秋のレースの前哨戦
第203話 馬見厩舎と武藤厩舎と太田厩舎
私とヒヨリ、フィナーレとドータちゃん、何と過去最多4頭一緒の馬運車で美浦に帰って来ました。ミカミちゃんは栗東トレーニングセンターへ向かうので、私達とは別の馬運車で移動なんですよね。
「ブフフン」(疲れたのです)
慣れ親しんでいるヒヨリ達ですし、ずっと夜も一緒に過ごしていましたから馬運車で一緒でも気にはならないんです。ただ、絶えず誰かが話しかけて来るんですよね。どちらかと言えばぐっすり眠りたい私としては、結構疲れちゃいました。
「よしよし、今回はそれ程体重も増えていないな」
「運動不足という感じもしませんし、聞いた話では姉妹達と走り回っていたみたいですね。特に怪我なども見られませんが、何か肩透かしというか複雑な心境ですよ」
何か調教師のおじさん達が笑いながら失礼な事を言っていますね。ただ、今回の放牧はリンゴとか貰える量が少なかったんです。ドータちゃんとかがいると、何となく私だけ食べるのは気が引けちゃいます。
まだまだ体の小さいドータちゃんは、今後レースで勝つためにもしっかり食べて大きくならないとですよね。フィナーレやミカミちゃんもそうですし、ちびっ子たちはそれこそしっかり食べて大きくならないとなので、どうしても食べる量が何ですよね。
「ブルルルン」(リンゴをくれても良いのですよ?)
お家に帰って来たと思ったらお腹が空きました。その為、馬房に設置されている桶の中を覗き込みます。
空ですよ? 駄目ですね。
思わずジト目で調教師のおじさん達を見ます。すると、おじさん達も気が付いたみたいです。
「さっそくご飯を要求か。まあベレディーだしな」
「馬運車だとおやつ玉くらいですからね」
「ブヒヒヒン」(お腹が空きましたよ)
兎に角ご飯をください。まずはご飯を食べないと力が出ないのです。
その後、おじさん達が私の澄んだ無垢な視線に耐えられなくなったのでしょうか? 桶にご飯を入れてくれました。
「ブルルルン」(やっとご飯だ~)
モソモソご飯を食べていると、おじさん達はちゃんとドータちゃんにもご飯をあげてくれていました。うんうん、ドータちゃんもきっとお腹が空いていますからね。
ただ、リンゴはもう少し多めに入れてくれても良いと思うのです。そんな気持ちでご飯を食べて、漸く人心地つきました。
「ドーターも馬体がしっかりしてきましたね」
「以前と比べても、飼葉の喰いもいいな。一安心といった所だ」
「年内にはデビューしたい所ですが、まだ何とも言えませんね」
今度は私そっちのけで、おじさん達はドータちゃんの様子を見ています。私に用事が無いみたいなので、寝藁を整えて横になりますよ。
「……ベレディーはご飯を食べたらさっそく寝るんですか」
「まあ、ベレディーだからな」
馬運車で思うように寝れなかったのですよ。仕方が無いと思うのです。
◆◆◆
武藤厩舎へと戻って来たサクラヒヨリとサクラフィナーレは、さっそく獣医の検診を受けていた。
「どこも異常はありませんね。しっかり休養もとれたみたいで、非常に良い状態だと思います」
獣医師の診断に武藤調教師は大きく頷き返した。特に武藤調教師が気に掛けていたのはサクラフィナーレの状態であり、これであれば早いうちに仕上げる事も出来ると安堵していたのだ。
「紫苑ステークスにエントリーしていますから、焦らなくても仕上げられそうで安心しましたよ」
体質的に何方かと言えばミナミベレディーに近いサクラフィナーレは、サクラヒヨリに比べ太りやすいように思える。その為、休養明けの体重増加を気にしていたのだが、期待以上の状態でこれなら9月の紫苑ステークス出走に懸念は無さそうだった。
「サクラヒヨリも良い状態です。これは秋のレースは期待できそうですね」
競馬協会に長く在籍している獣医師の言葉に、武藤調教師の表情に笑顔が浮かぶ。
「サクラフィナーレは紫苑ステークスに出走させる予定です。それにはトレセンに戻すのが遅いかと悩んだんですが、期待以上に良い状況でホッとしました。それとサクラヒヨリはオールカマーに出走させるつもりです。どうやらミナミベレディーは京都大賞典からのジャパンカップで行くようですからな」
サクラヒヨリとしては、当初は府中牝馬ステークスからのエリザベス女王杯を予定していた。ただ、そうなるとレース間の日数が少ない為にサクラヒヨリの状態に不安はあった。
