第204話 鈴村騎手とプリンセスミカミの紫苑ステークス(前編)

 8月から遠征が続いていた鈴村騎手は、9月第2週にようやく、美浦トレーニングセンターへ帰って来た。8月は札幌競馬場でレースがあり、そして昨日までは新潟競馬場と中々に体力も気力も消耗する遠征であった。

 勿論、遠征と言ってもレースが終われば美浦へと戻って来る。そして、そこで騎乗予定の馬に調教を行う。そして、金曜日の夕方までに再度競馬場へと向かう。慣れているとはいえ、移動だけでも疲労は発生する。


「はあ。しばらくは中山がメインだから一息つけるかな」


 そう言いながらも、美浦トレーニングセンターで自身が騎乗する馬の調教も行わなければならない。それ故に休めるかと言うと勿論そんな事は無いのだが、それでも週末に大きな移動が無いと言うのは気持ち的に大きい。


「8月に何とか7勝出来たのは大きいかな」


 GⅠクラスの馬は7月から8月のレースには殆ど出走はしない。それ故に比較的混戦の様相を見せる夏競馬だが、ここで鈴村騎手はどうにか30勝の大台に乗せ今年の勝利数を31勝としていた。


 昨年、自身が新馬や未勝利馬で勝利し、お手馬となった馬も多い。その中にはオープンクラスとなった馬もいる。その為、昨年とは違い鈴村騎手が騎乗するレースのグレードは若干上がっていた。この為、昨年程の勝利数は稼げていないが、鈴村騎手としては昨年が出来過ぎなのだと思っていた。


「今週末は何と言っても紫苑ステークスよね。浅井ちゃんには悪いけど、プリンセスミカミでしっかりと勝ちを拾いたいな」


 鈴村騎手のサクラハキレイ産駒に対する思いは非常に強い。それであるのにミナミベレディーは今年で引退となり、サクラヒヨリは今後騎乗する機会があるかは不明。トカチドーターへの騎乗チャンスが貰えているとはいえ、まだ出走時期は未定だ。


 そんな中、まさかのプリンセスミカミへの騎乗依頼である。主戦が刑部騎手になったと浅井騎手から聞いていたが、まさかの怪我で乗り替わりとなり、その話が自分に来るとは思ってもみなかった。


 騎乗経験も有り、勝利実績もある浅井騎手へ依頼が行きそうなものだが、恐らく中山での騎乗経験を重視して声が掛かったのではと思っている。


「サクラハヒカリ産駒での初重賞制覇。出来たら狙いたいな」


 北川牧場としては、サクラハキレイの繁殖牝馬引退を受けて、次代の柱となる繁殖牝馬が今はいない。牧場としてはミナミベレディー他のGⅠ馬に期待を寄せているのであろうが、やはり既にいるサクラハキレイ産駒の繁殖牝馬で何処かの重賞を勝って欲しいと願っていた。その事を知っている鈴村騎手としては、万全の状態で紫苑ステークスに挑むつもりであり、何としても勝利を掴むつもりである。


「今までの馬は中山牝馬ステークスどころか、オープンまでも遠い道みたいだしね」


 そんな中、漸くプリンセスミカミがオークスへ出走し、馬主である三上氏も北川牧場の面々も次こそは初重賞制覇と期待を寄せている。


「ただ、サクラフィナーレと同じレースなんだよね」


 武藤厩舎に所属しているサクラフィナーレは、所属が美浦トレーニングセンターという事も有り紫苑ステークスへ出走を表明している。それに対し、プリンセスミカミは本来であれば栗東トレーニングセンター所属でローズステークスに出走するような気もするが、出走メンバーを嫌ったのか紫苑ステークスに登録して来た。


 その為、早くも叔母VS姪の対決が実現してしまったのだ。


「サクラフィナーレは騎乗した事は無いし、其処迄気にはならないけどね」


 最初から長内騎手が騎乗しており、調教でもサクラフィナーレに騎乗した事は無い。サクラヒヨリの調教時に併せ馬などで一緒に調教を行う事はあるが、鈴村騎手としては愛着があるかと言えば首を横に振るだろう。


「さてさて、プリンセスミカミはどんな馬かなあ」


 自身と同じ様に今日の朝早くにプリンセスミカミは到着しているはずだ。そのプリンセスミカミに出会えるのを楽しみにしながらも、まずはミナミベレディーの馬房へと顔を出すのだった。


◆◆◆


 紫苑ステークス当日、鈴村騎手は2レース未勝利戦と7レース3歳1勝クラスで共に勝利を収め、久しぶりの1日2勝を挙げていた。


「うん、良い感じできているね」


 5レースの2歳新馬戦では3着と流石に紫苑ステークスまで全勝とは行かなかったが、久しぶりの中山競馬場での騎乗に手応えを感じていた。


「鈴村騎手、良い感じだな」


「ありがとうございます。何とかまずは年間40勝が見えてきました」


 そう声を掛けて来たのは栗東所属の立川騎手。比較的交流のある立川騎手に、鈴村騎手も笑顔で答える。


「昨年78勝挙げているくせに謙虚だな」


「昨年は出来すぎでした」


「まあな。昨年は神がかっていたからなあ」


 実際に勝率と言う面でも昨年は凄かったな。自分でもそう思うくらいに勝利を身近に感じられたのだが、そう考えれば今年は地に足がついたような気分である。もっとも、その地面も嘗てとは比べ物にならない高さにあるのだが。


「そういえば、浅井騎手が凹んでいたぞ。プリンセスミカミに鈴村騎手が騎乗する事になったってな」


 そう告げる立川騎手に思わず苦笑を返す。


 実際に、自分がプリンセスミカミに騎乗する事となって鈴村騎手も浅井騎手へと連絡を入れていた。そして、プリンセスミカミの癖や注意点なども教えて貰っており、最後の最後にぜひ勝って欲しいとエールも貰っている。


「電話で話していますから知っています。でも、プリンセスミカミにぜひ重賞を獲らせてあげて欲しいと頼まれました」


「そうか、まあだからと言って手加減はしないがな」


 そう告げる立川騎手だが、その立川騎手が騎乗する馬は7番人気と勝つには中々に厳しいように思う。もっとも、そこを如何にかして来るのが一流ジョッキーであるのだろうが。


 そして、時間が来て鈴村騎手はパドックへと向かう。そこでは、プリンセスミカミがちょっと神経質そうに耳をピコピコさせて周りを気にしている。


「プリミカちゃん、大丈夫だよ」


 鈴村騎手はプリンセスミカミの横に来て、まず自分の匂いを嗅がせ、次に宥めるように優しく首をトントンと叩いてあげる。すると、プリンセスミカミも鈴村騎手へ顔を向け、頭を擦りつけるような挙動をする。


「大丈夫、大丈夫。怖く無いからね」


 ミナミベレディーやサクラヒヨリとは違う挙動に思わず笑みが浮かぶ。プリンセスミカミは、鈴村騎手が笑顔を浮かべた事も有り少し落ち着いた様子を見せ始めた。


「ブフフフン」


「大丈夫だよ、ほらサクラフィナーレもいるよ」


「ブヒヒヒン」


 プリンセスミカミもサクラフィナーレがいる事には気が付いているようで、しきりにサクラフィナーレに視線を送っている。そして、サクラフィナーレも同様にプリンセスミカミを気にしているようだ。


「パドックへ入った所でサクラフィナーレに近づこうとして、ちょっと大変でした」


 そう言って苦笑を浮かべるのは太田厩舎の調教助手である。


「北川牧場ではいつも一緒に走り回っていましたから」


 恐らくプリンセスミカミとしては、何故サクラフィナーレの傍に行ってはならないのかとご機嫌斜めになっていたようだ。


「短い時間でしたが美浦でミナミベレディーと一緒に調教できましたから、御蔭で私に馴染んでくれたみたいですね」


 それこそミナミベレディーの御蔭であろう。群れの上位者としてプリンセスミカミは自分を認識しているように思う。そして、騎乗し誘導すると、プリンセスミカミは素直に反応してくれた。


「頑張ろうね」


「ブルルン」


 プリンセスミカミに騎乗しながら、サクラフィナーレを含め他の出走馬の状態を見る。流石に重賞であり、どの馬もしっかりと仕上げてきている。ただ、これでも秋華賞を意識しての余裕を見た仕上がりなのだろう。


 重賞は甘くないなあ。


 ミナミベレディーに騎乗する様になってから、鈴村騎手はレースで騎乗している時には決して弱音を口にしない様にしていた。馬が人の言葉を理解しているとは思わないが、言葉に含まれる何某かの物は感じていると思っている。


「大丈夫だよ、サクラフィナーレも一緒に走るからね。頑張って勝つよ」


 プリンセスミカミの首をポンポンと叩き宥めながら、本馬場へと入って行くのだった。

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