧かないぞ」


「委縮しそうですね」


「同じレースに出す訳にはいかないが、フィナーレは牝馬限定戦がメインになるよな」


 思わず溜息を零しそうになりながら、自厩舎の馬房へと向かうのだった。


◆◆◆


 磯貝調教師は、馬運車へと運ばれて行くミナミベレディーの様子を遠目で観察していた。


「歩行は問題なさそうだな。やはりただの風邪か」


 ミナミベレディー出走取消の一報を受け、磯貝調教師も気になっていたのだ。そして、自厩舎の厩務員に、ミナミベレディーが馬運車へ向かうようなら声を掛けるように指示していた。


 遠目ではあるが、磯貝調教師が観察した感じでは脚の運びなどに異常は感じられない。馬着を着せられている事も有り、やはり報告にあったように風邪なのだろうと安堵する。


 磯貝調教師としては、幾度も自身が調教するタンポポチャが破れて来た憎き相手と言えなくもない。それでも、タンポポチャと非常に仲が良く、タンポポチャが現役時代には普通は有り得ないくらいに接する機会の多かった他厩舎の所有馬だ。それ故に何かと思い入れも強かった。


「まあ大事無くて良かったな」


 ミナミベレディーが馬運車に収まるまでを見届けた磯貝調教師は、見た限りにおいては引退に関わるような故障では無さそうな事に安堵する。もっとも、その内心を決して表面には表さないのだが。


 その後、厩舎へと戻った磯貝調教師は鷹騎手へと連絡を入れる。


「おう、今大丈夫か。ああ、その件だ。お前も気にしているだろうと思ってな。ああ、そうだ。今馬運車で運ばれて行ったが、動きを見る限りじゃ異常はないな。ああ、厩務員の様子も其処迄緊迫した様子は無かったからよ。まあ、安全を見ての出走取消だろう。ああ、ああ、まあ良いって事だ。その分は次走で頑張ってくれれば構わん。天皇賞は頼んだからな」


 一通り鷹騎手と会話をした磯貝調教師は、電話を切るとそのまま椅子へと座り込む。そして、しばらく考えた後に厩舎を出て馬房へと足を運ぶ。


「おう、どうだ馬達の調子は」


「どの馬も良い感じですよ。来月デビュー予定のダンゴウオも良い感じで仕上がってきています」


「ダンゴウオか。まあまずは1勝だ。そこからだな」


 そう言うと、今馬房にいる馬を一頭一頭確認していく。そして、管理する馬達の元気そうな様子に一先ず安心する。


「ウメコブチャはどんな様子だ」


「秋華賞では勝ち負けは行けそうですよ。今日は御機嫌も良く走ってました」


 ウメコブチャは、気性が激しいが故に日々の調教でも非常に気を遣う。オークスを無事に勝利しているが故に何としてでも秋華賞、欲を言えばその先のエリザベス女王杯で勝利しGⅠ3勝としたい。


「タンポポと違い規格外のライバルはいないからな。何とか行けそうな所が何ともなあ」


「ライントレースもですが、ラトミノオトも侮りがたいですよ。最後の末脚はタンポポを彷彿しました」


 紫苑ステークスのレースを見た時、まさか最後の直線でラトミノオトが届くとは磯貝調教師も思わなかった。あの短い直線だけで一気に差し切ったラトミノオトに、磯貝厩舎ではまるでタンポポチャのようだと盛り上がったのはまだ記憶に新しい。


「他厩舎の馬を応援するんじゃねぇ」


「別にそう言う訳じゃ無いんですが」


 そう言いながら照れ笑いのような表情を浮かべる厩務員に、一睨みして馬房の中で寛いでいるウメコブチャに視線を向ける。


「まずは秋華賞だ。お前達、頼んだぞ」


 厩務員達に再度声を掛けた磯貝調教師は、そのまま調教を行っているであろう馬達を見る為にコースへと向かうのだった。


◆◆◆


「え? ミナミベレディーが出走取消!」


 十勝川は、京都大賞典のレース表で発覚したミナミベレディー出走取消の一報に驚きの声を上げる。


「え? ええ。あら、そうなのね。驚いたわ、何か故障が発生したのかと思ったもの。ええ、そうね。ありがとう」


 十勝川は電話の相手であるトカチレーシングの担当者との電話を切ると、すぐに馬見厩舎へと連絡を入れようとした手を止める。


「まだ馬見厩舎もバタバタしているわね。でも、もう少し詳しい事を聞きたいのよね。誰が良いのかしら?」


 もちろん馬見厩舎が一番詳しいだろう。それでも、今最も忙しいのも馬見厩舎であろう。ただ、鈴村騎手となると夜まで待たなければならないが、競馬場入りすると携帯での通話が出来なくなる。この為、電話をするタイミングが非常に難しい。


「そうなると、北川さんの所かしら? 奥さんなら詳しい事を知っていそうだし」


 少し悩んだ後に十勝川は北川恵美子の携帯へと電話を掛ける事とする。


トルルルルル


『はい、北川です』


 電話のスピーカーから恵美子の声が聞こえ、十勝川は受話器を取って話を始めた。


「お忙しい所ごめんなさい。十勝川です」


 そう言って会話を始め、ミナミベレディーの状態を聞き取っていく。


「お忙しい所、突然お電話してごめんなさい。ええ、またお伺いさせていただきますわ。ご主人にもよろしくお伝えください」


 電話を切ると、漸くほっとした表情を浮かべた。


「出走取消は心臓に悪いわね」


 ミナミベレディーとトカチマジックの産駒、十勝川の勝手な願望であり実際にミナミベレディーのお相手にトカチマジックが選ばれるのかは判らない。ただ、十勝川はその夢に向かって色々と動いており、北川牧場のみならず大南辺夫妻とも良好な関係を築きあげてきている。


 そんな十勝川に、今回の出走取消は大きな衝撃を与えていた。十勝川世代にとってチューブキングという馬は非常に大きな存在であった。

 そして、競走馬を生産する立場から言えば、どうしても故障と言うイメージが拭いきれない馬であった。それ故に、ここに来てのミナミベレディー出走取消の報告は、まさかと言う思いと、やはりと言う思いが混在したのだった。


「もっとも、蓋を開けてみれば故障ではなく軽い風邪でしたけど、心臓に悪いわね」


 部屋にあるテレビのスイッチを入れ、今年の宝塚記念の映像を再生する。そこでは、勝利を確信したはずのトカチマジックが、再度伸びて来たミナミベレディーに差し返されると言う衝撃の映像が映し出される。


「はあ、何度見返しても凄いわね。普通は此処から伸びて来ないわ」


 そう呟きながら、ミナミベレディーのレースを幾つか振り返る。


「何時の間にかミナミベレディーのファンになっちゃっていたのよね。困ったものだわ。何で勝てるんだろう? そう思っちゃったからかしら」


 自身の所有馬であり、この十勝川ファーム生産馬であるトカチマジック。そのトカチマジックが負けた悔しさも無くはないのだが、それ以上に牝馬であるミナミベレディーが差し返す姿に思わずドキドキしてしまうのだ。


「はあ、もうジャパンカップも有馬記念も走らなくて良いから引退してくれないかしら」


 今回の事で、思わずそんな思いが湧き上がって来てしまうのだった。

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