第209話 サクラヒヨリと長内騎手とオールカマー 前編
『中山競馬場では、まもなく第※※回オールカマーの出走が行われようとしております。今年の出走馬は全14頭、中でもGⅠ4勝馬トカチマジックが1番人気。
今年に入り大阪杯を連覇、安田記念勝利とGⅠ2勝を挙げながら、距離的には2000mまでかと疑問視されながらの1番人気。ただ、何と言っても※※年度ダービー馬はこのトカチマジック! そんなトカチマジックが今年はこのオールカマーへ、芝2200mへと出走してきました。次走は秋の天皇賞、更にジャパンカップ、有馬記念と続くGⅠ戦線への試金石、どの様なパフォーマンスを見せてくれるのか。
そして、2番人気はサクラヒヨリ。何と言っても今年春の天皇賞馬。次走は未だ未定ながら、此処を勝てば見えてくるのは姉の刻んだ偉大なる軌跡。まずこのオールカマーで勝利を挙げて、次へのステップへと進みたい所。
鞍上は前走より騎乗している長内騎手。全妹サクラフィナーレで桜花賞勝利、その実績を買われての起用と、偉大なる姉ミナミベレディーとの直接対決を見据えての選択。此処で結果を残せるか。
3番人気は5歳馬ヤマギシンフォニー。今年の札幌記念を2着馬に1馬身差をつけて勝利、この勢いでオールカマーを勝利し、目指す先は秋の天皇賞。その為の……』
オールカマーの実況が始まる中、パドックでは出走馬達が輪になって回っている。
「距離的に言ってトカチマジックは微妙なんですか?」
「いや、ダービーだけじゃなく神戸新聞杯も勝ってるから距離的にも問題無い。宝塚記念はミナミベレディーが強すぎた。何と言ってもダービー馬だからな。当たり前だが油断は出来ない」
パドックの馬達を見ながらも、武藤調教師はやはりサクラヒヨリの状態が気になる。
「悪くないな」
「ヒヨリですか? そうですね。次走が本番ですから、まだ余裕を持たせています。それでも、しっかり仕上げて来ていますから」
そう告げる調教助手に大きく頷きながら、そのサクラヒヨリへと駆け寄って行く長内騎手の様子を見る。
「長内騎手次第か」
「そうですね。ただ、長内騎手もその事は理解されています」
「精神的に余裕が無さそうな所が怖いんだがな」
レース前に長内騎手と会話した限りにおいては、しっかりとした受け答えをしていた。ただ、今までと比較しても表情が硬い気がしたのは気のせいでは無いだろう。
「サクラヒヨリで結果が出せていませんからね。サクラヒヨリは人見知りしますし、長内騎手以外で騎乗できるかと言うと厳しいんですけど。そこは鈴村騎手がいますからね」
「ミナミベレディーも今年で引退だ。来年を考えると此処で結果が出なければ有馬記念はともかく、それ以外のレースは鈴村騎手にお願いする事になるだろう」
鈴村騎手に初めてサクラヒヨリの騎乗を依頼した時の事を思い出す。3勝目を目指しながらも、中々に安定した走りが出来ずサクラヒヨリは苦戦していた。
全姉であるミナミベレディーがGⅠを勝利した事にプレッシャーを受け、賭けに近い思いで鈴村騎手に騎乗を依頼したのだ。
「まさか、鈴村騎手が此処まで成長するとはな」
「ですねぇ」
女性騎手は斤量の優遇があるとは言え、体力的にも腕力的にも男性騎手に及ばない。過去の実績を見ても女性騎手でGⅠを勝利した騎手がいない事でも明らかだと思っていた。
その常識を覆したのがミナミベレディーと鈴村騎手であり、そもそも鞭を使用しない独特の騎乗で今やGⅠ8勝を挙げているのだ。
「昨年程では無いとはいえ、今年もしっかりと勝利数を重ねているからな」
「ですねぇ」
どうしても注目はミナミベレディーなどのGⅠ勝利へと意識が向かいがちだが、下位人気の馬での好騎乗が調教師や馬主達に評価され始めていた。特に先行馬においては、一定以上の結果も残している。
「世の中は判らんものだな」
「ですねぇ」
「お前、ですねぇしか言ってないぞ」
「いやあ、それ以外に言い様が無いですって。ただ、テキだって今や有名ですよ?」
「うるせぇ、結果が総てだ」
武藤調教師自身、いまや競馬界で異色の調教師、奇抜、奇矯、色々と言われながらも、馬の実力以上の結果を出す調教師として、ある意味評判になっていた。ただ、それを本人が喜んでいるかと言えば、勿論喜んでなどいないのだが。
◆◆◆
長内騎手は、サクラヒヨリの騎乗に迷いが生じていた。
サクラヒヨリのレースは幾度となく映像を見返して来たし、実際に自分で目にも見て来た。それ故に先行しての逃げ切り勝ちがベストであると思っている。そして、実際に鈴村騎手が騎乗して先行策で勝利している。ただ、前走の宝塚記念において鞭を使わない騎乗に限界を感じてしまったのだ。
