第208話 武藤厩舎の苦悩

 ローズステークスが終わり、秋華賞への出走馬の陣容が固まって来た頃、武藤厩舎ではサクラフィナーレの調教において難題が持ち上がって来ていた。


「前走の紫苑ステークスで3着になったのは仕方が無い。ただ、レースの映像を見る限り、最後の最後でフィナーレの気性が出たように思う」


 最後の直線、サクラフィナーレを差し切ったプリンセスミカミとラトミノオト、この2頭の末脚を侮る訳では無いが桜花賞などで見せたサクラフィナーレ最後の一伸びが紫苑ステークスでは見られなかった。

 それをスタミナ切れと考えるには全姉2頭の実績的に有り得ないように思われるのだ。


「ヒヨリやミナミベレディーが持つ闘争心というか、勝利への執念という物がフィナーレには薄い気はしていました」


 調教助手の言葉に、武藤調教師も同様の印象を持っていた。

 どちらかと言うとサクラフィナーレは、サクラヒヨリと比べると明らかに調教嫌いである。サクラヒヨリと一緒に調教を行う場合においては、サクラヒヨリがサクラフィナーレを追い立てるようにして走らせるのだが単走での調教ではすぐに手を抜こうとする。


「ヒヨリであれば此処でもう一伸びを期待する事も出来たと思うのだが」


 プリンセスミカミとラトミノオトに並ばれた段階で、もう一伸びしていれば勝てたと言うのが武藤厩舎での見解である。ただ、その一伸びを如何にしてサクラフィナーレから引き出すかの方法が思いつかないのだ。


「手鞭では伸びませんよね?」


「何とも言えないが、ここで手鞭を入れて伸びるとは思えないな」


 武藤調教師と調教助手は先日の紫苑ステークスの映像を睨みながら、何か良い方法は無いかと試行錯誤していた。


「いっそのこと鞭を使いますか。プリンセスミカミが最後伸びたのは少なからず鞭の効果もあったと思います」


「そうだなあ。ただサクラフィナーレは鞭を打たれた事が無いからな。ましてや、ヒヨリやミナミベレディーと一緒に調教している時に鞭は使えないぞ」


 特にミナミベレディーは鞭を打たれる事を極端に嫌うそうだ。更には自身だけではなく、サクラヒヨリやサクラフィナーレに対して鞭を使う事すら嫌う。

 それ故に今まで鞭を使う事無く調教を続けて来た。それで結果を出してくれていたサクラヒヨリはともかく、今回のレースを見る限りにおいて、此の侭ではサクラフィナーレは最後の決め手に欠ける事となりかねない。


「困りましたね」


「ああ、楽に勝てるレースなど無いからな。其処迄サクラフィナーレは飛び抜けた力はない」


 日々調教を行っているからこそ、武藤厩舎の面々はその馬の持つ能力を把握している。そして、サクラヒヨリとサクラフィナーレを比べた時、明らかに能力的にサクラヒヨリの方が上だと感じていた。


「シャドウロールやブリンカーでどうこうなる問題じゃありませんよね」


「そうだな。サクラハキレイ産駒が此処まで勝てているのは、不思議と馬自身が勝利への執念のようなものを持つからだな。それが馬具などで如何にか出来るとは思えない」


 サクラフィナーレが勝ち負けを理解しているかという点においては、理解していると思っている。特に桜花賞で最後に伸びたのは負けまいという気持ちからであろう。その為、武藤調教師は桜花賞と今回のレースを比較して考えてみた。


「一つは距離か、芝1600mと芝2000m、ただなあ、スタミナ切れとは思えないんだよな」


「何方かと言うと適距離は芝2000m以上のはずですからね」


「そうすると、レースにプリンセスミカミがいた事か?」


 レース前のパドックにおいても、プリンセスミカミを気にかけている様子は見られた。これは、サクラフィナーレだけではなく、プリンセスミカミも同様である。


「レースと言う意識が薄くなったとかですか?」


「判らん。ただ他の馬もいたからな。それは無いと思うんだが。となると、プリンセスミカミがいた事でペース配分が狂ったか?」


 ただ、レース映像を見る限りにおいて問題があるようには見えない。


「長内騎手はどう判断していた?」


「終始先頭にいた事が大きいかもしれないとの事です」


「無くはないな。そうすると試すなら好位差しか。ただ、そう上手く逃げてくれる馬がいるかどうか。ウメコブチャもライントレースも差しか追い込みだ。どのみち前寄りのレースをしなければ勝てないだろうが」


 武藤調教師は、秋華賞での作戦に頭を悩ませるのであった。


◆◆◆


 武藤調教師がサクラフィナーレのレースをどれだけ悩み、調教をどうするか試行錯誤していようと、時間は無情にも過ぎ去って行く。そして、気が付けばオールカマーの前日になっていた。


