第206話 紫苑ステークス後の一コマ

『向こう正面に入って早くも後方から2番ラトミノオトが上がって来た。13番手から前を走る馬を一気にかわし8番手。


 先頭は未だ変わらずサクラフィナーレ、このまま各馬3コーナーへ。


 サクラフィナーレのすぐ後ろにはニムラトイ、その後方にカレイキゾク、すぐ外にプリンセスミカミと続いて各馬3コーナーから4コーナーへ。


 ここで後方の馬もスピードを上げ馬群が縮まって来ました! 馬群が一団となって直線へ。


 先頭は依然サクラフィナーレ、直線へ向け早くもスパート! 釣られてニムラトイとカレイキゾクも速度を上げた。プリンセスミカミやや遅れたか。

 後方から一気に上がって来たラトミノオト、現在5番手。更に後方からはハルノデザインが一気に来た!


 直線に入りプリンセスミカミに鞭が入った! 前に追い付かんばかりの加速! 更にラトミノオトも追いすがる! 先頭ではサクラフィナーレ、ニムラトイが先頭争い、カレイキゾクは一歩後退。


 しかし中山競馬場、最後の直線は短いぞ! 先頭サクラフィナーレ此の侭逃げ切るか! 2番手にニムラトイ、カレイキゾクの脚は完全に止まった。


 最内から伸びて来たのはプリンセスミカミ、一気にカレイキゾクをかわして現在3番手、大外からラトミノオトが伸びて来た! これは前を捉えるか! 先頭は依然サクラフィナーレ必死に粘る。


 その内からプリンセスミカミ、外からはラトミノオト、勝つのはどの馬だ! ラトミノオトに鞭が入る! 先頭は依然サクラフィナーレ、粘れるか! ラトミノオト、プリンセスミカミ共に伸びて来た! サクラフィナーレに並んだ! 並んだ!


 勝つのはどの馬だ! サクラフィナーレか! ラトミノオトか! プリンセスミカミか! ほぼ3頭並んでゴール! これは写真判定だ! 3頭ほぼ並んでゴール!


 果たして勝ったのはどの馬だ! ほぼ同着! 勝ったのは……』


 レースをじっと見ていた太田調教師は、拳を握りしめモニターを見つめている。ゴール前のスロー映像が流れ、その映像を睨みつけるように眺める。


「同着、せめて同着であってくれ」


 そう祈りながらモニターを見つめるが、無情にも1着に2番、2着に12番の番号が表示される。そして、その間に表示されたのは“ハナ”の文字。


「はぁ」


 思わず溜息が零れる。表示された着順を暫く眺めた後、もう一度大きく息を吐いて鈴村騎手を労う為に太田調教師は控室へと動き始めた。


「太田調教師、申し訳ありませんでした」


 太田調教師がやって来るのを認めた鈴村騎手は、深々と頭を下げる。自身としてはベストの騎乗をしたつもりではある。ただ、この世界では過程ではなく結果が伴わなければならない。それ故に、人気より上位に入ろうとも勝たなければならない。


「いえ、見事な騎乗でした。2着に入りましたから秋華賞への優先出走権も手にしました。悔しい気持ちはお互いにあると思いますが、本番は次走だと思っています」


 桜花賞馬であるサクラフィナーレには同じくハナ差で先着している。勝ったラトミノオトを褒めるべきであろうし、今日の鈴村騎手の騎乗は、太田調教師から見ても文句をつけるところなど無い。もっとも、それ故に悔しさも倍増するのだが。


「おや、遅くなりましたね」


 そこへプリンセスミカミの馬主である三上がやって来た。その表情は満面の笑みを浮かべており、ハナ差で重賞制覇を逃したことを気にした様子は欠片も無かった。


「鈴村騎手、お疲れさまでした。いやあ、見事な騎乗でしたよ、手に汗握るレースとはこの事ですね」


 そう言って三上は鈴村騎手と太田調教師に両掌を開いて見せる。二人は思わず顔を見合わせて苦笑を浮かべる。


「ありがとうございます。ただ、勝ちきれず申し訳ありません」


 改めて三上に頭を下げる鈴村騎手。そんな鈴村騎手に三上はとんでもないと慌てて頭を上げさせた。


「あわよくば3着に入って秋華賞に出れたらと思っていました。そこで2着ですから謝っていただく事などありませんよ。やはり重賞は厳しいと痛感しましたが、この調子で行けば何処かの重賞くらいなら獲ってくれそうです。それこそ中山牝馬とかですかね?」


 そう言ってウインクする三上であるが、そのウインクが上手く出来ず両目を瞑ってしまう。その為、鈴村騎手の表情に更に苦笑とも笑いとも言えないものが浮かぶ。


「ありがとうございます。次の機会があれば是非勝利を掴み取りたいと思います」


 今回の騎乗はあくまで刑部騎手の怪我による乗り替わりである。それ故に次走で鈴村騎手が騎乗できるとは決まっていない。鈴村騎手としては、是非ここでサクラハヒカリ産駒であるプリンセスミカミに、自分の手で初の重賞を齎してあげたかった。しかし、残念ながら叶う事は無かったのだが。


 ベストの騎乗をしたと思う。でも、あと少しだったんだよね。


 幾度とハナ差のレースを経験していた。その為、最後の瞬間サクラフィナーレには勝ったと思った。間にサクラフィナーレがいた為、大外にいたラトミノオトは一切意識していなかったのだ。


 油断があったんだろうか? 最後に勝ちを意識した?


