第186話 宝塚記念前日の一コマ

 前日から雨が降り続く中にあって、阪神競馬場の馬場はまだ何とか稍重という状態を維持していた。近年コース上の水捌けを良くしており滅多に重とはならないが、それでも降り続ける雨で馬場はぬかるみ荒れ始めている。


「明日の宝塚記念は荒れるな」


 宝塚記念の前日、鷹騎手は阪神競馬場で開催された3つのレースに出走し、1着、4着、9着と何とか1勝を挙げれた事にホッとする。それというのも今日の段階で既に馬場は稍重となり、レース自体も上位人気が総崩れしたレースなども有り、全体的に荒れたレース展開になっていた。


「まあ、3歳未勝利とかは元々人気通りにいかないけどね」


「それでも人気馬に騎乗したら勝たんとな」


 自身の呟きに対し突然声を掛けられ、鷹騎手は驚いて後ろを振り向く。


「磯貝調教師、驚かさないでくださいよ」


「ふん、9着なぞ不甲斐ない結果を出しよって」


 3歳以上1勝クラスで行われたダート1200mで鷹騎手は9着となった。そして、そのレースで騎乗した馬が、よりにもよって磯貝調教師の所の馬だったのだ。


「さっき謝ったじゃないですか。ただ雨だと走りませんねぇ。そういう馬は多いですが、最後の直線で追っても追っても全然ダメでした」


「まあ、それ程切れがある末脚という訳では無いからな」


 当たり前だが、磯貝厩舎に預託されている馬の全てが優秀という訳では無い。


 実際の所、素質馬も勿論いるが、馬主との付き合いの過程で預かる事となった馬の方が多いのが実情だった。その今一つパッとしない馬であろうとも、何とか勝利するように出来る調教師が、一流と呼ばれるのであるが。


「もう少しスタートが良いと楽なんですがね。今日のように8番と外からのレースだと、雨を抜きにしても厳しいですよ」


「それでも1勝しているからな。ただ、ここからがキツイな」


 実際の所、競走馬で1勝する事も出来ずに引退していく馬は圧倒的に多い。デビューした競走馬の中で1勝出来るのは、全体の四分の一くらいの馬しかいない。そして、その中で更に2勝目となると更に数は減っていく。


「この時期の3歳未勝利は、ピリピリしていますからね」


 まもなく6月も終わる。1勝も出来ていない3歳馬を所有している厩舎としては、そろそろ焦り出す時期でもある。


「ダートで走れるなら良いが、ダート適正が無いとな」


「地方へ回っても目が出ないですからね」


 磯貝調教師の言葉に、鷹騎手も頷く。そんな二人の目の前では、今日の最終レースが始まろうとしていた。


「で、宝塚記念はどうだ?」


「突然来ますねぇ。そうですね、まあ厳しいんじゃないですか?」


 今年の宝塚記念は、磯貝厩舎からの出走馬は残念ながらいない。ただ、鷹騎手自体は、皐月賞4着、ダービー5着、菊花賞7着と善戦するが勝ち負けに絡めない4歳馬ショウコウシに騎乗する事となっていた。


「俺の見た所、あの馬は重馬場では様変わりするかもしれん」


「さあ? どうでしょうか?」


 いつも飄々とした態度の鷹騎手であり、磯貝調教師にもその本心を窺わせる事は無い。


「ミナミベレディー、サクラヒヨリは明日のレースでは厳しそうだな」


「雨ですからね。サクラヒヨリは2歳の時しか知りませんが、雨の日のレースはそれこそ走りませんでした。今は判りませんが、オークスの時もそうでしたから、今も本質は変わらないかなと」


 馬の蹄の形状で、ある程度は得意不得意が見えて来る。それでも、芝の状態如何によっては掲示板迄は載せてくるかもしれないが、勝ち負けとなると厳しいだろう。


「ふん、まあうちの馬は出走しないから関係ないがな」


 自分が話しかけて来たくせに、磯貝調教師は言いたい事を言うとさっさと帰って行く。その後ろ姿を鷹騎手は苦笑を浮かべて眺めるのだった。


◆◆◆


 祐一達は、明日に迫った宝塚記念の分析を自分達なりに行っている最中だった。


「う~ん、ミナミベレディーが圧倒的にガチガチの二重丸だな」


 篠原先輩が今週頭に発売された競馬雑誌を見ている。


「何と言っても昨年の年度代表馬だからね。今年に入ってシーマクラシックも勝利しているし、人気で言えばダントツだ。ただ、ミナミベレディーの追い切りは今ひとつだよな」


 木之瀬が今週水曜日に発売された競馬新聞で、宝塚記念出走馬の追い切りタイムを見比べる。


「もともと追い切りはタイム良くないよね、ミナミベレディーって」


「馬体重は有馬記念の時と比較して増減なしだな。悪くないんじゃない?」


 競馬サークルであるが故に、一応は各出走馬のデータ分析も行っている。


「サウテンサンが良さそうだけど、芝2200mは短いかな?」


「菊花賞と春天だからなあ」


「明日は雨だから、馬場は稍重くらいか? ただ、サクラヒヨリは雨で大負けしているし、オークスでも負けてる。ミナミベレディーも2歳牝馬優駿で負けてるよな。この血統ってもしかしたら雨は駄目じゃないか?」


「え? そうなの? それならミナミベレディーって休養明けも勝率高く無いよね? もしかしたら飛ぶ?」


「飛んでくれたら万馬券行くかな?」


 相変わらず大穴狙いの山田さんと加藤さんは、話を聞いてミナミベレディーが飛ぶ事を想定しての馬券選定に入った。祐一は、そんな二人を見ながら、これでミナミベレディーが1着に成ったら、また文句を言われそうだと苦笑を浮かべる。


「トカチマジックは安田記念との間隔が短いですよね? これってどうなんですか?」


 今年の新入生で、木之瀬が勧誘して来た川瀬さんが、こちらも競馬新聞を見ながら尋ねて来る。


「一概には言えないかな? 連闘に強い馬もいるし、安田記念は距離が1600mだからね」


「馬体重の増減が一つの目安か? それも当てにならないけどさ」


 サークル内を、それぞれの意見が飛び交う。


「でも、この出走馬表って今一つ見方が判らないんですよね。上か下のどっちが最近のレースの結果か判んなくて戸惑いました」


「うん! それ判る! 私もそうだった!」


 川瀬さんに道連れにされてサークルに入った武田さんも同じことを思っていたのか、笑いながら競馬新聞を見ている。


「これって、前走で1着を獲っている馬が良いとは限らないんですよね?」


 武田さんが何となく会話の外にいた自分に話掛けて来た。


「そうだね、ここで何番人気の枠がどれって見れるし、前に走ったレースの馬場状態も見れるから。何より出走レースのランクによって一緒に走った馬達の質が全然違うからね」


 祐一は、競馬新聞を見ながら一つ一つ説明していく。


「う~、余計にどの馬にすれば良いのか判んなくなっちゃいます」


「だよね! 思いっきり目が滑っちゃいます。内藤先輩は、どの馬を買うんですか?」


「僕はミナミベレディーを含めたサクラハキレイ血統の馬が好きだから、ミナミベレディーとサクラヒヨリで行くよ。競馬は自分のお気に入りの馬が勝ってくれると嬉しいって楽しみ方もあるから」


「あ、応援馬券ですよね! でも、勝っても全然儲からないですね」


「まあ応援馬券だからね。勝って欲しいって思いを込めてサクラハキレイ血統が走る時はその馬を軸にする」


「そっかあ。ミナミベレディーってテレビで出てた馬ですよね? 他のお馬さんと仲良くて、レース後にすぐにお互いにグルーミングしてて可愛かった」


「私も見ました! あれでお馬さんに興味出たんですよ。それまで、競馬って何か敷居が高いって言うか、おじさんがやるものってイメージがあって」


 実際の所、競馬はギャンブルだというイメージが強いのは確かだろう。自分だってサークルに入る前は、競馬場は競馬新聞と赤色のペンを持ったおじさん達がいっぱい居るといったイメージがあった。もっとも、あれは漫画などで得た知識で、実際にその光景を見た事がある訳ではなかったのだが。


「まあ、それでも競馬場はともかく、場外馬券売り場なんかは、そんなおじさんまだいるけどな」


「いるねぇ。時間ギリギリなんかだと買えなさそうなおっさんの怒号が後ろから飛んでくるぞ」


「え~~~~」


「うそだ~~~」


 何時の間にかサークル仲間が集まって来て、競馬場あるあるなどに話題が変わっていく。


「競馬場の食べ物は意外と美味しいよ」


「先日のオークスで初めて目の前で芝を見た時は感動しました! 思ってた以上に綺麗でした!」


 それぞれのの感想が出ている中、祐一は置かれていた競馬新聞を手に取った。


「あ、まだ馬選んでなかった。知世ちゃん、早く選ばないと」


「うん、脱線しちゃった」


 そんな新人二人に山田さんと加藤さんがアドバイスを始めた。


「内藤君みたいな買い方もあるけど、私なんかは万馬券狙いだけどね。1000円が上手くすれば10万円以上になれば凄いよねって、未だに当たった事は無いけど」


「当たったら、二人で乗馬クラブに入ろうかって言ってるんだよね~」


 そう言って笑う山田さんと加藤さん。ただ、その二人に相変わらず木之瀬が要らない事を言う。


「二人が今まで馬券に使った金額で、乗馬クラブの入会金の半分ぐらい行ってないか?」


 その言葉に猛然と二人が抗議し始めて、木之瀬がタジタジになる。


「色んな楽しみ方があるんですね」


「だね。あと今年卒業しちゃった先輩で、名前が面白いからで買い続けてたっていう人もいたし、初めて勝てた馬券の馬を買い続けてた人とかもいたよ」


「なるほど~」


 競馬の楽しみ方は、人それぞれである。


「そうだな、最近だと競馬ゲームから入って来た人も多いからな。そういう人は血統で追いかけたりするね」


「うん。俺達より昔の馬に詳しいな」


「前に競馬場であった大学生達は、思いっきりゲームから来た人達だったね。僕らが生まれる前の馬まで気にしてた」


 そんな会話をしながら、とりあえず明日購入する馬を決めて行くのだった。

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