第200話 香織と十勝川

 香織は、今週札幌で開催されたレースで1着、4着、8着、12着と4レースに出走し、3歳以上1勝クラスで何とか勝利を収めていた。しかし、11レースの3勝馬対象のTVH賞では6番人気12着と結果を残せず、本人としては反省しきりの一日となる。


「もっと積極的に仕掛けないと駄目だったなあ。最後、思いっきり前が壁になっちゃったからなあ」


 今年になって既に24勝と、まずまずの結果を残してはいる。昨年に続き悪くない結果を出している香織ではあるが、やはり有力馬の騎乗は中々回ってこない。その中で必死に結果を出している状況であるが、それでも数年前と比較すると、結果を出し続けているが故に次第に勝てる馬、勝てそうな馬の騎乗依頼も増えて来ている。


 結果がすべての騎手とはいえ、フリーである事も有り、馬主や調教師との信頼関係が大きく影響する為、実績を長く残して行かなければ中々に鞍数を増やす事は出来ない。その為、今もやはり乗鞍を増やす事には苦労していた。


 そんな香織が、今日のレースを終え競馬場の出口から外へ出ると、そこに十勝川が待ち構えていた。


「お待たせしてしまいました」


 香織は、事前に十勝川から今週のレースを終えた後に食事に誘われていたのだ。当初は断ろうとしたのだが、十勝川のみで次男の勝也は居ないという事と、翌日十勝川は北川牧場へ訪問するという事で、それならばと今日の食事のみならず明日は十勝川の車で北川牧場へ送ってもらう事になった。


「いえ、そんなに待っていませんよ。さあ、食事に行きましょうか」


 十勝川の車は、勿論運転手付きである。その為、香織と十勝川は後部座席で並んで座る事となった。あまり人付き合いが得意ではない香織であるから、当初は緊張していた。しかし、十勝川は如才なく香織に合わせた会話を振ってくれる為に、予想していたほどには苦痛に感じなかった。


「明日は楽しみね。ミナミベレディーだけじゃなくサクラヒヨリもサクラフィナーレも居るのですから。GⅠ馬3頭もいるなんて、北川牧場は贅沢よね」


 そう言ってコロコロと笑う十勝川に、香織も思わず微笑を浮かべる。


「数年前に比べると賑やかになったのでしょうか? 私はベレディーがまだ幼駒だった頃とかを知りませんので。ただ、騎乗依頼を頂いた時には、まさか北川牧場にGⅠ馬が誕生するとは思ってもいませんでした」


 香織は、残念ながら北川牧場へ数回しか訪問出来ていない。それこそ、親友である細川美佳の方が遥かに訪問回数は多いだろう。そして、そんな美佳から以前聞いた話では、桜花ちゃんなどは破産を覚悟していたというから怖い。


「サクラハキレイは良い繁殖牝馬でしたよ? ミナミベレディー以前に重賞馬を3頭も産んでいるんですもの。ただ、その産駒で苦戦していますけどね」


「そうですね。何とかサクラハヒカリなどの仔で、重賞を1勝でも欲しいですわね」


「ベレディーの活躍で、余裕は出来そうですが。それでも、キレイ産駒が望めない中で、次代に期待しますよね」


 香織はそう言いながらも、自分が関われるのは其れこそ目の前にいる十勝川が所有するトカチドーターしかお手馬は居ない。


「今年や来年の産駒にも期待はしていますけど、結果が出るまでに時間が掛かります。ぜひ鈴村騎手にはトカチドーターで頑張って欲しいわ」


「はい、頑張ります」


 香織としてもミナミベレディーの引退が見えていて、更には来年サクラヒヨリに騎乗できるかは不明である。その為、思い入れのある血統のトカチドーターには期待していた。もっとも、馬見厩舎で見た限りにおいては、3歳牝馬クラシックでの活躍は厳しそうなイメージを受けていたのだが。


「さあ、着いたわね。鈴村騎手は食が細いから日本食にしたけど良かったかしら?」


「はい。ご配慮ありがとうございます」


「そんなに畏まらなくても良いのに」


 ただ、後に十勝川はこの日の夕食を蟹料理にしたのを後悔したと言う。気楽に食事を楽しんでもらおうと、北海道へと来た際に良く家族で利用する料亭ではあったのだが、二人は終始無言で蟹をつつく羽目になり鈴村騎手との会話は全く弾まなかった。


 翌日、香織は十勝川に迎えに来てもらい宿泊するホテルから北川牧場へと向かう。最寄りの公共機関を使用すると中々に時間が掛かる北川牧場である。それ故に車で送って貰える事は、香織としても非常に助かっていた。


「桜花さんは残念ね。まだ試験の真っ最中でお会いできないなんて」


「はい。ただ、夏休みとか期末試験とか、遠い昔の事ですっかり忘れていました」


 そう言って笑う香織に、十勝川もコロコロと笑う。


「騎手は毎週試験を受けているようなものですものね」


「そう言えばそうですね。成績次第で騎乗依頼が増減しますから、でも努力が結果につながるかは何とも言えないのに、努力しなければ絶対に勝てないんです。そう考えると厳しい世界ですね」


 数年前には勝ち星が得られず引退を覚悟した時もあった。その後、幸運にもミナミベレディーと出会い、よりレベルの高いレースを幾つも経験する事で、多少なりとも騎乗技術はあがった自信はある。そして、昨年も今年も、以前の自分では想像もできない勝ち星を挙げる事が出来ている。


「ふふふ、そうね。牧場も同じだわ。どんなに頑張っても、色々と良かれと考えても、産駒が走ってくれるとは限らないもの。今まで積み上げて来た結果も、人脈も、さまざな物の力を借りて今があるのよ? その今もこの先を保証はしてくれませんけどね」


 結果が伴わなくなり廃業、解散、更には倒産となった牧場は多い。バブル崩壊、経済の長期低迷によって馬主数が減少し、購入される競走馬の頭数減少に響いた。頭数減少は、そのまま生産牧場の苦境に繋がり、更に近年は大牧場の台頭によって零細生産牧場の産駒は、より厳しい環境にある。


「北川牧場は凄いんですね」


 鈴村騎手の言葉に、思わずキョトンとした十勝川は、その後コロコロと笑い声をあげる。


「そうねえ、北川さんの所はしっかりと地盤を作って見えるわ。あそこの馬はセールに出る事が稀なの。セールに出さなくても良いだけの人脈を持ってみえるわ。庭先取引は価格面で高値になりにくいけど、その代わりに安定した収入が得られるわ。お得意様をどれだけ抱えているかは大きいのよ?」


 そう告げる十勝川だが、実際の努力はそれだけでは無いのだろうと香織は何となく思う。何せあのミナミベレディーが、あわや売れ残りかけたのだから。


 生産牧場経営の話や、今後の競馬界の話など一騎手である自分に直接関係無いながらも、競馬界の将来を考えなければならない話題を話していると、気が付けば北川牧場に到着していた。


「あら、警備が更に厳しくなっているわね」


 北川牧場の入口に、以前は無かったゲートと小さなプレハブが建っており、そこに警備員が2名も常駐していた。


「監視カメラもついていますね」


 そのプレハブには、入り口を映し出す為の監視カメラも設置されている。


「こんにちは。十勝川ですが、お話は通っていますか?」


 車の窓を開けて十勝川が挨拶をする。


「はい、どうぞお通り下さい」


 今年になって、すでに数回訪問している十勝川を警備員も覚えていた為、すんなり通過する事が出来た。そして、自宅兼事務所の建物の前では、峰尾と恵美子が十勝川と香織を出迎える。


「わざわざ外まで来ていただかなくても」


「いえいえ、でも今年は暑いですね」


 十勝川と峰尾が挨拶を交わす傍ら、香織は恵美子と挨拶を交わす。そして、その流れでさっそくミナミベレディー達が放牧されている場所へと案内された。


「あらまあ、賑やかだわ」


 思わず十勝川がそう呟くほどに、放牧されている馬達が走り回っているのが見える。恐らく北川牧場の繁殖牝馬達であろう馬達は、放牧地の中央に集まり若干迷惑そうに走り回っている馬達を眺めていた。


「凄いですね。みんな元気に走り回っていますね」


 先頭で風を切って走っているのはサクラヒヨリで、その後ろをサクラフィナーレとプリンセスミカミが走っている。ただ、その集団とは別に比較的ゆっくりと駆けているのがミナミベレディーとトカチドーター、そして今年生まれた幼駒達であろう。


「こうして見ると、トカチドーターはまだ幼いわねぇ」


「サクラハキレイ血統は馬体が大きいですから、トッコ~、トッコ~」


 恵美子は笑いながら十勝川の感想に返事を返す。そして、ミナミベレディーに聞こえるように大きな声で呼び掛けた。恵美子の呼び掛けに気が付いたミナミベレディーは、すぐに進路を変えて駆け寄って来る。


「ブフフフン」(なにかくれるの?)


 駆け寄って来たミナミベレディーは、柵から頭を突き出して恵美子の匂いをフンフンと嗅ぐ。そんなミナミベレディーに恵美子は、用意していたニンジンスティックを与えた。


「ブルルルン、ブルルルン」(わ~~い、ニンジンだ~、あ、鈴村さんだ)


 ニンジンをボリボリ食べながら、ミナミベレディーは恵美子の後ろにいた香織に漸く気が付く。


「ベレディー、元気そうだね。安心したよ」


「ブヒヒヒヒン」(休養なのに休養できてないの~)


 何やらせっせと香織に訴えかけて来るミナミベレディー。その様子に周りにいた面々は思わず笑い声をあげた。そして、そんなミナミベレディーの後ろから、ひょっこりと頭を出してきたのはトカチドーターである。


「はいはい、まってね」


 恵美子はその様子に動揺する事も無く、腰の入れ物からニンジンスティックを更に取り出してトカチドーターへと与える。しかし、トカチドーターはすぐに食べる事無くチラチラとミナミベレディーへと視線を送っている。


「ブフフフン」(しっかり食べるのですよ)


「フフン」


 トカチドーターはミナミベレディーの嘶きを受けてニンジンスティックに噛り付いた。ボリボリと美味しそうにニンジンを齧るトカチドーターを見ながら、ミナミベレディーは今度は香織へと頭を突き出してくる。


「はいはい、ちょっと待ってね。ちゃんと用意しているわよ」


 そう言って小さな入れ物を取り出した香織は、その入れ物から氷砂糖を取り出してミナミベレディーへと与える。


「ブヒヒヒン」(わ~い、氷砂糖だ~)


 氷砂糖を口の中でモゴモゴさせながら、皆さん何しに来たの? というようにミナミベレディーは香織達へと視線を巡らせる。


「ミナミベレディーは本当に頭の良い馬ね」


「はい、ベレディーは凄いですよ」


 感嘆の溜息を吐く十勝川に、香織は嬉しそうに頷く。


 そして、香織はミナミベレディーが如何に賢いか、如何に可愛いかを説明する。そんな香織を微笑ましそうに見る面々であったが、唯一十勝川のみが真剣な眼差しで話を聞いている事に、他の者も、思いっきりテンションが上がっている香織も気が付かなかった。

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