 改めて最後の瞬間を思い出すが、油断などしていたらサクラフィナーレにすら勝てていなかっただろう。そう考えれば、自分に出来るベストの騎乗をしたと思う。


 太田調教師と三上に挨拶をした後、ロッカールームへ向かいながら鈴村騎手はふと立ち止まって呟いた。


「浅井騎手との約束守れなかったなあ」


 浅井騎手に代わり自分が騎乗する事となった。そんな自分に浅井騎手が万感の思いで託したプリンセスミカミ。自分の思いと浅井騎手の思い、桜花ちゃんの、勿論三上や太田調教師、多くの人達の思いを担っている。


「勝ちたかったなあ」


 ぐっと歯を噛み締め、拳を握りしめてロッカールームへと入って行くのだった。


◆◆◆


「申し訳ありませんでした」


 長内騎手は武藤調教師へ頭を下げる。


 1番人気という事もあるが、秋華賞へ向けての弾みをつけるという点においても決して落として良いレースでは無かった。幸い勝利したラトミノオトとほぼ同着の3着に入り、多少は存在感を示す事は出来た。しかし、今回出走したメンバーを考えると、長内騎手としてはやはりここは勝利しておきたかった。


「本番前の前哨戦です。まずまずのレースが出来た事で良しとしましょう。勿論、勝てているに越した事はなかったですがね」


 武藤調教師はそう告げるが、その表情には苦笑が浮かんでいる。


「そうですね、中山競馬場という事もあります。秋華賞は今年までは阪神競馬場ですから桜花賞の再現に期待しましょう。ミナミベレディーも本番前のレースはあまり勝率は良くありませんでした。次走に期待しますよ」


 桜川氏も同様に苦笑を浮かべているが、本番へ向けしっかりと釘を刺してくる。


 長内騎手はもう一度大きく頭を下げ、騎手控室へと戻って行く。その後ろ姿を見ながら、武藤調教師は小さく溜息を吐く。


「今回の勝敗以上に長内騎手の気持ちの部分が心配ですか? 鈴村騎手に先着を許しましたからね。しかも、格下と思っていたプリンセスミカミに騎乗してですから」


「ゴホン。あ~、まあ、先程の騎乗で長内騎手はそれなりの結果を出したと思います。ただ、重賞となると中々に厳しいと改めて思い知らされました」


 武藤調教師の様子を見て、桜川氏がそう尋ねる。武藤調教師は、思わず漏らしてしまった溜息を誤魔化すように咳払いをした後、桜川氏の質問に答えた。


 武藤調教師としては、馬番的にも先行するにベストであり、レース展開的にも想定通りのレースを行ったと思っている。ただ、それ故に次走の秋華賞を勝つためには、今のままでは何かが足りないのではと思ってしまったのだ。


「紫苑ステークスでは余裕を持った仕上げでした。秋華賞ではより万全の仕上げで行きますよ」


「そうですね。ただ、やはり競馬は難しいですね」


 桜川氏に不安を感じさせないよう告げる武藤調教師であるが、意外に桜川氏はサバサバとした表情で答える。桜川氏は、そんな自分を武藤調教師が怪訝そうに眺めている事に気が付いて照れ臭そうに笑う。


「う~ん、私の様子が不思議ですか?」


「そうですな。率直に言って、もう少し悔しそうにされるかと思っていました」


「勿論勝てたら嬉しかったですし、あと少しだったとは思いますよ。ただ、そもそもサクラヒヨリにもサクラフィナーレにも夢を見させてもらっているんですよ。私の所有する馬がGⅠを人気上位で出走するんです。こんな素晴らしい事はありませんよ」


 そう告げる桜川氏の表情は、実に楽しそうである。


「次走の秋華賞は勝てるように頑張らせていただきます。長内騎手もリベンジをしてくれるでしょう」


「しかし、まさか鈴村騎手がプリンセスミカミに騎乗するとは思いませんでしたね。流石はサクラハキレイ産駒特化と噂されるだけありますね。サクラフィナーレが負けるとは思いませんでした」


「エリザベス女王杯での鞍上は再検討した方が良いですか」


 桜川は、この武藤調教師の質問に少し考える素振りを見せながらも慎重に答える。


「オールカマー次第でしょうか」


「そうですな、オールカマー次第ですな」


 桜川にそう告げて頭を下げる武藤調教師に、桜川氏は頷くと共に一言注意をする。


「無理は駄目ですよ? サクラヒヨリもサクラフィナーレも、北川牧場からお借りしていると私は思っているんですから」


 桜川氏の言葉に武藤調教師は頷き返すのだった。

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