第214話 トッコさん出走取消騒動 前編

「え? はい、はい、判りました。ベレディーにはゆっくり休むように言ってください。あの子は多分判るような気がしますから。いえ、態々ありがとうございます」


 恵美子は、電話を終えると小さく溜息を吐いた。


 電話の相手はミナミベレディーの馬主である大南辺からであった。電話の内容は、明後日に開催される京都大賞典へ出走する予定であったミナミベレディーが風邪により出走回避する事の報告である。


 北川牧場としては、レースの開催が阪神競馬場という比較的ミナミベレディーと相性の良い場所である事も有り、夫の峰尾が阪神競馬場へ向かう予定を組んでいた。その為、大南辺も出走回避が決まった事で急いで連絡をくれたのであろう。


「トッコも風邪をひく事もあるのね」


 レース毎にコズミを発症する事の多かったミナミベレディーではあるが、それ以外には大きな病気や怪我も無くここまで来た。放牧で北川牧場へ帰って来た際は、体調管理に気をつけているのは勿論なのだが、ここ最近は体重の増加を気にする事の方ばかり気にしていた気がする。


「ん? どうした?」


 一仕事終えた峰尾が事務所へと戻って来た。恵美子は、そんな峰尾に先程の電話の内容を伝える。


「風邪かあ。確かに一気に寒くなって来たからなあ」


「そうねぇ、朝夕は急に寒くなったわね」


 もっとも、北海道とでは気温自体が違うのであろうが、それでも寒暖差による体調不良は、馬だけでなく人間達も注意しなければならない。


「馬インフルで無かっただけましよね。下手したらこのまま引退も有り得たのですもの。ただ、うちとしてはそれでも良かったのかもしれないわね」


 そう言って笑う恵美子ではあるが、本気なのか、冗談なのか、その心の内は中々に見抜く事は難しい。


「そっか、そうすると明日の出発は無くなったんだな。急いでキャンセルの手続きをしないとだな」


「そこは大南辺さんがしていただけるそうよ。もともとご招待ですもの」


「ああ、そうだったな。そうすると、特に何かしなければならない事はないな」


 そう言って笑う峰尾に対し、恵美子は苦笑を浮かべながら答える。


「わたしは、桜花に連絡をしないとだわ。あの子が大騒ぎしそうね」


「そうだなあ。ただ、馬見さんにトッコの様子を尋ねるにしても、時間をおかないとご迷惑になるよな?」


「ええ、今頃は方々から問い合わせを受けているんじゃないかしら。枠順決定までに連絡は間に合ったのかしら?」


 何と言っても昨年の年度代表馬である。更には、今回の京都大賞典における出走予定馬では1番人気であった。

 その為、ミナミベレディーの出走取り消しは大きな衝撃と共に、今頃様々な憶測が飛び交っている事だろう。


「ところで、風邪の具合などはどうなんだ? 出走取り消しにするくらいだから酷いのか?」


「大南辺さんの話では今の所は発熱があるのと、少し鼻水が出ているくらいらしいわね。診断だと風邪のひきはじめという事みたいよ」


 馬は鼻呼吸をする生き物であり口呼吸は出来ない。その為、鼻水と言うものはレースを走る上で重大な問題となる。


「まあ、早く回復して欲しいものだな」


「そうね、お見舞いに何か贈ろうかしら。そうねぇ風邪ですし、たまには洋梨でも良いかしら?」


「まあ、悪くはないがトッコは洋梨食べた事があったか?」


 そこで恵美子は少し考え込む。馬と言う生き物は、同じ果物や野菜であっても食べたり食べなかったりする。驚く事に馬の代名詞であるニンジンが嫌いな馬だっているのだ。


「たぶん無いかしら? 洋梨は傷みやすいですから、そうねリンゴも送っておくわ。洋梨は馬見厩舎の方達で消費して頂いても良いし」


 そう言うと、恵美子は授業中であるだろう桜花は後回しにして、ミナミベレディーに送る物の手配を始めるのだった。


◆◆◆


「え? ミナミベレディー出走取消です?」


 美佳は、京都大賞典の出走表を見て思わず声をあげた。


 つい先日、美浦トレーニングセンターで行われた追い切りにおいてもミナミベレディーは元気そうな様子だった。それなのに突然の出走取り消しに思わず声が出てしまったのだ。


「ん? ああ、これで京都大賞典は荒れるな。1番人気はサウテンサンあたりかな?」


「そんな事より怪我ですか?! 追い切りまで何の兆候も無かったんですけど!」


 暢気な様子で話に入って来るアナウンサーの福島に、喰いかかり気味に質問をする。そんな美佳に福島は顔の前で手を振り、笑いながら答える。


「おいおい、そんな事は無いだろう。レースにおいて人気は重要だぞ?

