第199話 十勝川とトカチフェアリ

 7月、中京競馬場、芝1600mで行われる2歳未勝利戦にトカチフェアリが出走しようとしていた。そのレースを見る為に十勝川は早々に中京競馬場へと訪れ、黒松調教師と共にパドックを回るトカチフェアリの様子を見ている。


「あら、中々良さそうじゃない」


「前走に比べて入れ込みも無く、馬運車での移動も問題無くこなせました」


 若干ブスっとした表情で十勝川と会話する黒松調教師に、十勝川はコロコロと笑い声をあげる。


「そんなに浅井騎手はお気に召しません?」


「否定はしません」


 短く答える黒松調教師。十勝川へ浅井騎手の奇行などを伝え、ロンメル騎手が騎乗可能であった為に乗り替わりを提案していた。しかし、浅井騎手の奇行を聞いた十勝川は、黒松調教師の話を聞くと電話向こうで珍しく爆笑し、そのまま浅井騎手で行く事を決断したのだった。


「今日も、ちゃんと嘶きの音声を流したのでしょ?」


「浅井騎手の要望には、出来るだけ応えるようにとの事でしたので」


 実際に、馬運車での移動中、そしてレース前の馬房でも、浅井騎手から渡された馬の嘶きをトカチフェアリに聞かせていた。その嘶きを聞かせた所でトカチフェアリが興奮するような事も無く、逆に落ち着いている様子から黒松調教師も許可していた。


「どう? トカチフェアリは落ち着いてレースに集中できている気がしない?」


「……確かに普段よりは入れ込んではいませんね。ただ嘶きを聴かせたからとは限りません」


「ふふふ、でもアスリートだって試合前に自分を落ち着かせる為に、お気に入りの音楽を聴いたりして集中力を高めるのよ? 馬だってそういう事があっても良いと思わない?」


「……」


 二人の目の前を通過するトカチフェアリだが、普段とは違い非常に落ち着いている様に感じられる。


「ところで、あの嘶きはなんなんですか?」


「ふふふ、あの女帝ミナミベレディーの嘶きよ」


「え? ミナミベレディーですか?」


 十勝川の回答に驚きの声をあげる黒松調教師だが、少し考えて納得したように頷く。


「ああ、太田厩舎のプリンセスミカミ伝いですか」


「ええ、ミナミベレディーの嘶きが、どう競走馬に影響があるのか。本当に興味深いわね」


 そう告げる十勝川ではあるが、レース前の鈴村騎手や浅井騎手、はたまた長内騎手など主要な厩舎の挙動を聞き取りしていた。当たり前ではあるが馬に嘶きを聞かせる事は、レース前の競馬場では非常に目立つ行動である。その為、割とすんなりと浅井騎手や鈴村騎手が音源を使用している馬は特定できた。


 結果として、ミナミベレディーの嘶きが使われているのはサクラハキレイ産駒に限定されていた。それ故に、今回の別血統馬に使用した時、嘶きがどう影響を与えるのかは実に興味深い。


「鈴村騎手から貰えないのよねぇ。前にチラッと頼んだんだけど」


 そうボソリと呟く十勝川を、黒松調教師は驚きの表情で見返す。そんな二人の前で、馬の停止が呼びかけられ、騎手達がそれぞれの馬へと駆け寄って行った。


「あら、浅井騎手とトカチフェアリの関係も悪くなさそうね。良い事だわ」


「そうですな」


 十勝川の言葉に短く答える黒松調教師。そして、本馬場へと移動するトカチフェアリを見送るのだった。


 その後、第一レースが開催される。


『中京競馬場 第一レース 芝1600mで争われる2歳馬未勝利戦、8頭で……。


 ゲートが開いて、今スタートしました! ややバラついたスタート。3番オワリダイミョウ好スタート、先頭に立ちます。その後ろに5番トカチフェアリ、その後ろに1番ギフノナガラ、更にその後方には……。


 最後の直線、先頭はギフノナガラ、トカチフェアリが並びかけて来た! イセノメイブツ伸びてこない! ここで先頭は変わってトカチフェアリ! ギフノナガラを外から一気にかわして先頭に立った! 先頭はトカチフェアリ! ギフノナガラ懸命に追いかける! しかし、その差は半馬身! トカチフェアリ粘る! トカチフェアリ粘る! ギフノナガラ一杯か! トカチフェアリ、そのまま後続に半馬身つけてゴール! 1着トカチフェアリ……』


 十勝川達が見守る中、浅井騎手が騎乗するトカチフェアリは好位置に付け、最後の直線で先頭を走るギフノナガラを差し切って勝利を収める。


「まずは1勝ね。良かったわ」


 そう告げて喜ぶ十勝川に対し、黒松調教師は無言である。


「斤量マイナス4kgは大きかったかしら?」


「そうですね。ただ、今回のメンバーでしたらトカチフェアリは能力的に上位ですよ」


「あらあら、せっかく勝利してくれたのですから、そこは喜んで下さらないと」


「いえ、別に不服という訳では。ただ今のレースを考えていただけで」


 そう告げる黒松調教師に微笑を返し、十勝川は表彰台へと移動を開始する。その後に続きながら、黒松調教師は黙り込んで何かを考えている。そして、表彰台へと辿り着いた二人であるが、そこで黒松調教師は十勝川に尋ねる。