その為、馬見厩舎へと幾度も探りを入れた中で、漸くミナミベレディーの秋の出走予定が判った為に、漸くサクラヒヨリのレースが確定した。
「サクラヒヨリは秋の天皇賞は回避ですか」
思わずそう尋ねられるのは、何と言っても昨年にミナミベレディーが天皇賞春秋制覇をしていたからだろう。姉妹揃っての偉業達成に、どうしても世間の注目が集まってしまうからだった。
「ええ、そちらはサウテンサンに任せて、昨年獲り損ねたエリザベス女王杯を何とかしたいと考えています。サクラヒヨリもGⅠを3勝していますが、ここからは厳しいと見ていますよ。今年はエリザベス女王杯を勝利して、まずは楽になりたいですね。まあ、贅沢な悩みですが」
そう言って苦笑する武藤調教師であるが、だからと言ってエリザベス女王杯が楽に獲れるという訳では無い。ミナミベレディーが飛びぬけて目立っているが、プリンセスフラウを筆頭に有力牝馬が目白押しである。
「目先の紫苑ステークスでフィナーレに無事勝利して欲しい。フィナーレは今一つ姉達に比べ線が細い気がするんですよ。さてどうなりますか」
武藤調教師の言葉に、獣医師もサクラフィナーレを思い浮かべ、何となく武藤調教師の言いたいことが理解できるのだった。
そして、武藤調教師はサクラフィナーレを紫苑ステークスに登録した際、出走予定馬にプリンセスミカミがいる事に驚きの声をあげる。
「おいおい、こっちに遠征して来るか」
3歳牝馬の秋のレースは、何となく栗東はローズステークス、美浦は紫苑ステークスに分かれる傾向があった。ローズステークスは現在京都競馬場の改修工事の兼ね合いで芝2000mと紫苑ステークスと同じ距離となっている。それでも、どちらへ出走させるかは輸送距離の兼ね合いと出走馬の顔ぶれ次第ではある。
武藤調教師としては、それ故にプリンセスミカミはローズステークスへ出走させると思っていたのだ。
「ローズステークスのメンバーだと厳しいと判断したのだろうが、フィナーレとなら勝負になると思われたか?」
自身が管理するサクラフィナーレを下に見られたような気がして若干気分は宜しくない。
「意地でも負けられなくなったな」
そう呟いて、武藤調教師はサクラフィナーレの調教を確認に行くのだった。
◆◆◆
「よし、勝ち負けはなんとか行けそうだな」
プリンセスミカミの状態を見て太田調教師は思わず笑顔を浮かべる。北川牧場から栗東へと戻って来た状態は、太田調教師が考えた以上に良い状態を維持している。その為、何としてもまずは重賞を1勝させてやりたいと思っていた。
「あちらも付き合いがあるからな。果たして良い返事が貰えるかどうか」
太田調教師は、プリンセスミカミの次走において、当初刑部騎手に依頼するつもりであった。浅井騎手がプリンセスミカミで2勝してはいても、重賞経験が乏しい事も有り刑部騎手で行く事を決めていた。
ただ、その刑部騎手が先日のレースで運悪く落馬し、怪我によって紫苑ステークスで騎乗する事が難しくなってしまった。
この段階で、太田調教師は浅井騎手への打診も考えたのだが、紫苑ステークスが中山で行われるレースである事でふと鈴村騎手のその日の予定を確認する。そして、紫苑ステークス出走の週に鈴村騎手は中山で合計7鞍騎乗するも紫苑ステークスでは騎乗予定が無い事を知る。
「まずは重賞を1勝だ。後の事はそれから考えれば良い。駄目もとで鈴村騎手に依頼してみるか」
サクラハキレイ産駒において、鈴村騎手の実績は飛びぬけている。騎乗スタイルとしては鞭を使わないなど独特のレースを行うが、サクラハキレイ産駒以外のレースでも太田調教師が見てもメキメキと実力を付けてきている。
その為、何とかプリンセスミカミで重賞勝ちが欲しい太田調教師としては、ここ2年続けて紫苑ステークスに出走し、更に昨年にはサクラヒヨリで勝利している鈴村騎手に注目したのだった。
「鈴村騎手の代理人は、……馬見厩舎で良かったのか?」
直接は鈴村騎手と面識のない太田調教師であるが、馬見厩舎とはまだ交流があった。更にプリンセスミカミが美浦へ行った際にミナミベレディーと一緒に調教をお願いしていた為、思いついたら吉日とばかりに電話を取るのだった。
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