第211話 スプリンターズステークスとその頃のトッコさん

 オールカマーが開催された翌週、芝1200mで競われるGⅠスプリンターズステークスが開催されていた。


 昨年の優勝馬であるタンポポチャが引退している為、一番人気には今年の高松宮記念を制したコチノクイーン、2番人気にはキーランドカップを勝利したカゼノモウシゴと、どちらも牝馬という牝馬最強時代を引きずる状況となっている。


 そして、結果はカゼノモウシゴがスプリンターズステークスを制し、GⅠ初勝利を挙げたのだった。これにより騎乗した鷹騎手が、何とかシルバーコレクターと言われ始めた汚名を返上する結果となる。


「いやあ、これでサクラヒヨリの騎乗を断って選んだ言い訳が出来ますよ。実際、良い馬なんですよカゼノモウシゴは、ただ適正距離が狭いのとスタートが今一つなんで。今日のように綺麗なスタートを切る事が出来れば、まだまだ結果を残せます。期待していてください」


 テレビのインタビューに答えながら、鷹騎手はホッとした表情を浮かべる。実際、色々と試した結果カゼノモウシゴの適正距離は芝1200mから1400mと思われる。ただ適性が判明してもスタートが今ひとつであり、掲示板に載れども中々勝てないレースが続いていたのだった。


 その後、表彰式も終えて競馬場を後にする鷹騎手は、珍しくこの中山競馬場の関係者出入り口で磯貝調教師の姿を目にする。


「お珍しい。もう此方へ?」


「ああ、来週は毎日王冠だからな。うちの厩舎で京都大賞典に出走する馬は居ないからこっちに来た。今日は良い騎乗だったな、うちの馬に騎乗した時もこうあって欲しいがな」


 褒めているのだろうが相変わらずしかめっ面で話す磯貝調教師に、鷹騎手は思わず苦笑を浮かべる。そんな鷹騎手であるが、磯貝調教師がわざわざ自分を待ち構えていた事に首を傾げた。


「それで、何かありましたか?」


「ん? ああ、この後時間はあるか?」


「カゼノモウシゴの祝勝会があるので、それ程時間はありませんが」


「なら、その会場まで送る」


 鷹騎手の返事を聞かずに踵を返す磯貝調教師、その後ろ姿に違和感を感じながら鷹騎手は後に続くのだった。


 そして、駐車場に着くと磯貝厩舎の調教助手が車の用意をして待ち構えていた。そのまま鷹騎手は磯貝調教師と並んで後部座席に座る。その後、鷹騎手が行く先を指示し、車は走り出す。


「で? 何かありましたか?」


 普段の磯貝調教師からすると今日の様子は明らかにおかしい。その為、鷹騎手は磯貝厩舎のお手馬であるウメコブチャの屋根を変えるという事かと内心では身構えていた。


「ああ、その、なんだ。お前の耳に入る前に伝えておこうかとな」


「私の耳に?」


「2年後に引退する事にした」


 常々引退を意識したような言葉を発する磯貝調教師ではあるが、2年後としても引退年齢の70歳にはまだまだ届かない。その為、鷹騎手はこの発言を驚きを持って受け止める。


「早く無いですか?」


「うるせぇ、色々と事情があるんだよ」


 そう言って顔を顰める磯貝調教師ではあるが、何となくではあるが原因は推察できる。


「だから普段から節制しろって言ってたじゃ無いですか」


「お前にそんな事を言われた事など無い!」


 実際の所、厩舎を経営するのは体力が必要である。ただ、それ以上に問題なのは365日休みが無い様な物であり、その為に健康診断などをなおざりにする事だった。


「で? どうなんです?」


「馬鹿野郎、別に命にどうこうする病じゃねぇ」


「ふむ、そうすると糖尿が悪化しましたか」


「……」


 もともとお酒も甘い物も大好きな磯貝調教師である。そして、前から糖尿の事は漏れ聞いていた。ただ特に太っている訳でもなく、それ故にそこまで症状が重いとは鷹騎手も思っていなかったのだ。


「それでよ、どうだ、マジで調教師にならんか」


「……少し考えさせて貰っても?」


「ああ、お前が調教師になるっていうなら試験が受かるまでは踏ん張るぞ。ただ、そうで無いなら色々と片付けんとならんからな」


「判ってますよっていうか、頑張れるなら何とかしたらどうです?」


「馬鹿野郎、出来るならこんな事は言わん。お前が調教師になるなら俺が毎日厩舎に出る必要も無いだろうが」


 その後、雑談を交えながらも磯貝調教師は鷹騎手に色よい返事を引き出そうとする。それを何とかかわしている内に、車は予定の場所へと到着する。


「送ってもらい、ありがとうございました」


「おう、まあすぐまた会うだろうよ」


 そう告げて磯貝調教師の乗る車は走り出した。その車の後ろ姿を見ながら、鷹騎手はボソリと呟くのだった。


「何か嘘くさいんだよな、あのおやじ」


 そして、祝勝会の開かれる店へと入って行くのだった。


◆◆◆


 鈴村騎手は、今日もミナミベレディーの馬房へと何時もの様にパソコンとモニターを持ち訪れていた。来週、阪神競馬場で開催される京都大賞典へ出走するミナミベレディーの為に、過去のレース映像を見せ、打ち合わせを行う為である。

 それと共に、エリザベス女王杯で自分がサクラヒヨリに騎乗する事になった報告も兼ねていた。


「どう? 阪神競馬場での2400m、スタート直後の坂と、最後の直線の坂が要注意だからね」


「ブフフフン」(坂は何時もあるよ?)


 鈴村さんの説明を聞いているんですが、良く考えたら最後の直線って大体坂がありますよね? 何で態々疲れて走って来て、更に坂を上らないといけないのでしょうか? お馬さんに対する優しさが無いですね。


 きっと競馬場を作っている人達は、性格が悪いんだと思います。


「だから最後まで余力を残しておかないとキツイんだよ」


「ブヒヒヒヒン」(余力があった事なんて無いよ?)


 何となく会話が噛み合っていない気がしますが、何時もの事ですね。


「サウテンサンがハナをとって走りそうだけど、どうかなあ? 逃げても良いと思うけど、どう思う?」


「ブルルルン」(疲れないのがいい)


 そんな事を話しながら、鈴村騎手が映像を流してくれます。ただ、何時も思うのですが、馬がこの映像を見てどうするんでしょう?


「京都大賞典はね、ジャパンカップ出走予定の馬が多いの。だから、比較的余裕を持った仕上げの馬も多いかな? でも、キタノフブキ何かはこの後のGⅠは厳しいから京都大賞典にピークを持ってくるかもしれない」


「ブフフフン」(ご飯減らすの?)


 成程、よくアスリートとかでもピークがとか言いますよね。鈴村さんが言いたいことは何となく判るのですが、私のピークは何時なんでしょう? そもそも、ピークって気にした事がありませんよ? それよりレース前にご飯を減らされる方が問題です。


 そんな思いで首を傾げます。


 でも、鈴村さんはパソコンの操作など忙しいみたいで、私の様子に気が付きません。


「サウテンサンが逃げてくれる方がレース展開的には楽なのかな? 阪神競馬場だし高速レースになりそうだけど、最後の坂がどうかなあ」


 独り言なのか、私に聞かせようとしているのか判りません。ただ、準備が出来るまでにもう少し時間が掛かりそうですね。何かお腹が空いてきたので、飼葉桶を覗き込みました。


「ブヒヒン」(空っぽでした)


 良く考えたら普段はもう寝る時間なのです。その為、夕ご飯を食べきっちゃっていました。


「ブルルルルン」(鈴村さん、お腹が空きましたよ)


「ん? あ、ごめんねベレディー。もう少し待ってね」


 おお、待っていたら何か貰えそうです。私は素直に鈴村さんが何をくれるのか楽しみに待ちますよ。リンゴでしょうか? 氷砂糖でしょうか?


「ブフフフン」(何が貰えるのかなあ)


 漸くモニターを設置した鈴村さんが私に向き合います。


「よし、ベレディー、映像を流すからね」


 あれ? おやつは後ですか? もうお腹が空いてますよ?


 そんな私を余所に、鈴村さんは映像を流し始めます。でもね、ちゃんとリンゴとか貰えるか心配であんまり頭に入って来なかったのです。


「ブフフフン」(お腹が空きましたよ?)


「うん、逃げを打つのはメンバー的に厳しそうだよね」


 お腹が鳴りますよ? ご飯が先だと思いますよ? それと、出走するお馬さんの説明をされても、私は覚えられないと思います。その後、鈴村さんは一通り満足して、帰って行きました。


「ブヒヒヒン」(良く判りませんでしたねぇ)


「プフフン」


 お隣の馬房からドータちゃんが、興味津々に此方を覗き込んでいました。うん、ドータちゃんも慣れておいた方が、鈴村さんですからドータちゃんにも勉強会を開くと思うんです。


「ブルルルルルン」(勉強会の後は食べ物が貰えますからね)


「プヒヒヒン」


 ドータちゃんもおやつは欲しいと思うんです。

 あ、鈴村さんは帰りがけにちゃんとリンゴをくれましたよ。

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