 それに、ミナミベレディーが怪我で出走停止なんだったら、こんなにのんびりしている訳が無いだろう。大騒ぎしているって。風邪だよ風邪。一気に寒くなって来たからな」


「え? 風邪です? 普通の?」


 質問に頷く福島を見て、美佳は安堵から椅子に深々と座り込む。


「なんだ、よかったあ。風邪かあ」


「良くは無いだろう。1番人気だし、ジャパンカップ前の大事なレースだったんだろ?」


 ミナミベレディーは休養明けは走らないというのが定説だった。その為、今年の宝塚記念などは前走から大きくレース間隔が空いていた為、人気は兎も角として競馬関係者からは勝てるかどうかは半々と思われていた。それであっても予想を覆して勝利を挙げているのだが。


「馬見調教師も一叩きしておきたいって言ってましたよ? ただ、ジャパンカップからの有馬記念でミナミベレディーの疲労も心配していました。そう考えれば無理に出走させなくて良かったのかも? まあ、風邪だと仕方が無いですし、気持ちを切り替えていきましょう! という事で美佳はこれから美浦トレセンへ行って来ます!」


 脚を揃えて敬礼する美佳に対し、福島は大きく溜息を吐く。


「馬鹿野郎、これから打ち合わせだろうが。何のために此処に来ているんだ」


「え~~~、でも、ミナミベレディーの様子とか知りたいですよね? 映像もあれば言う事無いと思いませんか?」


 頬を膨らませて福島に抗議する美佳だが、福島はその意見を鼻で笑い飛ばす。


「インタビューも映像もあっちにいる誰かを行かせればよい。細川は電話で情報の裏どりだ。ミナミベレディーが居なくても京都大賞典は中止にならんぞ。だいたいミナミベレディーはまだ移動中で明日にならんと美浦には着かないし、焦っても意味が無いぞ」


 その後も、あの手この手で抗議をする美佳であったが、福島の意見が覆る事無く、泣く泣く電話で確認を入れるのであった。


◆◆◆


「うっそぉ! トッコ風邪ひいたの! 大丈夫? 症状は軽いの重いの?」


 大学の授業が終わり京都大賞典の出走表を見る為にサークルへと顔を出した桜花は、そこで初めてミナミベレディー出走取消の事を知った。


「え? 北川さんはまだ知らなかったんだ。てっきり何か連絡を貰ってるのかと思ってた」


 サークル内では、それこそ詳細を知っているであろう桜花が来るのを待ち構えていた。その肝心の桜花が出走取消の事を知らなかった事に、メンバー全員が驚きの声を上げる。


「うん、全然しらなかった。栗東で鈴村さんが調教をつけた時も調子は良いって言ってたよ」


 そう答えながら、桜花はとりあえず情報を持っているであろう母親へと電話を掛けたのだった。


「うん、そっかあ。うん、季節の変わり目だもんね。うん、うん、判った。私? 私は元気だよ? うん、ちゃんとご飯も食べてるって。うん、気をつける。は~い、じゃあね」


 桜花は母親との電話を切って振り返ると、サークルメンバー全員が自分の事を見ていて思わず驚いた。


「うぇ? み、みんなどうしたの?」


「え? ミナミベレディーの事が気になっただけ。普通だと生情報とか入らないし」


「だよね。出走取消の事、結構騒がれてるよ?」


 そう言ってパソコンで表示されている競馬情報サイトを指さした。


「おおぅ、何か凄い事になってるね」


「まあ、チューブキングは怪我が多かったからね。オールドファンは気になるみたいだ」


 今回の出走取消において、実は怪我なのでは無いかといった憶測が、あたかも真実のように言われ始めている。


「うわぁ、どっから突っ込んで良いのか判んないけど、すっごいね。お母さんの話だと軽い風邪みたいだよ。発熱してたから用心して出走取消したみたい。でも、凄いなぁ」


 桜花が唖然とするほどに、今回のミナミベレディー出走取消は競馬ファン、ひいてはミナミベレディーファンに衝撃を与えたようだ。


「馬見厩舎からのコメントで軽度の感冒って発表されたから、しばらくすれば落ち着くだろうけどさ。チューブキングファンの反応が凄すぎだね」


「トッコもそうだけど、キレイの産駒は総じて頑丈なんだけどね。トッコ以前の産駒も成績は兎も角として、怪我とかは無縁だったよ。地方でだけど14歳まで走ってた子もいたってお母さんが言ってた。結局は2勝しかしなかったらしいけどね」


「14歳……まじか」


 驚くサークルメンバーに、桜花は笑いながら会話を続ける。


「あ、でも競走馬の最高齢出走記録って16歳らしいし。しかも16歳で勝利記録もある」


「まじか……」


 競走馬に定年は無い為、厩舎や馬主の意向次第では現役を続けることが出来る。その為、10歳以上であっても登録抹消される事無く現役でいる馬は勿論いるが、実際に勝てるかと言うと中々に難しい。


「まずはジャパンカップが本命だから、此処で体調崩すのも怖いんだと思うよ」


「まあ、そうだろうな」


「ただ、ぶっつけジャパンカップかあ」


 競馬サークルの面々は、ネットに書き込まれる荒唐無稽の噂にワイワイと盛り上がるのだった。

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