第201話 それぞれの次走への悩み

 「香織さんは今頃北川牧場かなあ」


 浅井騎手は篠原厩舎所属の馬に調教をつけながら、鈴村騎手の事を思い浮かべる。


 鈴村騎手からは、先週末の札幌で開催されるレースが終わると、そのまま翌日には北川牧場へ放牧されているミナミベレディー達の様子を見に行くと聞いていた。浅井騎手としては、出来ればタイミングを合わせて北川牧場へ一緒に行ってみたい所ではあったが、厩舎所属であるが故に中々休みを取るのは難しい。


「札幌で騎乗がないと厳しいなあ」


 馬房の掃除をしながらも、ついつい意識は鈴村騎手の事や、北川牧場の事などを考えてしまう。もっとも、今週末も有難い事に5鞍の騎乗依頼があり、その馬の調教などに忙しく、中々休みを取る事は難しい。


 先日騎乗したトカチフェアリが無事に1勝を挙げ、無事に次走も騎乗させて貰える事になった。ただ、浅井騎手の感じでは、恐らく次に無事2勝目を挙げたとしても、乗り替わりとなりそうな気がしている。


「黒松調教師は、ベテラン騎手を起用したがるからなあ」


 同じ栗東に所属している厩舎の事である。当たり前に情報は入って来るし、その厩舎の傾向が判る。黒松厩舎は、昔から若手騎手の起用を余りしない厩舎であり、今回の浅井騎手の起用も、馬主である十勝川の強い要望から決まった事は聞いていた。


「十勝川さんかあ」


 十勝川の所有馬に騎乗する事となり、ましてや自分を指名してくれた馬主である。それ故に浅井騎手としても、十勝川ファーム、十勝川レーシング、そして、十勝川勝子という人物を一通り調べていた。


 そんな中で見えて来たのは、十勝川は何方かと言うと黒松調教師の様に冒険をしない傾向が強いという事だった。それ故に、なぜ自分がトカチフェアリに騎乗する事となったのかが見えてこない。


「たぶん、鈴村さん関係なのかなあ」


 栗東トレーニングセンターに所属している鷹騎手や立山騎手などベテラン騎手達も、鈴村騎手やミナミベレディー、サクラヒヨリの事を注視している。特に鷹騎手などは、やはりライバルであったタンポポチャの主戦騎手であった事も有り、ミナミベレディーの強さの秘密などを調べていたみたいだ。


 自分がプリンセスミカミに騎乗する事となり、更には鈴村騎手と比較的親しく接して頂けるようになってから、露骨に鷹騎手の私への対応も変わったのが良い例だろう。


「結構探りを入れられるし、未だに音源のコピーを貰えないかって香織さんに話しているみたいだからなあ」


 ある意味、十勝川さんも同様な雰囲気がある。ただ、ここ最近は鈴村騎手へ直接アプローチする事が増えているようだった。


「プリンセスミカミ、騎乗したかったなあ」


 恐らく次走はGⅡかGⅢ辺りを走らせるのだろうか?


 乗り替わりで騎乗する刑部騎手が、次走は是非騎乗したいと太田調教師に頼んだみたいだ。忘れな草賞、オークスと、自身のお手馬とプリンセスミカミの出走が重なっていた刑部騎手は、お手馬であるグラニーソラを優先した。その肝心のグラニーソラは3勝目が遠く、秋の牝馬クラシックを出走する予定はなくなってしまった。それ故に、同レースで騎乗が重なる事が無くなった刑部騎手は、重賞経験のない自分に不安を感じていた太田調教師を説得し、今回乗り替わりとなったのだった。


 次走の結果次第で若しかすると、また騎乗できるかもだけど。それってプリンセスミカミが負けるって事だからなあ……。プリンセスミカミのは、やっぱり勝って欲しいから。複雑だよね。


「重賞レースなんて、いつになったら騎乗できるか判らないしなあ」


 オークスは、スタートしたら何時の間にか終わっていた。緊張で、騎乗していた間の記憶は非常に曖昧だった。後で幾度もレース映像を見て、漸く騎乗を思い出したのだ。


 オークスの騎乗を一言で言うなら、必死に騎乗していた。その一言であったし、冷静に騎乗出来るほどの心の余裕は無かった。


「次に重賞に騎乗した時こそは」


 そう思いながら、浅井騎手は馬房の清掃を終え、厩舎へと戻るのだった。


◆◆◆


 武藤調教師は、サクラヒヨリの次走を決めるにあたりミナミベレディーの動向を気にしていた。春の天皇賞を勝利しているサクラヒヨリであるが、距離の短くなる秋の天皇賞を走らせるよりは、昨年獲る事の出来なかったエリザベス女王杯へ出走させたいと考えていた。


「問題はミナミベレディーとプリンセスフラウか。それとサクラフィナーレもいるな」


 サクラフィナーレは秋華賞をターゲットにしている。何とかここでGⅠタイトルをもう一つ欲しい所ではあるが、秋華賞の後にエリザベス女王杯を走らせられるかと言うと、スタミナ的にレース間隔が厳しいと思っている。


「サクラフィナーレは、秋華賞の後は日経新春杯かAJCCだろうなあ」


 1レース毎の間隔を出来るだけ開けたい武藤調教師としては、狙い処として移動距離も少ない中山のAJCCを考えている。


「そうなると、サクラヒヨリは秋はエリザベス女王杯、その後に……有馬か」


 サクラフィナーレと比較してもサクラヒヨリは回復が早い。そもそも武藤調教師が見る限りにおいて、サクラヒヨリはミナミベレディーやサクラフィナーレと比べて体力という面では優位にあるように思っている。


「ただなあ、サクラヒヨリは無理をしないからな」


 ミナミベレディー達が1レース毎に体調を大きく崩すのは、馬自体が限界以上に走るからだろう。そして、その傾向はサクラヒヨリよりサクラフィナーレの方が受け継いでいる気がする。それは良い事なのか、悪い事なのかは不明ではあるが。


「怪我が無いという事は助かっているが、それが今後も続くとは限らないしな」


 それ故に、両馬共に連闘するようなレースを組むつもりは無いが、そうなると出走させるレースも限られてくる。ましてや、サクラヒヨリは気性的に海外GⅠ遠征は厳しそうであり、サクラフィナーレは地力という部分で厳しそうである。


「おかしいなあ。サクラハキレイ産駒は晩成寄りのはずなのに、4歳以降のレースで何で此処まで悩むんだ?」


 思わずそんな愚痴が零れる武藤調教師であるが、やはり牝馬で4歳以降の混合戦を勝つのは至難の業である。


「オールカマーで行くか、思い切って府中牝馬ステークスにするか。ミナミベレディーはオールカマーだろうなあ。いや、ジャパンカップ出走となると京都大賞典も有り得るか」


 流石にミナミベレディーの次走をどうするか馬見厩舎に聞く事は憚られる。サクラヒヨリの鞍上が鈴村騎手であれば、その調整という事も有り尋ねる事も出来たのであろうが、長内騎手で行く事を決めている為にそれも難しい。


「ミナミベレディーとレースが被らないのであれば、鞍上は鈴村騎手でも良いのか。ただなあ」


 恐らく有馬記念では再度直接対決となる。そこを考えると長内騎手にサクラヒヨリに慣れて貰わなければという思いもあるし、ましてや次走はGⅡだ。武藤調教師は、今回はやはり長内騎手に依頼する事に決める。その結果次第でエリザベス女王杯は鈴村騎手も候補とする事にした。


「……ミナミベレディーがエリザベス女王杯に出走してこないよな?」


 一抹の不安を抱えながら。


◆◆◆


 そして同じ頃、馬見調教師と大南辺氏が会食をしながら次走の選定を行っていた。


「メインはやはり有馬記念ですね」


「そうですね。有終の美を飾って欲しい所です。引退式にタンポポチャ号を呼ぼうかとも考えましたが、あちらは身重ですので断念しました。もしタンポポチャ号が来てくれればベレディーも喜んだんでしょうが」


 そう言って笑う大南辺だが、確かに有馬記念後に引退式を開催するにしろ、それ以降に開催するにしろ、タンポポチャ号を呼ぶのは厳しいだろう。


「ところで、有馬記念は確定として他はどう考えて見えますか?」


 大南辺は特にレースに拘るタイプでもなく、ましてやミナミベレディーを中心に考えてくれる馬主である。それ故に無理難題は出てこないだろうが、馬見調教師としては一応の考えは聞いておきたい。


「有馬記念以前のレースとすると、天皇賞かエリザベス女王杯、ジャパンカップのどれかですね。距離的な点を考えてエリザベス女王杯かジャパンカップを考えていますが、今更エリザベス女王杯というのもどうかとも思いますし」


 大南辺も決め切れていないようであった。


「ジャパンカップだと有馬記念迄のレース間隔に不安はありますか。5歳になってより丈夫になってきているので大丈夫だと思いますが、レース展開次第ですよね」


「エリザベス女王杯は、恐らくサクラヒヨリが出走すると思います。昨年は3着でしたから今年こそはと思っているでしょう。場合によってはサクラフィナーレも出走があるかな? いや、流石に無いですか。騎手の問題が出ますから。ただ、そうですね。ベレディーが出走しないとあり得るのですかな?」


 大南辺が何やら考え込む。ただ、すべて口に出している為に、何を悩みだしたのか馬見調教師には丸判りである。


「武藤調教師が決める事ですから判りませんが、多分それはないでしょう。秋華賞からエリザベス女王杯ではサクラフィナーレとしては厳しいかと思いますよ」


「ふむ、成程。そうですな」


 馬見調教師の言葉に、大南辺も大きく頷く。


「ところで、ジャパンカップはどうされますか?」


「ああ、そうでしたな。ジャパンカップですか、率直に言って悩みますな」


 レース後の状態によっては、そのジャパンカップがミナミベレディーの最後のレースとなり得る。女帝と言われるようになった今でも、どうしても1レース毎に大きく体調を崩していたミナミベレディーの印象が強いのだ。


「サクラヒヨリは天皇賞という事は無いのですよね?」


 馬見調教師が問いかける。


「実は先日桜川さんとご一緒しまして、それとなくお互いに探りを入れたのですがね。その感じではエリザベス女王杯へ行く様でしたな。もっとも、5月中頃の話ですから変わっているかもしれませんがね」


 北川牧場で5月に今年の産駒4頭の去就をどうするかの話し合いがあったと聞いている。恐らくその時の事なのだろうが、確かに5月の話であれば意向が変わっている可能性はある。


「そうですか、エリザベス女王杯」


「ええ、秋の天皇賞よりはと言ってみえましたね」


 大南辺の言葉に、馬見調教師も大きく頷くのだった。

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