「俺と鈴村騎手の違いはなんだ」
必死に過去のレース映像を見返して、自分と鈴村騎手の騎乗の違いを確認する。しかし、何度も何度も見返しても、そこまで大きな違いが無いのだ。
違いが無いのに勝てていない。それ故に伸し掛かって来るプレッシャーは強く、大きく、騎乗方法に迷い迄生じていた。先行前残りでの騎乗では勝てないのではないか。そんな思いが幾度も頭を過ってしまう。
「ヒヨリ、頑張ろうな」
本馬場へと入り、返し馬を行いながら長内騎手はサクラヒヨリへと声を掛けた。サクラヒヨリは耳をピクピクと動かして、長内騎手の問いかけに答える。
「いいか、あれがトカチマジックだ。最後の直線勝負になるぞ」
ゲート前でグルグルと回る馬達の中に、今日最大のライバルとなるであろうトカチマジックの姿が見える。思わず手綱を握る手に力が入る。そして、その長内騎手の変化を察したのか、サクラヒヨリは首を上下に振り始めた。
「大丈夫だ。ごめんな、ヒヨリは良い子だな」
鈴村騎手に教えられた様に声を掛けながら、首をポンポンと叩く。
スタート前のファンファーレが響き渡り、競馬場スタンドから観客の歓声と手拍子が起こる。その音にサクラヒヨリが驚いたのか、数歩後退った。
「大丈夫だぞ、そろそろゲート入りだ。頑張ろうな」
宥めるように声を掛けながら、ゆっくりと首をポンポンと叩く。
サクラヒヨリは耳をピクピクとさせ、落ち着きを取り戻したようだった。サクラヒヨリは6番という事で、若干遅めのゲートインとなる。その為、十分に落ち着いた様子で素直にゲートへと誘導された。
「ヒヨリは良い子だな。大丈夫だぞ」
ゲートへと入ってからは絶えず声を掛け続け、視界の隅で最後の馬がゲートへと誘導されるのが見えた。
「そろそろだぞ」
長内騎手は、サクラヒヨリへと声のトーンをかえて合図を送る。
ガシャン!
ゲートの開く音と共に、サクラヒヨリがゲートから飛び出した。
「よし! いいスタートだ」
ベストのスタートを切ったサクラヒヨリ、その鞍上で長内騎手は他馬の様子を確認する。すると、最内1番のスーパートゥナイトが同じように好スタートを切りハナをとりに行くのが見えた。
コーナーまでの距離が長い為、余裕をもって内へとサクラヒヨリを誘導しようとする。ただ、すぐ内側にいる5番コールスローが並走する形となり思うように内へ寄せる事が出来ない。
1コーナーへと入る段階で、先頭をスーパートゥナイト、その後ろにコールスロー、そのすぐ横にサクラヒヨリが並ぶ態勢でコーナーへと入る事となった。
先頭には立てなかったが、まずまずだよな。
この段階で逃げやハナをとってのレース展開は無くなる。その為、長内騎手は4コーナーからのロングスパートで勝負をかける事に決めた。その為、無理をする事無くサクラヒヨリのスタミナを温存するような騎乗へとスタイルを変える。
そして、先頭が向こう正面の直線へと入った所で、早くもザイタクユウシャが動き、後方から先頭を窺うような勢いで前に出て来た。
「早いな」
それでもレース自体は先頭をスーパートゥナイトが引っ張る形で進む。コールスローも素直に2番手に入った事で、体感的には平均ペースでのレースだと思う。そこへ早くもザイタクユウシャが前へ上がって来る事に、長内騎手は驚きを覚える。
2番手を走るコールスローを抜き去る事無く合わせる形でザイタクユウシャが並ぶ。そのすぐ後ろに控える形でサクラヒヨリが追走するが、先頭は依然スーパートゥナイトがハナをとっており、ペース自体に大きな変化は無い。
「まさかサクラヒヨリ対策か?」
このまま3コーナーから4コーナーへと入ると、自然と前2頭が壁になり外へと持ち出し辛くなる。その為、スパートするにもワンタイミング遅れる。
ただ、この中山競馬場において4コーナーは緩やかな下り坂である。その為に後半は自然と速度が上がる。また4コーナーは急なカーブであるが故に、速度が上がり最内が開きやすい傾向にある。
「最後の直線勝負と行きたい所だが」
最内を突いて最後の直線勝負と行きたい所ではあるが、それこそトカチマジックなどの末脚を考えると勝てるとは思えない。
3コーナーから4コーナーへ入る所でスパートしたいのだが。
前を走るコールスローとザイタクユウシャ。この2頭の動きを注視しながら長内騎手は、必死にこの後の展開を考えるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます