第189話 宝塚記念 後編
本馬場で返し馬をして、馬だまりでグルグル回ります。その間にも、雨は降り続いているんですよね。
「ブフフフン」(走るのやめたいなあ)
返し馬でも、おっかなびっくりで走りましたよ? 滑るのが怖いですからね。
そんな屋根のある所から出て、遂にゲート前に移動します。歩いているだけで足元が、グショ、グショって感じで埋まるんです。芝と言うより、その下の土が雨を吸って柔らかくなっているのかな? こんな状態で走るとどうなるんでしょう? 普段の調教でもこんな芝の状態で走った事が無いのです。
「ブルルルン」(グショグショですね)
足元を気にしていると、ヒヨリが視界に入りました。ヒヨリを見ると、思いっきり視線が合います。
「キュフフフン」
「ブルルルン」(安全第一ですよ?)
こんな日は無理をしちゃ駄目なんですよね? もし怪我をしたらお肉街道まっしぐらです。鈴村さんと会話していた感じだと、私もヒヨリもそれなりに実績を残せたみたいです。そうなると、あと大事なのは怪我をせずに引退する事ですよね?
「ブルルルルン」(タンポポチャさんは元気かな?)
昨年末に引退したタンポポチャさんをつい思い出しちゃいます。そんな事を考えていたら、ヒヨリのすぐ横に海外旅行で一緒だったフラウさんが居ました。
「ブヒヒヒヒン」(フラウさんお久しぶりです~)
なぜかフラウさんとも視線が合ったので、ご挨拶をしておきます。ゼッケンの番号的にヒヨリのすぐ外みたいですね。
私がご挨拶をすると、フラウさんも頭をブンブンしてご挨拶を返してくれます。フラウさんにも雨の危険を伝えとこうかと思ったら、ヒヨリが私の視線を遮るようにずずいっと間に入っちゃいました。
「ブフフフン」(ヒヨリ、どうしたの?)
何か先程とは一転してご機嫌斜めな感じになっちゃったヒヨリですが、1番のゼッケンを付けているので早々にゲートに案内されちゃいました。
「ベレディー、そろそろゲート入りだからね。落ち着いてる? 大丈夫?」
何か何時も以上に鈴村さんが首をトントンながら私に声を掛けてくれました。
「ブルルルン」(落ち着いてはいますよ?)
鈴村さんも雨だから気になるのかな? ただ、何方かと言えばズボズボと脚が埋まる感じで、ダイエットのために走らされた砂場みたいな感じです。でも、砂場よりも更に重い感じでしょうか?
「ゲート入りだよ」
鈴村さんの声で、私も誘導されるままにゲートへと入っていきます。雨がゲートに当たる音が結構しますね。これも初めての事です。
「最後の馬が入るよ」
その音に気をとられていると、何時の間にか他のお馬さんもゲート入りが進んだみたいで、鈴村さんから声が掛かりました。私は何時ものようにグッと体を沈めてスタートの態勢になります。
ガシャン!
大きな音を立ててゲートが開きました。私は何時ものように駆け出しますが、一足一足ごとに脚が埋まるみたいな感じで、脚が芝に沈んで全然スピードが出ないのです。そんな私の視界の端では、内側から一頭スススと前に出るお馬さんが見えました。
ん? ヒヨリじゃないよね?
流石にヒヨリだと姉の威厳と言うものがですねっと、ちょっと焦ったのです。チラリとそちらを見ると、フラウさんが華麗なスタートを切っていました。
「ベレディー、頑張って前に付けるよ」
鈴村さんが手綱を扱くのですが、えっと、加速がですね。というか、沈んだ脚を1回1回抜かなきゃいけないと言いますか。
そうなんです。
当初思っていた様に雨で滑る事はないのですが、それより埋まるんですよね。良く考えたら、体重が500kgくらいあるんです。べ、別に太っている訳じゃ無いんですよ? 馬体が良いって言うんですよ? ただ、その500kgが動くわけですから、緩い地面だと、それは脚が埋まりますよね。
ダイエットの砂場でもこんな感じだったと思いながら頑張るんですが、リズムが合わないと言うか、全てが1テンポ遅れるような感じでしょうか?
