第198話 浅井騎手と黒松厩舎
ミナミベレディーが北川牧場で放牧されている頃、浅井騎手は3歳以上2勝クラス高千穂特別に騎乗し、7番人気の篠原厩舎所属4歳馬サミダレロックで何とか2着と善戦していた。
「上手く騎乗しましたね。80点をあげましょう」
検量室へ戻って来ると、篠原調教師が笑顔で出迎えてくれた。
「ありがとうございます。あと少しだと思ったんですが、差し切れませんでした」
オークス騎乗後の浅井騎手の成績は、未勝利戦で1勝、更には篠原厩舎の3歳1勝馬モーニングラテで1勝と合計2勝をあげる事が出来ていた。もっとも、浅井騎手は中々に勝ちきれない騎乗が多い事を自覚している。ただ、騎乗する馬の人気より上位での入着が多く、馬主からの評価はまずまずではあった。
「今日は勝ったフルサトロマノが強かったと思いましょう。良い差し脚でしたし、最後の粘りも見事でしたね」
フルサトロマノは、篠原厩舎のサミダレロックと同じ4歳馬。好不調の波が大きい為に中々勝ちきれずにきていたが、これで漸くオープン馬にリーチとなる。勿論、篠原調教師としては自厩舎のサミダレロックで勝ちたかったが、オープン馬まで勝ち上がるのは中々に厳しかった。
「次走は残念でしたね」
「いえ、やはり結果を出さないとと改めて思いました。それに、重賞での勝利経験もないですから」
突然掛けられる篠原調教師の労いに、苦笑を浮かべて返事をする浅井騎手。
先日のオークスでプリンセスミカミに騎乗した浅井騎手ではあったが、残念ながら次走では刑部騎手へと乗り替わりになってしまった。オークス騎乗後には、やはり落ち込む浅井騎手ではあったが、この3か月で何とか気持ちを切り替える事が出来たようだった。
乗り替わりが決定して既に一月は過ぎているが、ここに来ての言葉に、恐らく自分の様子を見ていてくれたのだろうと申し訳なく思う。それと共に、気持ちが落ち着いてからの言葉に、どこかホッとする気持ちもある。既に気持ちの整理がついているが故に、篠原調教師への返事は自然と紡がれた。
「サミダレロックが勝てていれば3勝で、更に格上挑戦も有り得たかもですがね。残念でしたね」
真顔でそう告げる篠原調教師であったが、その目は明らかに揶揄する様子が見て取れる。篠原調教師の性格を良く知っている浅井騎手は、苦笑を浮かべながら、次走は必ず勝ちますと返事を返すのだった。
そんな浅井騎手ではあるが、ここに来てトカチフェアリの調教で苦戦を強いられていた。
6月の新馬戦では8頭中3着と勝ちきれず、7月の未勝利戦が来週末に迫っている。トカチフェアリの預託先の調教師である黒松調教師は、斤量マイナス4kgの利点と、十勝川のゴリ押しでの騎手決定を内心良く思っていない。その為、浅井騎手に対しての当たりも強かった。
「悪くない馬なんだよね」
トカチフェアリに騎乗した感じでは、まだ若い牝馬である為に気性面でムラがある。前走でもレース前に入れ込み、何とか好位につけ先行するも終始前へ前へと掛かり気味でスタミナを消費し、最後に差されてしまっていた。
これは普段の調教時においても、併せ馬となると途端に入れ込むなど気性面の問題が大きい。
「ブリンカーもあんまり効果が無いんだよね。フェアリー、もう少し落ち着こうか」
首をトントンと叩き、トカチフェアリを落ち着かせようとする浅井騎手だが、周りに馬がいると、どうしてもトカチフェアリは頭をブンブンと振り入れ込んでしまうのだ。
「う~ん、ちょっと気性が荒い感じだよね。両親共に気性は荒かったみたいだけど、ただ、この入れ込み癖は何とかしないと後々厳しいよね」
来週の未勝利戦、その出走メンバーによっては、トカチフェアリの地力で勝ちを拾う事は十分可能だと思っている。特にトカチフェアリの適正距離と思われている芝1600mであれば。
それでも、自身の騎乗においてトカチフェアリとの呼吸が合わなければその先は厳しいだろう。
「よし、やっぱり試してみよう」
何かを決断した様子の浅井騎手は、午後の休憩時にロッカーからミナミベレディーの嘶きが入った録音機を手にトカチフェアリの馬房へと戻って来る。
鈴村騎手にトカチフェアリの事を相談した際に音源の使用許可は貰っていた。ただ、その際に鈴村騎手からは風評被害を気にして他への拡散の禁止と、牡馬に対しては止めた方が良いと言われていた。
