第194話 長内騎手と武藤厩舎、その頃の森宮ファーム
「不甲斐ない騎乗をしてしまい、申し訳ありませんでした」
武藤厩舎では、長内騎手が深々と頭を下げていた。長内騎手は、当日のレース後に一度謝罪をしていたが、その翌日に武藤厩舎へと訪問し、昨日のレース結果の謝罪を改めて行っていた。
「昨日も言ったが、何と言っても雨の中での重馬場だ。まあ本音を言えば何とか掲示板にという思いも無くは無かったが、あの条件で、更にはあのメンバーで6着はまずまずだろう」
武藤調教師としても宝塚記念で重視したのは、無事にレースを走り終わってくれる事だった。そして、欲を言うのであれば掲示板内に来てくれれば御の字と思っていた。そして、乗り替わり最初のレースが雨の中での重馬場という事で、内心では長内騎手の運の無さに同情もしている。
「サクラヒヨリ以上に雨では走らないミナミベレディーが宝塚記念連覇したんです。鈴村騎手の事を侮ってはいませんでしたが、今回の騎乗を何度も繰り返し見て、自分の未熟さを痛感しました。私はサクラヒヨリの事を鈴村騎手程理解しきれなかったんです」
そう言って長内騎手は再度深々と頭を下げる。
長内騎手は、宝塚記念が終わり自宅に帰ると直ぐにレースを幾度も繰り返し確認した。その中で、特に注目したのがミナミベレディーの最後の直線と鈴村騎手の騎乗だった。
雨の重馬場という事で、やはりレースは先行前残りの傾向が見えていた。その中で、プリンセスフラウは恐らくミナミベレディーのロングスパートを警戒していたのだろう。元々持久力には定評のあるプリンセスフラウであり、4コーナーへと入る中でスパートし、そのまま逃げ切りを図った。
レース展開として長内騎手も同様の騎乗を考えていた。何と言ってもサクラヒヨリには春の天皇賞を走り切る体力がある。それに重馬場で差し馬や追い込み馬の末脚は脅威にならない。
そう判断した長内騎手は、プリンセスフラウに併せるようにスパートし、先頭争いを行った。
「まさか、この段階でもミナミベレディーがスパートしていなかったとは」
ミナミベレディーは、サクラヒヨリ以上に雨のレースは苦手だ。雨だけでなくダートでの併せ馬でもサクラヒヨリが常にリードしていた。その為、ミナミベレディーが宝塚記念で勝つためには、昨年の様に早めにスパートを掛け、先頭での粘り勝ちを狙うと思っていた。
結局、ミナミベレディーは最後の直線に入るまで手鞭が入る事が無かった。
重馬場で普段以上に体力を消耗していたんだろうな。
スタミナの化け物のようなミナミベレディーだが、今までまともに雨の中で走ったのを見た事が無い。力のいるダートでの調教においても、実に不器用な走り方をしていた。そんなミナミベレディーがいざ本番のレースでは、一転して重馬場に対応した小刻みなステップで走っている。
「レース本番で重馬場に適応したと言うのか?」
レース前半は、何方かと言えば力が入ったぎこちない走りをしている。それが後半になると、スムーズに脚が動いているのが判る。
その走りは、前を走るプリンセスフラウの走りに似ているような気がした。そして、サクラヒヨリも同様に後半に入って更にスムーズに脚を動かしている。
しかし、この段階ではサクラヒヨリの方が、ミナミベレディーより有利だと思える。
「そして、最後の直線か」
プリンセスフラウとサクラヒヨリがスパートし前で競り合う中で、いつもはロングスパートをするミナミベレディーを鈴村騎手は直線に入るまでスパートさせなかった。
この意味は、プリンセスフラウとサクラヒヨリが坂に入る所で、すでにスタミナ切れの兆候である頭が上がり始めた事でも判る。
そして、最後にトカチマジックをジワジワと追い上げ差し切った力も、鈴村騎手のスタミナを考慮した騎乗から生まれたのだろう。
「鈴村騎手にも完敗しました。雨の中のレースで、まさかミナミベレディーに負けるとは思ってもいませんでした」
レース前からミナミベレディーは敵ではない。トカチマジックも重馬場では末脚の伸びは落ちる。長内騎手はそう思っていた。その為、最大の敵になるであろうプリンセスフラウをマークしていたのだ。
昨日のレースの顛末を全て話し終えた長内騎手は、改めて大きく頭を下げた。恐らく、サクラヒヨリの次走は秋の天皇賞かエリザベス女王杯であろう。そして、可能な限りミナミベレディーと同じレースを走らせることは無い。であるならば、自分に次のチャンスは無い。そう思ったのだ。
「長内騎手、そう判断を急ぐな。流石に雨の重馬場でのレースだけで判断はしないぞ。忘れているかもしれないが、ミナミベレディーとは有馬記念で再度激突するだろうからな」
武藤調教師としては、当初より今回の宝塚記念は参考とはするが、この結果で次走の屋根を変えるつもりは無かった。その判断をまさかミナミベレディーが想定外の走りをして宝塚記念を勝利したからと言って変えるつもりは無かったのだ。
「次走はオールカマーだ。ベストな状態で挑めるように我々も最大限の努力をする。まあ、天気は神様に祈っておいてくれ」
「あ、ありがとうございます。頑張ります」
笑顔を浮かべる武藤調教師に、長内騎手は深々と頭を下げるのだった。