「サクラヒヨリの調子は悪くなさそうだな」


 今週に行われた追切においても安定した走りを見せ、明日のレースにおいて勝ち負けを期待できる仕上がりとなっていた。


「まだ余裕を残してこの状態ですからね。次走へ向けての一叩きと考えればベストの状態だと思います」


 幸いにも明日の天気は晴れという事も有り、前走は雨による影響も加味されて、このオールカマーではサクラヒヨリは2番人気に推されていた。


「2番人気でもあるからな。ここは勝っておきたいところだが、まさかトカチマジックが此方に出走して来るとはな」


「毎日王冠では天皇賞までの期間が短いと判断したんでしょう。ただ、ここでサクラヒヨリが勝つと、外野が天皇賞秋へ出走しろと煩くなりそうですから丁度良いのでは?」


「トカチマジックに負けるとは限らないぞ。もっとも勝てばそれこそ今以上に周りは煩くなるだろうがな」


 1番人気に推されたトカチマジック。武藤調教師としてはトカチマジックが此処に出走して来るとは予想外だった。それ故に苦虫を噛み締めたような表情になる。


「天皇賞秋も悪くはないぞ。ただやはりメンバーがな」


 すでに出走を表明しているトカチマジックを筆頭に、サウテンサン、シニカルムール、オレナラカテル、マナナンマクリールなど芝2000mを得意とするであろう強力な牡馬が目白押しとなっている。その中でサクラヒヨリが勝てるかと言うと、まだエリザベス女王杯へ出走する方が確率的に言っても高いと思っている。


「プリンセスフラウはダイレクトに天皇賞秋へ出走、その後、ジャパンカップ、有馬記念と3戦する予定みたいですね」


「ああ、てっきりエリザベス女王杯連覇を狙って来ると思っていたんだが、まあこちらとしては助かったな」


 実際の所、プリンセスフラウを所有している盛田氏がどういう判断をしたのかは判らない。ただ、伝え聞く限りにおいて本当かどうかは判らないが、現役牝馬でプリンセスフラウが戦う価値があるのはミナミベレディーのみと言ったとか言わないとか。

 それ故に、ミナミベレディーが出走しないエリザベス女王杯は回避しての秋の天皇賞出走を決めたらしい。


「サクラヒヨリが格下と言われたみたいですが、テキとしては構わないんですか?」


「ん? ああ、盛田さんは多少面識がある。あの穏やかなご夫妻がそんな事を言うはずがない。またどこぞの連中が、サクラヒヨリを秋の天皇賞に出走させようと煽っているんだろう」


 サクラヒヨリのオールカマー後の次走に対し、武藤厩舎は今の所沈黙を守っていた。世論的にはやはりミナミベレディーの天皇賞春秋制覇を受けて、春の天皇賞を制覇しているサクラヒヨリに同じく春秋制覇をという意見が強い。

 サクラヒヨリが秋華賞を制覇している事も有り、一見すると秋華賞を逃したミナミベレディーよりも芝2000mは適距離では無いかと言うテレビ解説者も居る為、何かと周囲が煩くなっているのだ。


「実際の所、天皇賞春秋制覇を狙うのも悪くはないんじゃないですか?」


「お前まで言うか。まあエリザベス女王杯へ出走したからと言って確実に勝てるとは限らないからな。あとで天皇賞に出しておけば良かったと思わないかは判らんが。ただ、まずはエリザベス女王杯だ。ここを今年獲れないようならどのみち天皇賞秋なぞ獲れん」


 昨年と比較しても、今年のエリザベス女王杯の出走メンバーは一段下に見られている。何と言っても昨年までの牝馬が強すぎたのだ。武藤調教師としては、ここでエリザベス女王杯を獲り、来年こそ天皇賞秋に挑戦するつもりであった。


「トカチマジックも今年引退するかもしれん。そう考えれば来年の方が確実だろう」


「え? トカチマジックは今年引退するんですか? まだ何の話も聞こえて来ないんですが」


 調教助手は初めて聞く話に驚きを顕わにする。


「まだ表明してはいないがな。ただ、ミナミベレディーが今年で引退するんだ。そうなると初年度の種付けを狙ってトカチマジックも引退しても可笑しくはないだろう」


 北川牧場と十勝川の関係は年々深くなっている。そして、十勝川は恐らくミナミベレディーとトカチマジックの間に生まれる産駒に夢を見ていると武藤調教師は考えていた。


「さて、気持ちを切り替えてまずはオールカマーだ。その後にフィナーレの秋華賞もあるしな」


 武藤調教師はそう言うと、厩舎の馬房へと向かうのだった。

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