第213話 ミナミベレディーと思わぬ災難?

「え? インフルエンザ?!」


 香織は、突然の連絡に驚きの声を上げた。明日から阪神競馬場へ入る準備をしていた最中の連絡に、思わず驚きの声をあげる。


「うん、うん、判ってる。しばらくそっちには寄らないようにするから。判ってるって」


 電話は母親からであり、父親がインフルエンザに罹った為しばらく実家には来るなとの連絡であった。併せて、ちゃんと予防接種はしなさいや、ちゃんと食事をしているかなどのお小言なども含め色々言われ、とにかく相槌を打つのみなのだが結局15分以上も電話をする事になった。


「インフルエンザかあ。寒くなって来たからなあ。冗談抜きで予防接種を受けとかないと、インフルエンザで騎乗出来ませんなんて出来ないからなあ」


 電話を切った香織は、急いで罹りつけの病院へ連絡を入れインフルエンザの予防接種の予約を入れる。そして、そういえばミナミベレディーは風邪知らずだったなと思う。


 実際、馬の体温は人間に比べ比較的高く、38.5度以上の熱があると発熱したと判断される。その為、毎日の検温は欠かせない仕事であり、当たり前であるが馬も普通に風邪は引くのだ。以前には馬インフルエンザなどが猛威を振るい大騒ぎをした年もある。その為、今は普通に馬に対し予防接種が行われていた。


「ベレディーは注射嫌いだけどね」


 恐らく今年も目を閉じて耳をピコピコとさせていたんだろうなあ。


 ミナミベレディーの予防接種の情景を思い浮かべながら、阪神競馬場へと向かう準備を進める。そして、夕方には阪神競馬場へ入らなければならない為、午前中に栗東トレーニングセンターへミナミベレディーの様子を見に向かう。すると、馬見調教師や蠣崎調教助手が普段以上に慌ただしく作業をしているのが見えた。


「あの、どうしました?」


 香織は馬見調教師に近づきながら声を掛ける。すると、慌てた様子で馬見調教師と蠣崎調教助手は逆に香織から距離を取ろうとする。


「鈴村騎手、連絡が遅くなって申し訳ありません。朝の検温でベレディーの体温が38.8度だったんです。獣医の先生を呼んでいる所なんですが、今週の出走は取り消す事になると思います」


「すぐ鈴村騎手に連絡を入れるべきだった。何分、慌ててしまって申し訳ない」


 少し離れた場所から蠣崎調教助手と馬見調教師が返事を返してくる。その内容から、香織も慌ててその場で留まり会話を続ける。


「え? あの、インフルエンザの予防接種は?」


「終わっています。体温もそこまで高い訳では無いからただの風邪だろうと思いますが。とにかく鈴村騎手はベレディーとの接触は控えた方が良いと思います。結果はご連絡させていただきますよ」


 香織は状況を聞きながらも心配そうにミナミベレディーの馬房がある方へと視線を向ける。馬見調教師達も、釣られるようにミナミベレディーの馬房へと視線が向かう。


「判りました。このまま接触しない方が良いと思いますので、ベレディーによろしくお伝えください」


「ええ、ちゃんと鈴村騎手が来てくれた事を伝えておきますよ」


「いえ、一応食堂に居ますので、もしベレディーの検査が陰性であれば顔を出してあげようかと」


「判りました。検査結果が出ましたら急ぎご連絡します」


 そう告げると馬見調教師達は厩舎へと走って行った。その姿を見ながら、鈴村騎手は栗東トレーニングセンターの食堂へと移動する。その20分後に鈴村騎手の携帯が鳴った。その連絡が来るまでが異様に長く感じた香織であった。


「はい、はい、あ、良かったです。それでは、これからベレディーの馬房へ向かいます」


 馬見調教師からの電話を切った鈴村騎手は、急いで席を立ちベレディーのいる馬房へと向かう。


「はあ、ただの風邪で良かった」


 予防接種を打っているとはいえ、馬インフルエンザであれば症状によっては長引く事も有る。体調回復も考えれば、最悪このまま引退すら有り得たかもしれない。その為、ただの風邪との報告に香織は心の底からホッとするのだった。


「まさか、昨日のお母さんの電話がフラグにでもなったかと思ったわ」


 そんな事をブツブツと呟きながら、ミナミベレディーの馬房へとやってくる。すると、そこでは蠣崎調教助手がせっせとミナミベレディーに馬着を着せている所だった。


「ただの風邪で良かったですね」


「ああ、鈴村騎手。そうですね、ヒヤッとしました。急に冷え込んできましたから気をつけてはいたんですが」


 申し訳なさそうに話す蠣崎調教助手である。


「ベレディー、ただの風邪でよかったね」


「ブフフフン」(何か怠くなってきたの)


 明らかに疲れた表情を見せるミナミベレディー。鈴村騎手はその鼻先を優しく撫でながら、鼻水などの症状を確認する。


「特に咳とかもないんですよね?」


「ええ、体温が高い以外は症状は出ていません。私達も体温を測るまで異常に気が付かなかったくらいです」


 そう告げる蠣崎調教助手を香織は訝し気に見返した。


「でも、ベレディーは辛そうですよ?」


「ああ、診察を受けて風邪だと判った途端、何か体調が悪くなったみたいですね。本当に私達の言葉が判っているみたいで。もっとも、段々と具合が悪くなってきているのかもしれませんが」


 蠣崎調教助手は苦笑を浮かべながらそう告げる。


 香織はミナミベレディーの食欲が気になって飼葉桶を見ると、桶の中は綺麗に空になっていた。


「食事はまだ与えていないのですか?」


「いえ、綺麗に平らげた後ですよ。食欲が落ちていないのが救いですね」


「ブルルルン」(でも、熱があるの~)


 如何にも怠そうな嘶きに心配になるが、それでも食欲が落ちていない事に安心する。


「うんうん、ベレディー、大丈夫だよ。ほら、風邪の時はお水をしっかり飲まないとだよ」


 そう言って水の入った桶をポンポンと叩く。


「ブフン」(飲む~)


 香織の指示に従うかの様に、水をガブガブと飲み始めるミナミベレディー。その様子に蠣崎調教助手もホッとした表情を浮かべた。


「水をしっかり飲んでくれれば一安心ですね」


「ええ、でもベレディー、無理しちゃ駄目だからね。ゆっくり休んでね」


「ブルルルン」(うん、わかった~)


 一通り水を飲んだミナミベレディーは、まるで鈴村騎手の言葉に従うかのように寝藁へと寝転ぶのだった。


「相変わらず賢い馬だなベレディーは」


「ですよね。ほんとにベレディーは賢いです。ベレディー、またね。来週美浦に会いに行くからね」


 まるで自慢の娘か妹を褒められて喜ぶかのように、満面の笑みで答える香織。そんな様子に苦笑を浮かべながら蠣崎調教助手は香織を促して馬房を離れるのだった。


◆◆◆


 鈴村さん達が帰って行っちゃいました。ちょっと寂しいですね。お馬さんになって風邪を自覚したのって良く考えたら初めてでしょうか? 筋肉痛何かはしょっちゅうだった気がしますが、熱を出してお休みは記憶にありません。


 う~ん、朝は何時もより調子が良い様な気がしたんですよね。でも、体温を計ってもらったら何と熱があったみたいなんです。そして、獣医さんが来てくれてお鼻に長い棒を入れられたんです。結構苦しかったですよ? 何か棒を手に持っている段階で嫌な予感はしていたんですけどね。


「うん、インフルは陰性です。熱もそこまで高くないですし、今年は急激に朝夕の気温も下がって来ましたから原因はそれですかね。今の所はそれ程鼻水も増えていませんし咳もしていませんが、これからもう少し悪化するかもしれませんから注意してください」


 獣医さんのお話を聞いていたら、今までは何ともなかったのに何か怠くなってきたような? 熱が上がって来ちゃったんでしょうか?


 馬着を着せてもらっていたら、鈴村さんが会いに来てくれたんです。でも、すぐに帰っちゃったので寂しいです。


 馬房で寝ていると起こされて、再度体温を計られました。


「うん、これなら移動させても大丈夫そうですね」


「熱が其処迄上がって来てないのが助かります。馬運車を準備して来ます」


 どうやら美浦へ帰るようなので、馬運車に載せられるまで取り敢えず寝ておきましょう。馬運車だと横になって眠れないので、今一つ寝ましたって気にならないんです。


「ブルルルン」(う~ん、怠いですね)


 早く美浦に帰ってゆっくりしたいですね。


「ブヒヒヒヒヒン」(そういえば! 病人食になっちゃうのかな?)


 再度寝ようと横になった所で、ふと頭に過ったのは風邪の時のご飯の事です。


 もしかすると、お粥が食べれるんでしょうか? それに、病気だと桃の缶詰とか貰えたりします? 定番ですよね? ちょっと楽しみになって来ました。


 あれ? 何か怠さも消えちゃいました?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る