◆◆◆
今までも数多くのGⅠ馬を生産して来た森宮ファームでは、所有する繁殖牝馬達の受胎状況、今年生まれた産駒の取引情報などを確認していた。その中で、森宮の牧場長が気になるのは、やはりタンポポチャの受胎確認である。
「無事に受胎してくれたか。良い子を産んで欲しいな」
GⅠを勝利した繁殖牝馬で、その産駒がGⅠを勝利した例は意外と少ない。そもそも、繁殖牝馬を基準として考える競馬関係者よりも、種牡馬を基準に考える人の方が多い。親子3代でGⅠを勝利した牝馬もいるが、それは余程の例外であろう。
そうであっても、牧場長はGⅠを此処まで勝利したタンポポチャに、3代どころでは無く、4代、5代とGⅠ馬を生みだして行って欲しいと願っている。
「サクラハキレイを見習ってほしいですね。GⅠ馬を3頭も産むなんてどれだけの確率でしょうね」
「そうだな。」
苦笑を浮かべる牧場長であるが、実際にGⅠを勝てなくとも、重賞を勝利する馬を5頭も6頭も産む事が出来るなら名牝と呼んでも可笑しくは無い。それが、GⅠ馬3頭を含めるとなると名牝だけでは収まらない。
森宮ファームとしても、収入の基準とするのは牡馬が主体である。勿論、両親共にGⅠ馬である産駒は高値になりやすい。それであっても、繁殖牝馬は産駒の成績次第で毎年のように取引価格は乱高下するのが普通だった。
数多くの種牡馬、繁殖牝馬を所有している森宮ファームであるが、だからと言って経営が安泰と言えるわけでは無い。それ故に日々試行錯誤しながらも努力しているのだ。
「磯貝調教師が冗談交じりに言っていたが、ミナミベレディーかタンポポチャ、何方かが牡馬だったらなあ。相性は抜群だっただろうに」
今年のタンポポチャの種付けに苦労した牧場長である。その声の何割かは本気の色合いが見えた。
「何方かと言うとミナミベレディーが男っぽいんですかね? どのレースも牝馬を侍らせていますよね」
「先日もサクラヒヨリにプリンセスフラウだな」
牧場長も此れには笑い声をあげる。
つい先日開催された宝塚記念を、牧場のほぼ全員が何らかの方法で観戦している。そして、森宮ファームでは、改めてミナミベレディーの評価を上方修正していた。
「本当に惜しいな。もし、ミナミベレディーが牡馬だったら種付け料もだが、初年度の種付け数は200頭を軽く超えるだろう」
非主流の血統であり、種付け相手選びに苦労はしない。それ故にもしミナミベレディーが牡馬であれば、下手すれば血統の世代交代すら起きたかもしれない。
「もし牧場長が言うようにミナミベレディーが牡馬だったら、すごい売り上げになっていましたね」
「すべてはタラレバの話だがな」
実際にはミナミベレディーは牝馬だ。すでにGⅠを8勝していようと、1年に産める仔馬の数は最大1頭である。
「北川牧場の馬は牝馬しか走らないですよね。それでも、種付け相手次第では牡馬も活躍しそうです」
「そうだなあ。まあ、過去の名馬関係者は皆がそう思ったのだろうがな」
競走馬の中心はやはり牡馬だな。牧場長は改めてそう思う。
「しかし、まさかここに来て牝系とはいえチューブキングの血がつながるとはな」
かつて一世を風靡したと言っても良いチューブキングだ。チューブキングの父もGⅠを7勝した名馬であり、チューブキング自身もGⅠ4勝。幾度も怪我を負い、その後復活勝利した事もあり競馬ファンからも人気は高い馬ではあったが、今その血統は主流からは外れてしまっている。
「ここに来てGⅠ馬が3頭ですからね。チューブキングのファンが大騒ぎしていますよ」
「ファンだけでは無いぞ? まあ、人間がどれだけ頑張っても、中々に思うような結果が得られない世界だからな」
牝馬3頭揃ってGⅠ馬となり、3頭共に繁殖入りすれば毎年3頭の期待できる産駒が生まれるのだ。それこそ、チューブキングのファン達は大騒ぎするだろう。そして、その牝馬3頭の内、1頭でも何とか出来ないかと考える者達も。
「ただなあ、そう考えるとやはり牡馬でGⅠ馬が欲しいなあ」
結局はそこへ行きつくのだった。
そんな森宮ファームでは放牧されたタンポポチャが、のんびりと牧草を食べていた。
競走馬時代には当たり前にあった日々の調教がなくなり、飼葉などの食事も繁殖牝馬向けの調合がされたものとなる。そのお陰か、現役時代に比べ次第に馬体もドッシリした体型になってきており、気性も以前よりは穏やかだ。
「キュフフフフン」
森宮ファームで生まれた仔馬を見に来ていた花崎は、のんびりと草を食むタンポポチャの様子を遠目に眺めている。
「牧場長も言っていたが、無事に受胎が出来て良かったな」
競走馬から繁殖牝馬になるには、それなりに準備期間が要る。競走馬から繁殖牝馬になってすぐでは、下手すると牝馬が発情せずに種付け出来ないという事もあった。それ故に、まずは無事に受胎した事が嬉しいのだ。
「良い子を産んでくれよ」
「キュフン」
花崎の呟きに、まるで答えるかのようなタイミングでタンポポチャは嘶いた。その為、花崎は思わず笑いを零すのだった。
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