そんな苦労をしている状態で、フラウさんが前を行くその向こう側にヒヨリの馬体がお尻だけ見えます。
・・・・・・ヒヨリさん、もしかして頑張ってます?
ヒヨリは私より砂場を走るのも得意でしたし、見る限りフラウさんと遜色ない感じで走ってますよね? そうで無いともっと遅れますよね? これは拙くないでしょうか? このままヒヨリに大差で負けたりしたら、今後ヒヨリさんと呼ばなくてはいけなくなりますよね?
そんな私は何とかリズムを掴もうと必死に脚を前に出します。ただ、小刻みに走らないと速く走れない感じです。
「コーナーまでにもう少し内に入るよ」
鈴村さんの手綱の指示に従う感じで内に寄っていきます。幸いな事に他のお馬さんもそれ程速度が出ていません。その為、タンポポチャさん走法に近い走りで何とか内に寄せていきました。そして、コーナーへ入る段階で、何とかフラウさんの後ろに入るかなと思った所で、やたらと泥やら芝付の泥やらが飛んでくるんです。
う~~、泥が嫌!
ただ、フラウさんより内側にいたヒヨリがスッと下がってフラウさんの真後ろに、そして私はヒヨリと並ぶ感じで最初のコーナーへと入る事が出来ました。
うん、ヒヨリさんお耳がピクピク、視線がバシバシしてますね。
外側に並んだのが私だと気が付いたヒヨリは、何か軽やかな走り・・・・・・では無いですね。ヒヨリもやはり走るのに苦労しているみたいです。ただ、ここ最近はヒヨリも私と一緒に砂場を走っていましたから、私より余裕がある感じでしょうか?
「ヒヨリも頑張ってるね」
鈴村さんがそう小さく呟くのが聞き取れました。今まで一緒に走っていたヒヨリの事を気にしていましたもんね。
ただ、コーナーを回っていると私の真後ろにもお馬さんが付いて来るのがわかります。コーナーを回りながらチラリと確認すると、何処かで見覚えが? あれ? 何時ものストーカーさんでしょうか?
う~ん、前にフラウさん、横にヒヨリ、後ろはストーカーさん、これは何か良く判んないですが大ピンチです?
◆◆◆
「ヒヨリも頑張ってるね」
寄り添うように横を走るヒヨリを見て、思わず言葉が漏れてしまった。
馬場の状態が悪化する中、ベレディーも、他の馬も同様にスピードが乗らない。そのお陰で思いの外好位置に着け最初のコーナーに入る事が出来た。
その中で先頭を走るのは、やはり2番と好枠を引いたプリンセスフラウだった。ただ、1番と最内にいたサクラヒヨリも負けじとその後ろに着け、苦手な雨の中でミナミベレディーもサクラヒヨリもベストの位置取りをとる事が出来た。
コーナーを回りながら、香織は今走り抜けてきた直線を思い浮かべる。走った感じでは、最内はすでに芝も剥げてコンディションは最悪になっていた。
最後の直線は、外に振った方が良いかな。
そんな事を思いながら、2コーナーを抜けて向こう正面へと入る。カーブを利用して後方を確認した感じでは、やはり真後ろについたトカチマジックと、その後ろにいるサウテンサンが脅威となるだろうか?