そんな経緯もあるのだが、流石に音源をこの黒松厩舎で使用する事に躊躇いがあり、今まで使用していなかったのだった。
「えっと、どの嘶きがいいかなあ。あ、これが良い?」
トカチフェアリは、馬房の入口で何かゴソゴソとしている浅井騎手を興味深そうに眺めている。そんなトカチフェアリに対し、浅井騎手は慎重にスピーカーを向けて嘶きを再生した。
「ブフフフフフン」(大丈夫ですよ~、良い子ですね~)
「ブフフン」
何だろうと怪訝な様子のトカチフェアリ、ただ明らかにミナミベレディーの嘶きに反応しているように見える。
「ブルルルルン」(無理したら駄目ですよ~)
「ブヒヒン」
「ブヒヒヒ~~ン」(頑張ったら美味しい物が食べれますよ~)
「ブルルルン」
ベレディーの嘶きに次第に集中し始めるトカチフェアリの鼻先を撫でながら、これで落ち着いてくれればと祈る浅井騎手であった。
浅井騎手がトカチフェアリの1勝の為に自分に出来る事を試行錯誤している時、預託されている黒松調教師は難しい表情で調教日誌を確認していた。
「仕上がりは悪くないな。ただ、騎手を何とか変えてぇなあ」
厩舎として1勝に拘る黒松調教師は、新馬戦や未勝利戦であろうと可能な限りベテランを起用したがる。その為、自厩舎所有のオープン馬の出走に合わせて、新馬戦や未勝利戦のスケジュールを組むことを好んだ。そんな黒松調教師としてはトカチフェアリの次走はロンメル騎手が騎乗する中京競馬場で調整し、そのまま騎乗して貰いたいと考えていた。
「騎手が何かして馬の走りが変わる訳無いだろうが。十勝川さんも耄碌したかよ」
調教はあくまでも調教師が長年の経験を頼りに積み上げて来たものである。勿論、運の要素が多分にある事は否定はしないが、それ故に経験のあるベテラン騎手に騎乗依頼する事が馬主の為にも、厩舎の為にも、更には馬の為にも一番だと信じている。
そう言いながらも十勝川が言うサクラハキレイ産駒によるストライド走法とピッチ走法の切替、更には桜花賞3連覇という偉業に興味が無い訳では無い。それ故に浅井騎手が調教を行う時は必ず立ち会うようにしているが、その調教具合は何か特別な物が有るようには見えなかった。そして、その事は十勝川にも報告している。
「次走の結果次第か」
まだ2歳のトカチフェアリである。成長途中であるが故に焦る事は無いとはいえ、勝てる時に勝たなければ後々後悔するのは自分だ。そんな思いからも、前走の新馬戦、次走の未勝利戦を無駄にする事に苛立ちを感じている。
苛立ちを抱える黒松調教師のもとに、調教助手が首を傾げながら戻って来た。その様子に気が付いた黒松調教師は、何か問題が起きたのかと調教助手へと尋ねる。
「いえ、午前中の調教は一通り終わっています。特に何か気になる所はありません」
「その割には何か気になるようだな? 何でもいい、後で聞いときゃよかったと思うよりはな」
そう尋ねる黒松調教師に、調教助手は一瞬躊躇った後に、先程自分が見た光景を伝える。
「先程、馬房へ行った際に浅井騎手がトカチフェアリの馬房にいまして、それで声を掛けようかと思ったんですがトカチフェアリに馬の嘶きの録音を聞かせていたんです」
「はあ?」
言われた意味が判らず黒松調教師は思わず大きな声を出してしまう。そんな黒松調教師に、調教助手は再度同じことを伝えるが、黒松調教師は何を馬鹿な事をしているのかと呆れかえった。
「馬に馬の嘶きを聞かせて何の意味がある」
「さあ? ただ、前に美浦の武藤調教師が何かそんな事をしているって聞きましたよね?」
「……そういえば、そんな事を聞いた覚えがあるな」
黒松調教師は、サクラハキレイ産駒のサクラヒヨリとサクラフィナーレに対し、レース前と後に馬の嘶きを聞かせているのが話題になっていたのを思い出す。今までも調教師によっては音楽を聞かせる者もいたが、それが何らかの効果を上げているかは不明だ。
「馬鹿な事をするなと止めさせるか?」
「止めさせてきますか」
思わずそう考える黒松調教師であるが、ふと、この事を出汁にして十勝川に騎手変更を打診してみても良いのではと考えた。
「いや、ちょっと様子を見よう」
そう黒松調教師は答えると、どうやって十勝川へと話を展開させるか考えるのだった。
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