「十勝川さん。確かに落ち着いたレースでしたが、嘶きを聴かせたからと限った訳では無いと思いますが」


「そうね。実際に効果を検証するには、1レースだけでは判らないわね。お馬さんが自分の気持ちを教えてくれると良いのに」


 そう言ってコロコロと笑う十勝川に、思わず馬鹿にされているのかと不機嫌を顕わにする黒松調教師。その不機嫌を解っていて更に十勝川は笑いながら話を続ける。


「あら、美浦の鈴村騎手は馬と会話をすると言われているのよ? ご存じない?」


「私達も日々、馬と対話しながら調教しています」


「ふふふ、そうよね。ごめんなさい。でも、浅井騎手はちゃんと労ってね」


「勝ってくれたのですから勿論です」


 その後、浅井騎手がやって来て記念撮影が行われる。その表彰式では、ご機嫌な様子の十勝川と、明らかに無理して表情を取り繕っている様に見える黒松調教師。この二人の様子に浅井騎手は戸惑うのだった。


 表彰式の後、十勝川は浅井騎手と軽い雑談を交わし、その足で次男のいる会社へと赴く。そして、息子の勝也と今日のレースについて映像を見ながら検証を開始する。


「どう? ミナミベレディーの音源の効果はあるのかしら?」


「これだけだと判らないなぁ。その音源ってコピーして貰えないの?」


 十勝川は、息子の質問に苦笑を浮かべる。


「浅井騎手にお願いしたんですけどね。鈴村騎手の了承が無いとって言われたのよ」


「そっかあ、鈴村騎手は了承してくれなかったからなぁ」


 十勝川も、勝也も、既に鈴村騎手へ噂の音源をコピーして欲しいとお願いしていた。しかし、鈴村騎手はあくまでも音源はミナミベレディーの嘶きである為、サクラハキレイ血統の馬にしか使用しないと決めているのでと断られたのだった。


「そうだったわね。でも浅井騎手は使っていたんでしょ? 良かったのかしら」


「う~ん、どうなんだろう? 鈴村騎手は知っているのかな?」


 勝也も首を傾げる。二人としても、鈴村騎手に浅井騎手がトカチフェアリに音源を使いましたが良かったですか? とは尋ね辛いのだ。


「あれだけ鈴村騎手を慕っている浅井騎手ですもの、勝手に使用する事は無いと思うんだけど、どうなのかしら?」


「態々聞くのも問題あるよね」


 ただ、ともかくトカチフェアリは2歳の早い段階で1勝を収めてくれた。となると、今考えなければならないのは、次走をどうするかと言う事だ。


「8月の新潟2歳ステークスか、札幌2歳ステークスを考えているわ。幸い移動も苦にしなかったみたいですし、でも、札幌は芝1800mなのよね。距離が延びるのはどうかしら? 同じ芝1600mをもう一回走らせてみるか、1800mを試してみるか。悩むわねぇ」


 トカチフェアリは良くて2000mまでと思われていた。馬体的に見て短距離は勿論厳しそうだが、長距離も疑問があると判断してはいる。ここで芝1800mを試しておくのも悪くは無いのだが、実績の出来た芝1600mをもう一度走らせてみるか判断は微妙な所だ。


「どうかな? フェアリーは早熟血統だから此処で実績を積み上げておきたい所だけど。負担を考えて札幌の方が無難かな?」


「そうねえ、悪くは無いと思うのだけど、1800mは中途半端な距離なのよね」


「こっからの成長と、ライバル次第だね。狙うなら桜花賞だから、そう考えると、来年の桜花賞はサクラハキレイ血統牝馬との勝負かな? ただ、聞こえてくる限りではデビューに苦労しているみたいだけど」


 そう言って笑う勝也を見て、十勝川は呆れた表情で息子を見る。


「サクラハキレイの血統には今後頑張って貰わないと駄目なのは確かよ? 何せ今年の産駒と今年の種付けは、うちの牡馬の種が付いているのですから」


「でもさ、母さんの相馬眼では、今年生まれた4頭で3勝は厳しそうなんだろ?」


「そうね。でも、そこはサクラハキレイ血統ですから期待はしたいわ。サクラハキレイ血統は相馬眼泣かせですし、それより、来週は札幌へ行ってくるわ。鈴村騎手が札幌に騎乗するのと、併せて北川牧場に顔を出す予定なの。可能であれば鈴村騎手と一緒に行きたいわね」


「ああ、北川牧場にサクラハキレイ血統が揃い踏みなんだっけ? わかったよ。ついでにミナミベレディーとサクラヒヨリの様子も見て来てよね。秋のレースではマジックと当たるんだからさ」


 そう返す勝也であったが、その返事が気に入らなかったのか十勝川は不服そうな表情を浮かべる。


「貴方も一緒に行かない? 鈴村騎手もいるわよ?」


「来週は何かと忙しいから、ちょっと無理かな?」


 そう告げる勝也に、更に不満をぶつける十勝川であった。

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