雨の重馬場で追い込み馬は厳しい事を考えトカチマジックも何時もより前寄りでレースを展開する様だ。何とかこのまま前残りで行きたい所だが、そう簡単にはいかないだろう。
向こう正面に入り、プリンセスフラウは息を入れる。騎乗しているミナミベレディーが何時もより小刻みのステップを刻んでいるのは、やはり雨の馬場を気にしての事だろう。
頭の良いミナミベレディーは、調教時はただ淡々と走るのだが、レースとなると、自分でその時に最適の走りを探るようなところがある。
「ベレディー、息を入れるよ」
そう告げながら軽く手綱を引く。すると、ミナミベレディーはリズムをストライド走法に近い走りに変え速度を緩める。そうすると、やはり走り辛いのか、すぐに小刻みに走り方を戻してしまった。
これで最後まで持つかなあ。
最後の直線にスパートするだけの余力が何処まで残っているか。まさに未知の領域のレースとなる。そして、ふと気が付くと内を走るサクラヒヨリも、何時の間にかミナミベレディーと同じ様な走り方に変わっていた。
「ベレディー、最後の直線まで我慢だよ」
3コーナーや4コーナーからのロングスパートするだけのスタミナは厳しい。慣れない雨の重馬場で、良くレースが出来ていると思う。ただ、この小刻みの走りで何時も以上にスタミナを消耗しているだろう。
ミナミベレディーは私の声を聴き、耳をピコピコさせる。
「頑張ろうね」
私は、そうミナミベレディーに声を掛けた。
◆◆◆
ゴールと反対側の直線に入った所で、すでに私は疲れてきました。何時も以上に脚に力を入れて走らないと、上手く走れないんです。脚が滑らないのはありがたいのですが、前に前にと脚を進める所を、上によっこいしょと引き抜きながら走る様な感じになるんです。
「ベレディー、最後の直線まで我慢だよ」
もう疲れてるの~~~。
鈴村さんの指示に思わずそんな思いが頭を過るのですが、問題は私の横を走るヒヨリなんです。チラチラとヒヨリを見るのですが、私程には疲れている様子が無いんですよね。思いっきり楽しそうに私に熱い視線を注いでくるんです。更には、走り方も何時の間にか私を真似して、より走りやすい感じに変化しています。
拙いですよ? 前から思っていますけど、ヒヨリは私より体力がありますから。このままだとヒヨリに負けるような気がしちゃいます。
それで何とかしようと思っても、思うように脚が動かないと言いますか、埋まった脚を抜くのに力が要るので、前に進む力が余分に必要なんです。困っていると、ふと前を走るフラウさんの走り方が気になりました。
う~ん、何か私より走り方がスムーズな気がします。何処が違うのでしょう? じっとその脚の運び方を見ているんですが、良く判りませんね。
フラウさんの後ろからじっとフラウさんを見ていたら、何時の間にかコーナーへとやって来ています。内側に相変わらずヒヨリがいますが、ヒヨリは何となく私とフラウさんをチラチラ見ています?
う~んと、どうしました? と尋ねたいのですがレース中では難しいです。
悩んでいる内にもコーナーが近づいて来ます。
「頑張ろうね」
うん、頑張るよ? でもね、疲れるの。
フラウさんを先頭に、私とヒヨリが並んでコーナーへと入りました。私はフラウさんから飛んでくる泥とかが嫌なので、ヒヨリよりちょっと外寄りで走ります。3コーナーから4コーナーへ入った所で何時もならスパートする私なんですが、そのままフラウさんの後ろにいるんです。
その為、ストーカーさんが私の外から抜きに来ました。
「ベレディー、まだよ」
一瞬、抜かれない様に速度を上げようとハミを噛み締めます。すると、鈴村さんから注意されちゃいました。
どんどんと並びかけて来たので、ちょっと睨みつけてやります。ただ、抜きに来たストーカーさんも、あまりスピードが出ないみたいですね。騎手さんが必死に手綱を扱いているのが見えました。
そして、更に後方からも追い上げて来るドドドという音が聞こえて来ます。
う~ん、このままだと不味い気がしますよ? 大丈夫なのかな?
「べレディー、ゴール前200mの所で急な上り坂があったよね」
鈴村さんも雨のせいなのと、前から飛んでくる色々な物で話し辛そうです。
「スタミナ切れだと、あそこで、脚が止まるの」
成程と思いながらも、ちょっと不安に思う私です。間もなく最後の直線に入る所で、フラウさんが少し外へ膨みます。その一瞬で最内にいたヒヨリが一気にスパートしてフラウさんを抜きにかかりました。その際にヒヨリをチラリと見たのですが、何かすっごいフラウさんを睨んでいます?
ヒヨリから凄い気合が感じられます。此の侭だとヒヨリにも負けそうな気がしますよ?
私は更に心配になるのですが、鈴村さんからはまだ指示が出ません。その間にも4コーナーを回り直線に入りました。フラウさんとヒヨリからは1馬身半くらい、横から来たストーカーさんとは半馬身くらい遅れています。
「ベレディー!」
鈴村さんの手鞭が入って一気に速度を・・・・・・上がらないです?
思いっきり足下がとられて思うように速度が上がりません。ただ、それは前を走るフラウさん達も同じようで、直線に入った時の差は広がりも縮まりもしません。
拙いよ~~、ヒヨリに負けちゃうよ~~~。
姉の威厳がですね、ピンチなんです! 嫌いで苦手な雨なので仕方が無いと言えるかもしれません。それでも、レースでは違うのですよと言い続けてきたのです。姉の尊厳がなんです!
必死に脚を動かして前に追い付こうとしていると、ヒヨリやフラウさんとの距離が詰まってきました。何でかな? って思っていたら、この段階でヒヨリ達の頭が上がり始めています。
あれ? スタミナ切れでしょうか?
ちょっと不思議に思いながらも必死に首の上げ下げをして、更に蹴り足に力を込めます。ただ、今回ドロドロの芝を走っていて思ったのは、蹴り足に力を込めるより、泥濘から脚を抜くのに工夫が要りますね。
そんな事を試行錯誤しながら走っていると、漸く外を走っているストーカーさんにほぼ並びました。この段階でヒヨリは私よりやや後退、フラウさんも何か突然ズルズルと下がり始めちゃいました。
何か前にもこんなフラウさん見ましたね。
そんなフラウさんとヒヨリさんを気にしていたら、ヒヨリより更に内側からも1頭上がって来るお馬さんの姿が見えます。
「ピッチ走法!」
そんなヒヨリ達を気にしていたら、鈴村さんが指示と共に首の所をトトンと叩きます。私は咄嗟に条件反射でタンポポチャさん走りに切り替えました。
ただ、思いっきり脚が疲れています。思うように脚が動きません。これで最後の坂って虐めでしょうか?
最後の坂を駆け上がるのですが、此処でも脚がズボズボするので、後ろに蹴り上げるような走りになっちゃいます。この段階でヒヨリとフラウさんの勢いが完全に止まっちゃいました。
「ベレディーがんばって!」
でも、姉の威厳は保てそうよ?
坂の途中でヒヨリとフラウさんを完全にかわして前に出ました。
うん、もう大丈夫そうだよね。
必死に脚を動かしながらもそんな風に安心していたら、私の外にいたストーカーさんが再度伸びてきて私より前に行きます。
うん、まあ雨だし、ヒヨリには勝てそうだし。
そんな事を思っていたら、ストーカーさんが私をかわし際に思いっきり人の顔に泥をぶつけていきました。
・・・・・・な、な、な、ストーカーの癖に~~~~!
憤怒ですよ! この私の綺麗なお顔に泥をぶつけるなんて! せっかく出来るだけ泥を被らないようにしてきたのですよ!
絶対に前に出て泥をぶつけ返してやるんです!
私は必死に前に出たストーカーを追い越す為に脚を動かします。
むぅぅ、出来れば華麗に抜き去って泥をぶつけたいのですが、中々速度が上がりません。
それでも必死に脚を動かして並びはしたんですが、そこから前に出れないのです。
鈴村さんが必死に頭の上げ下げを手伝ってくれます。私も意識して頭の上げ下げをして、何とか蹴り足に力を込めました。
「頑張れ! 頑張れ!」
あと少し~~~! 少し前に出たけど、此処からだと泥をぶつけるのは不可能なのです。あと少し前に出ないとです!
何とかあと半分前にと思っていたら、鈴村さんが突然手綱を引きました。
「お疲れ! 雨なのに頑張ったね。ベレディー凄いよ!」
ん? まだ泥をぶつけていませんよ?
鈴村さんが手綱を引いたので、一気に速度が落ちちゃいました。その為、あのストーカーさんは遠くに行っちゃいます。
でも、集中していたせいで気が付かなかったんですが、息が思いっきり苦しいです。今更ながらに全然息が整わないです。何かもうヒュゴーヒュゴーみたいな音をさせてお鼻で息をしています。
ストーカーさんに泥をぶつけられなかったのは残念ですが、ヒヨリには勝ったので姉の威厳は守れたよね?
最後の方は忘れちゃっていましたが、其処が大事なんですよ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます